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切り替えは早い方だった。過ぎたことは仕方ないと持ち直すだけの図太さは生れつきで、反省はしてもそれをぐだぐだ悩むことは一切なかった。ましてやないと分かっている『もしも』を探したり、闇雲に動き回るなんてしたこともなかった。
けれど、それはどうやら私が生きてきた小さなスケールに限ってのようだったらしい。許容量を越えたものにぶつかったときまで図太さを発揮できるほど、私は前向きでもアイアンハートでもなかった。
「…なにしてんだろ。」
ざわざわと目の前を大きな足が行き交う。つい一刻前まで上から眺めていたものが、ぺたんと体育座りした私の目の前にある。人の足、人じゃない足、よく分からない足。基本的にそのどれもが私のそれよりも大きくて、背丈も見合った高さを皆さん持っていらっしゃる。下手したら私なんて子供サイズだ。埋もれそう。
「………異世界…。」
ぽつりと呟く。宿で浮かんだ馬鹿らしい答えがいよいよもって現実味を帯びてきた。
リーヴェルトさんの言い付けを破って、外に出て、駅を探して。迷子と思われたのか、市役所っぽいところに連れていかれて、お家どこ?と地図を拡げられた。読み方がさっぱりだった。まあ元々地理は苦手だけども。
けれどそのとき、チャリンと後ろで音がして。
振り向いた先の見覚えのない硬貨に、急に夢から覚めたような心地がした。
別に小銭マニアだったとかではない。けれど何故か、そのお金らしき硬貨を見たときにどっと何かが頭に押し寄せた。それまで帰れるものだとなんの疑いもなく思えていたのに、途端にすごくばかばかしい期待を抱いていた気分になったのだ。
それはまるで、自分は鳥だと信じていたのに、お前に翼はないんだよ、と教えられたような。
その後、どうやってその施設から出てきたのかは覚えていない。気付けばここに座り込んでいた。
浮かぶのは家族のことだ。今頃何をしているだろうか。遅いなあって怒ってるかな。向こうは何時くらいなんだろう。もしかして捜索願とかだしちゃってるのかな。嫌だな、学校でからかわれちゃうよ。学校で、
(学校…。)
『帰りたい。』
「………っ、」
唐突に沸き上がった衝動に、咄嗟に私は両腕を抱いた。胸につかえる何かを吐き出したくて体を絞るのに、縮んだ肺からは空気しか出てこない。
「…………っ。」
帰りたい。
帰りたい。帰りたい。
ここはどこ?みんなはどこ?ねえ、迎えに来てよ。お母さん、お母さん。昔みたいに、ねえ、迎えにきて。
私を見つけて。
布団に行きたい。私のお布団。お日様の匂いと、たまに潜り込んで来る飼い猫の匂いがするお布団。
お腹が空いたの。お母さんの肉じゃが食べたいな。ちょっと甘くて、じゃがいもがすごく柔らかいやつ。所々が少し焦げてて、そこが一番美味しくて皆で取り合うの。
会いたい。お腹が空いた。ほっとしたい。
帰りたい。
「……、…ぁ…さん…。」
ガチガチと鳴る歯を噛み締めて縮こまる。時折、何人かの視線を感じたが顔を上げられなかった。こんなぐちゃぐちゃで、まともに話さえ出来そうにない状態で、誰かと−−−もしかしたら人じゃない人と、目を合わせるなんて、とても無理だった。
むかえにきてよ、おかあさん。
じゃり。
ふいに、近くで砂利を踏む音が聞こえた。
「…何をしている。」
「…………。」
落ちてきた静かな声。荒れ狂う思考の波をかい潜って、少し低いその声はするりと私の耳に届いた。聞き覚えのあるそれに、私はゆっくり瞬きをする。
「…………。」
「…………。」
元々無口な彼は、それ以上何も言わなかった。私は何も返せなかった。それでも、彼がまた砂利の音をさせて距離を縮めたのを感じた。
衣擦れの音。気配が近づく。
「…悪かった。」
声が、予想外に近い。それに気づいた私はのろのろと顔を上げた。見上げた彼はホントに近くで、ちょっとびっくりする。
「悪かった。」
もう一度、彼は繰り返す。ようやくかけられた声の意味を理解した私は、ゆっくりと首を傾げた。何故、彼が謝るのか。
のそりと、彼が動く。またあのすごく滑らかで丁寧な動作。負担なく持ち上げられた体は、少し低い彼の体温だけを感じた。
私が抵抗しないことを確認して彼は歩きだす。森の中での彼の競歩並のスピードを思えば、違和感を感じるくらいにゆっくりと。
誰のためかなど、考えるまでもない。
「…ごめん、なさい。」
「…………。」
「待ってろって、言われたのに。我慢、できなくて。」
「…………。」
「その上、こんな。」
「…………。」
「……ごめんなさい。」
彼は答えない。呆れられたかな。呆れたよね。だって折角助けてやったのに、お礼も言わずに勝手に消えて。
(でも、むかえにきてくれた。)
まるで心の声に応えるように現れた彼。母親ではないけれど、求めたものではないけれど、その事実に縋りたくなるほどの何かを抱いた。
ふいに、今まで沈黙していた彼がぎこちなく手を動かした。私を抱える左手ではない方の手。その腕が背から外され、そぅ…と後頭部を抑える。その手に促されるまま顔を下ろすと、彼の肩口に埋まってしまった。
「一人にして、悪かった。」
ああ!
「…………っ、」
もう、堪えられなかった。急速に覚めた夢はあまりにも私の頭を掻き乱していった。
ここはどこ。お家はどこ。ドラゴンってなに。
ぐるぐるぐる。吐き気がする。自分の感情が目茶苦茶過ぎて、どこかに流されてしまいそうだった。それが怖くて、私は必死にリーヴェルトさんのコートを握りしめる。
本当は、そんなことないって言いたい。あなたが謝ることじゃないって。勝手に動いてごめんなさいって。でも、意味不明な呻きを噛み殺すしか出来なくて、一つも言葉にならなかった。
ごめんなさい。ごめんなさい。
ありがとう。
その日から、私とリーヴェルトさんの旅は始まった。