転成した悪役令嬢ですが、なんと婚約者はパパだそうです
もし需要があれば、長編として書く……かも?
「サーシャ……君を愛している。君は僕の理想の花嫁だ」
「え?」
煉瓦作りの外観に、暖かみのある木造で作られた内装。広いリビングには巨大なテーブル、椅子、ソファーが並び、趣味のいい調度品が嫌みにならない程度に配置されている。
家族で過ごす時間。午後七時。食欲そそる香りを放つ夕食を前にして、サーシャの時間が止まった。
雪降る夜。一般的に聖夜と呼ばれている一日。サーシャは突然そう告げられ、呆然とした。
「今……なんて言ったの? パパ?」
何よりも、衝撃的だったのは、その言葉を継げたのがサーシャの父親だった事だろう。つい一時間前まで、何の問題もなく機能していた親子関係。そこへサーシャの父――――シェインはその十数年もかけて作り上げた関係を台無しにするように、言葉のハンマーを振り下ろす。
「愛している。結婚しよう」
今度こそ、サーシャにとって決定となる一撃。サーシャは泣き笑いのような表情を浮かべながら、言う。
「……冗談はやめてよ……パパ……」
訳も分からず、サーシャの身体は震えた。震える肩に、シェインは手をかけ、サーシャの顎を持ち上げる。
「……パ……パ?」
小さなサーシャの唇から漏れる声は、恐怖でかすれていた。じっとサーシャを見つめるシェインの瞳に、サーシャは親愛の情以上の熱を感じ取ってしまったから。
ゆっくりと、サーシャの唇に向けて、シェインの顔が近づく。加齢と共に、シェインの顔には僅かながら皺が目立ち始めているものの、それでも三十代後半の同年代男性と比べると遙かに若々しかった。男らしい短く刈り取られた金髪に、長い睫。父親として友人に紹介すると、友人達は黄色い悲鳴を上げてサーシャを羨んだ。その反応をサーシャも誇らしく思って、シェインはまさに自慢の父親だった。
だが――――
「ぃや……じょ、冗談……だよね……?」
サーシャは断じて、シェインを男として見たことはない。血の繋がった実の父親。深い尊敬と親愛は持ち合わせているが、それが恋心に変わるはずもない。
しかし、そんなサーシャの戸惑いなど、シェインには届く訳もなく、
「あ……んっ」
「……サーシャ……」
情けも容赦もなく、熱いシェインの熱い吐息を口元に感じたと思えば、いつの間にかサーシャの唇は塞がれていた。いつか、大切な人に捧げようと、とっておいたファーストキス。そこに想像していた甘さは欠片もなかった。ただ、苦い味と苦い思い。
「ひっ……ふぁっ……」
手をバタつけせようと、サーシャは力を込めるが、すぐにシェインに押さえ込まれる。やがて、唇をこじ開けようと、ヌルリとした感触がサーシャの唇を撫でた。それが何で、これからどうなるか、サーシャが悟った瞬間、サーシャの脳裏を電流が走った。
「い、いやああああっ!」
渾身の力を込めて、サーシャをシェインの身体をほんの少しだけ押し戻す。
「サーシャ……サーシャ……っ!」
それでも懲りずに、何度もサーシャの名前を呟きながら口づけを迫るシェインの顔をサーシャは思いっきりぶつ。
「ぐえっ!」
シェインの顔が一瞬だけ変な方向を向き、シェインは首を押さえてうずくまった。逃げるなら今しかない! そう思ったサーシャは何度も躓きながらも、その場から駆け出し、なんとか自室に逃げ込む事に成功したのだった。
「う、うそぉ……」
サーシャはフラフラと天蓋付きの大きなベッドに歩み寄ると、その上にバタリと倒れ込んだ。そして、頭を抱えて――――
「え? 私の人生詰んでない?」
そんな本音を漏らした。
「私……サーシャ、なんだよね?」
彼女はサーシャ。公爵家の長女――――サーシャ・ウィル・アークライトだ。だが、同時に、彼女には生前の記憶が宿っていた。平凡なOLとして働いて、信号無視の車に轢かれて死んだ運の悪い女だった時の記憶。そして、彼女はサーシャ・ウィル・アークライトという名前に、覚えがあった。彼女が生前最後にプレイしていた乙女ゲームに出てくる悪役令嬢の名前だ。
ヒロインに酷いイジメを繰り返し、ヒーローに力を借りたヒロインに逆襲され、最後は自殺した最低最悪な女の名前。
「それが……私なの?」
サーシャは信じられない気持ちで一杯だった。自分が悪役令嬢という役回りや、ここが乙女ゲームの中である事はもちろん、さっきまで自分がされていた事に対して、まるで現実味がなかった。
「そうだ……パパ……」
サーシャはついさっきまで父親に口づけされていた事を思い出し――――
「うっ……ぇあっ」
口元を抑えながら、嘔吐いた。ただただ、気持ちが悪かった。同時に、どうして父親であるシェインが急に豹変してしまったのか、困惑する。視界が揺れ、世界が揺れている。不安感に、サーシャは押し潰されそうになっていた。
前世の記憶が戻り、精神年齢の若干上がった彼女ですらこれなのだ。十五という幼い生身のサーシャだったら、文字通り潰されていたのかもしれない。
その果てに、イジメを繰り返して、
「――――自殺……」
それだけが、妙な現実味を持っている。なまじ、彼女が『死』を経験しているからかもしれない。彼女にとって『死』とは苦痛に彩られた酷く残酷な事だった。
「血まみれで……身体がだんだん動かなくって……声も出せなくて……痛みはあるのに、どんどん世界から切り離されていくように寂しくて……」
サーシャは自分の身体を自分で抱きしめた。『死』を意識すると、前世での死の恐怖、経験が脳裏を濁流のように過ぎ去っていく。
「……でも!」
サーシャはベッドの上で身を起こした。サーシャは何よりも、死にたくなかった。ファーストキスを奪われた悲しみや怒りはもちろんある。でも、それ以上に、死の恐怖が勝っていた。なんとか、現状を変えなくてはならない! このまま放っておけば現状が改善されるならば、サーシャは自殺なんてしなかった
はずなのだから!
サーシャは護身のためにカッターを手に取ると、父の元へと再び姿を見せた。
「お……サーシャ、痛いじゃないか」
シェインはサーシャを見つけると、首筋を押さえながら、なんとも軽い調子で声をかけてくる。サーシャはそのいつもの様子のシェインに気圧されつつも、カッターを突きつけて言った。
「パ、パパ! 私達は親子なんだから、変な事を言わないで! いつものパパに戻ってよ!」
なんとなくパパという呼び方が恥ずかしくて、どもってしまった。前世では一度もパパなどと父親を呼んだことはなかったのだ。
サーシャは未だに、元の関係に戻れるのではないか、そんな夢想を捨てきることができなかった。だからこそ、次のシェインの言葉はサーシャの胸に深く突き刺さった。
「何を言ってるんだ。僕とサーシャは血は繋がってないんだ。だから問題ないんだよ」
安心しなさいとでも言うように、シェインはにこやかにそう言った。
クラリと、サーシャはよろめいた。
「ちょっと待ってて!」
サーシャはシェインにそう言うと、風のように再び自室に引っ込んだ。
「どういう事! どういう事! どういう事なのっ!?」
だんだんと素に戻ってきている事を自覚しながら、サーシャはベッドの上で身悶える。
サーシャとシェインの血が繋がっていない。真偽は不明だが、予想もしていない事態だった。今日この日まで、親子関係を疑ったことはなかった。
「いや……」
待てよ……サーシャは考える。
今まで、ずっと二人で暮らしてきた。高貴な家柄という事もあって、家の家事なんかは全てメイドがやってくれていた。思い返せば、下着の位置が微妙に変わっていたり、枕の位置が変わっていたりすることは、よくあった。それは、洗濯やベッドメイキングを終えたメイド達がやってくれていたんだろうと、サーシャは思っていた。
「そうだ……なんか時々下着のたたみ方が変なのがあったんだ……」
私は慌てて仲の良いメイドの一人を部屋に呼び寄せた。
「申し訳ありませんでした!」
呼び寄せたメイドのジェフィーは、私が事情を聞くと共にどんどんと青ざめ、平服した。頭を床に擦り付けるように謝罪の言葉を述べるジェフィーに、サーシャは内心の落胆を隠せない。屋敷でも最高齢に値するメイド長でもあるジェフィーは、可哀想なくらいに身体を震わせ、目尻に涙を浮かべている。
「どうして……」
信頼していたメイドに裏切られた。その悲しみがサーシャの胸中に満ちる。
「申し訳ありません! 私共では、旦那様をお止めすることができませんでした!」
「私共……」
つまり、公然の事実だったという訳だ。少なくとも、サーシャ以外の間では。
「っ!」
サーシャの瞳からボロボロと涙が零れる。サーシャは自室のタンスを開け放つと、中に入っている服という服、下着という下着を放り出した。ついでに、ベッドのシーツと枕も一緒にジェフィーに向かって放り投げる。
「これ全部処分して!」
ジョフィーは平服したまま、「かしこまりました」と小さく呟いた。
「もう許せない!」
涙を拭うと、サーシャはジェフィーを放置して部屋を飛び出した。相変わらず暢気な顔でソファーに座ってお茶を啜っているシェインの襟首をサーシャは掴む。
「事情を説明してよ!」
ギロッとサーシャはシェインを睨み付ける。
しかし、シェインはサーシャの激情など、どこ吹く風といった様子で軽く受け流した。
「何の事?」
その態度に、余計サーシャの心に火がつく。
「何の事じゃないわよ! 結婚ってどういう事?! 血が繋がってないってどういう事?!」
「おいおい、落ち着きなよ」
「パパが嘘ばっかりつくからでしょ!?」
これではまるで、サーシャがヒステリーを起こしているようじゃないか。サーシャには、どうしてシェインがこんなにも余裕を見せていられるのかが分からない。
涙目でシェインを睨み付けていると、唐突にシェインが動いた。唇を突き出して、顔を寄せてくる。それは、明らかに――――
「ふざけなでっ!!」
サーシャは今度は反対側の頬をはたき飛ばす。襟首を掴まれていて、力の逃がし所がなかったのか、シェインはまたしても首を押さえて呻いた。それでも、サーシャが根気よく睨んでいると、ようやく観念したのか、シェインは身体から力を抜く。
「分かったよ」
そして、シェインは話す出した。
シェインの話を纏めると、こういう事のようだ。
シェインには昔、婚約者だった女性がいた。二人が十八になると同時に結婚が決まっていて、それまで純血を互いに守ろうと誓っていた。
しかし、シェインは偶然、婚約者の浮気現場に遭遇してしまった。シェインが式の内容について婚約者の意見を聞こうと家に訪れ、部屋に案内されると、そこで婚約者と浮気相手が抱き合っていたのだ。……裸で。
それからというもの、シェインは女性不信に陥ってしまった。しかし、ある切っ掛けで、シェインは光明を見いだした。それは、シェインの家が援助している孤児院を訪れた時だった。シェインはそこで、子供達の純粋さを目の当たりにし、感動した。
そして、こう思ったのだ。
――――この天使のように清らかな子供達を、清らかなまま育てられれば、僕でも愛せる理想の女性になるんじゃないか、と……。
そうして、本当にたまたま、その日に捨て子として孤児院に連れられてきたサーシャが選ばれた。
娘ではなく、シェインの婚約者として。
「私は……パパの……ううん、貴方の娘ですらなかったのね……」
サーシャはショックだった。
前世の記憶があっても、なおショックだった。
でも、今なら言うことができる。
籠の鳥として育てられてきた。本当の両親には捨てられ、頼れる大人はもういなくなった。
だけど、なんとか、今なら一人で生きられる最低限の知識と覚悟があった。
サーシャは父にビシッと指を突きつけハッキリといった。
「パパのお嫁さんになるつもりはありません!」
シェインがどういう反応を示すか、サーシャ少し不安だった。しかし、以外にもシェインの表情はにこやかだった。そして、そのままの表情でシェインは言うのだ。当たり前のように。
「そうか。……なら、明日にでもサーシャの妹を連れてこないとね」
「はい!?」
私は絶句し、硬直した。
そんな私を尻目に、シェインは電話の受話器を手に取り、どこかへ電話をかける。その番号に私は心当たりがあった。孤児院の番号である!
「ちょ! ちょっと!」
私がこの後の展開を察し、慌ててフックスイッチを横から手を伸ばして連打する。ぜぇぜぇと息を荒げるサーシャをシェインは不思議そうに見て、首を傾げる。
「何をするんだ?」
「何をするんだじゃなーいっ! どこに電話かけてるのよ!?」
「孤児院だけど」
「何のために!?」
「新しい婚約者の都合をつけてもらうために」
パン! パン!
サーシャがシェインの頬をさらに叩いた。二発連続で。
「このロリコン親父!」
「失礼な。僕は純粋な女性が好みなだけだよ」
「大人の女の人にも純粋な人はいるわよ!」
「いや、いないね」
自信満々にシェインは言い切った。
「どうしてそんな事言い切れるのよ!」
「女っていうのは、長くは純粋ではいられない生き物だからさ」
その女を馬鹿にした態度にサーシャはわなわなと震えた。
「あなたは何もわかってない! そこまで言うなら私が本当の女っていうのを教えてあげるわ! 女はあなたの所有物じゃない!」
シェインがニヤリと笑った。
「いいよ。期限は一年。それができなかったら結婚ってことでいいよね? 結婚したら基本的にこの屋敷の中だけで生活してもらうよ」
「え……い! いいわよっ!」
正直、サーシャは勢いがその九割を占めていた。だから、矢継ぎ早に条件を突きつけられ、若干涙目になる。しかし、ここまでくればもう引けない。女は度胸とばかりに、サーシャは突き進んだ。
「じゃあ今から。はいスタート」
シェインが手を叩く。日付と時刻を確認し、私に告げた。
「来年の十二月二十五日が期限だ。結婚式はそうだな……再来年の六月辺りがいいかな」
「結婚なんかしません!」
「そう。じゃあ早く『大人』の女性の素晴らしさを僕に教えておくれ。ほれ?」
「…………」
そう急に言われても、頭に思い浮かぶ事はなかった。
「どうしたの?」
「え、えーと……そ、そのぉ……」
煽るシェインにサーシャは焦るばかり。やがて、限界に達したサーシャは、
「と、とりあえず今日はなし! 明日から!」
そう言い残し、自室に逃げ込むのだった……。
サーシャが自室に戻ると、そこには下着や服、枕やシーツのない寂しい光景が広がっていた。
「あ……」
そして、サーシャは気付く。
「着替えどうしよう……」
今日の着替えすらも、全部放り投げてしまったことに……。
そうしてその日から、サーシャの受難の日々は始まったのであった。