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初連載。見切り発車ですいません。
―――バチン…ッ。
炎の爆ぜる音に、ふうと意識が持ち上がる。開いた薄目に、揺らめく橙の光が優しく翳った。
と、すぐに大きな掌が視界を覆う。
「…リヴ、さん…?」
「…………。」
返ってくるのは沈黙。しかし目元に感じる温度は優しく視界を閉ざし、まるで今少しの眠りに私を誘うようだった。それに抗うことなく、体を包むかたくやわらかい腕に身を預ける。
それは、星の綺麗な夜のこと。けれど、何度でも繰り返される優しい夜のことだった。
※ ※ ※ ※
私は一年前まで普通の高校生だった。いや、普通のというか、受験戦争真っただ中の高校三年生だった。今までの人生の中で一番勉強して、部活して、充実していてでも辛い、そんな生活をしていた高校生だった。ありふれた、学生特有のものをここぞとばかりに味わう高校生。
それが今では星空の下、足元までの外套に包まり2mを超える男性の腕の中に収まって眠っている。
何故そんなことになったのか、それはいまだに分からない。分からないが、どこかからか“跳んだ”のだろうと教えられた。この世界では、極々稀にそういう生き物が引き寄せられるのだと。つまり私は、そういう生き物らしい。
“らしい”というのは、正直あんまりピンと来ていないからだ。いや、別にここが自分の夢の中だとは流石にもう思ってはいないが。いないが、どうしてこうなったのかが理解できない。それに、ここの常識がまるでファンタジー小説の中のようにハチャメチャで、頭がついていかないというのもある。そう、まるで―――異世界のような。
それを認めて、また思う。
なんで、こうなったんだろうか。
小説のように、切欠なんてまるでなかった。跳んだ瞬間さえ自分は覚えていない。その日何をしていて、誰と話したか。そんなことさえ覚えていない。言い換えれば、覚えていないくらいいつも通りの日だったのだ。ただそのいつも通りの日常が、どこかの瞬間に切り替わり、気付いたら自分と同じ大きさの牙が目の前にずらりと並んでいた。
初っ端が喰われる寸前という特大の衝撃の前に、直前の記憶が吹っ飛んだというのもある。
幸いにして、私は恐怖で体が動かなくなるタイプではなかった。むしろ頭が真っ白になればなるほど本能に忠実になるようで−−そのとき私を動かしたのは、生存本能だった。
走って。走って。
例によってやっぱりその辺りの記憶は曖昧で、怖かったことしか覚えていない。そしてそんな中で私は―――リヴさんに、出逢った。
リヴさん。
左頬に鱗を生やした獣人、リーヴェルト・ハウストさんに。
※ ※ ※ ※
ぐおおぉーん!
まるでライオンの叫びのような、けれど建物の倒壊する音のような、そんな耳をつんざく爆音が背後で響いた。そしてその後に続くのは、立っていられないほどの地響き。走りすぎでガクガクだった私は、当然のようにその場に転げた。
後から考えれば、その音はきっと私を追っかけていた“何か”の叫び声だったのだろう。死の間際の、そう、断末魔というのだったか。
私は焦った。何せそのとき逃げることに必死過ぎて頭なんかこれっぽっちも回っていなかったからだ。逃げなきゃいけないのにずっこけて、しかもひどいことに限界を超えていた足腰は「もう無理!」と立ち上がることを拒否してしまっていた。「無理はこっちだ!」と叫び返したい気持ちだった。主人の体を守らずに弱音なんざ吐くじゃねえ、みたいな。
だから、私を追い掛けていた大きな“何か”が既に倒されていて、倒した誰かが近づいてきていることなんか全く気づいていなかった。
そして唐突に、ふわりと浮く体。
「――――――!」
悲鳴になんかならなかった。いや、もしかしたら叫んだかもしれない。目茶苦茶なことを言ったのかもしれない。ただ私はこのとき目が回るほど混乱して恐怖したことしか覚えていない。例によって例のごとく、曖昧だ。
けれど助けてくれたその人は、気づけば私をどこかの川辺に連れていき、逃げる際にあちこち付いた色んな傷を手当てしてくれた。
そのときになってようやく、私は目の前の大きな人を認識した。
見上げた彼は、色々と黒かった。真っ黒な髪、真っ黒な瞳、肌は白人寄りだったけれど、闇のようなコートに黒い手袋、黒いブーツ。
そして何よりも目を引いたのは、左の頬に浮き上がる−−−黒い鱗、だった。
「…あ、ありがとう、ございました…。」
「…………。」
「わ、私、はじりって言います。羽尻美雪。」
「…………。」
(か、会話拒否…?)
「よ、よく上の名前いじくられて、パシリ!ってからかわれるんですよね。ほら!はじりとパシリって音似てるから!」
「…………。」
(へ、返事ー!返事ー!何か返事ー!)
向けた笑顔が引き攣る。気まずい。
そのときは私はなんとか会話らしいものをしようと必死だった。逃げるのに必死で、会話に必死で、我ながら大変忙しない。けれど何か話していないと言葉でない別のものが口から出てきそうで、彼が一体どんな人なのかも分からなくて不安で、もうなんかぐちゃぐちゃだったのだ。
それでも、もし彼が何か作業をしていたのなら邪魔にならないように私は口をつぐんだだろう。けれど彼はそのとき、何故か私を治療し終えた体勢−−つまりは私の足元に跪づいた格好のままじっとこちらを眺めていたのだ。
後に聞いた話、どうやら考え事をしていたらしい。けれど当時の私にそんなことがわかるはずもなく、結果どんどん溜まっていく不安をどうにかしたくて延々と口を動かし続けた。
「お、お兄さんが助けてくれたんですよね!」
「…………。」
「わ、私訳わかんなくって!あ、あはは、いき、いきなり大きな牙とかあるし。結局あれ、なんだったんですか?」
「…ドラゴンだ。」
(返事来た!…って、ドラゴン?!)
ファンタジーか!
彼はむっつりとした見目に違わず無口だった。よくよく見れば人間とは造りの違う瞳が、機械のように無機質に私を映すだけで、表情なんてピクリとも動きやしなかった。なまじ整っているだけに、そのときは薄気味悪ささえ感じた。
「おおお兄さんの鱗キレイですね!皆生えてるものなんですか!」
「…爬虫類型の獣人族だけだ。」
会話に、なった!
どうやら質問には答えてくれるらしい。意外と律儀なのか。
そんな感想を抱いた私はしかしすぐにはたと疑問にぶちあたる。
じゅうじんぞくって、なんだ。
(じゅうじん…獣人?)
いや、いやいやいや待て待て待て。何だそれ。
もう一度言おう。ファンタジーか!
(…あ、はは。ドラゴンとか、獣人とか…。)
異世界、みたい。
「…………。」
(まさかね。まさかまさか。)
「…………。」
「……ここって、どこ、ですか。」
「……フツマの樹海。帝国と皇国の狭間の森だ。」
「……ふつま…。」
聞いたことない場所だ。まあ、私地理苦手だからしょうがないか。
“てーこく”と“こーこく”って街の、間の森なのか。そうか。樹海って、深い森ってことだよね?じゃあ、内陸だ。日本は樹木な豊富な島だけど、やっぱり樹海ってほど深い森になると、港近くにはないもんね。言葉にも訛りっぽいのないし、関東圏かな。
この時私は、現実逃避というのをしていたのだと思う。そこが日本であることに疑いを持っていなかった。
彼が、日本語を使っていたから。
日本語が通じるんだから絶対に日本なのだと、そう思っていた。疑問にさえ思わなかった。
日本にはドラゴンなんていないし、獣人もいない。いや、日本でなくたってそんなものはいない。顔に鱗の生えている人間もいないし、そもそもいきなり森の中ってなんだ。足元にどこでも●アでも開いていたのか。
そんな、少し考えれば分かるような疑問を全てまるっとスルーして、私はそのとき駅までどう行こうとか、お財布落としたとか、そんなことばかりを考えていた。まあでも、彼が私に嘘を吐いているとは欠片も浮かばなかったあたり、もしかしたら全部気付いていた上での現実逃避だったのかもしれないが。いやきっとそうだったのだろう。そこまで自分がおバカちゃんだったとか思いたくない。
「あ、あの。申し訳ないんですけれど、森の外までとか、一緒に行ってもいいですか?よ、用事があるなら待ちますから。その…出口、全然わからなくって…。」
「…………。」
「は、恥ずかしいですよね!この年で迷子って!いやもうホントお恥ずかしい!昔から抜けてるよねって良く言われていて!あ、あは、あははは。」
「…………。」
「…は、は…。」
「…………。」
「……駄目、ですか?」
「…………。」
むっつりと黙りこむ彼に、自然と空元気も萎んでいく。
やはり、迷惑なのだろうか。助けてくれたし、手当てしてくれたし、イケると思ったのだけれど。
あまりの無反応に妙な冷や汗が出てくる。いや瞬きくらいしようぜ兄さん。
だがしかし、ここで引き下がるわけにはいかない。遭難で死亡なんて、ニュースでもよく見る記事だ。なんだか玄人っぽいこの人を今手放すわけにはいかない。申し訳ないが、齧りついてでも同行させてもらわなければ。まさか一度目は助けるけれど二度目はねえぜ、とはならないだろう。ならない…よね?
段々不安になってきた。
ダメって言われたらどうしよう。どう口説こう。鱗か、鱗を褒めるか。
この時私は、初めて出会う寡黙を超越した無口っぷりにどう交渉していけばいいのか頭を捻っていた。今風に言うならばコミュ障レベルの会話の成り立たなさだ。初めての遭遇、初めての出逢い。初・体験!…いや真面目に考えろ私。
しかしそんな混乱気味に考える私のさまざまな思いは、全て杞憂に終わることとなった。
ふわりと、再び浮く体。
「ふ、ぇえ?!」
とても自然な動作だった。流れも滑らかで、それでいてとても繊細。それ故に、反応が遅れた。
まず、彼の大きな胸が目の前に迫った。そのあと背中があったかくなって、腰に大きな手の感触。気付けば彼の左腕に膝を一纏めに抱えられて―――自分の体が持ち上げられてから、初めて自分は彼の接近に声を上げることが出来たのだ。
がっしりとした左腕に座るような、いわゆる子供座りの体勢。
あまりの唐突さに、ぱちくりと瞬く。
(こ、れは…オッケーってことだよね…?)
返事!声掛け!せめて持ち上げるときに一言下さると大変嬉しかった!!
なんてことは、折角掴んだ命綱相手に言うことなど出来ず。さらに言うなら先程の全力疾走と擦り傷・青痣・足首捻りを抱える私としては有難いことこの上なかった。今でこそアドレナリン大量放出であまり痛くないが、治療をしてもらっているときに見えたあの腫れ具合は絶対後で痛くなるレベルのものだ。痛くないからと言って山道森道を歩けるとはとても思えない。
むしろ良く走り続けた私の足。いや、こけたときに捻ったのか?
人間、非日常に向き合うと大抵の場合それから目を逸らせるそうだ。大災害とか、空き巣とか、そういうとても“怖い”ことにぶつかったとき、いつも通りのことをして日常を取り戻そうとするらしい。心理学的にも証明されていることらしくて、だから避難しなくてはならないのにわざわざ自宅に戻ったり、証拠が残っているかもしれない部屋を片付けてしまう人がいるのだとか。
何が言いたいかと言うと、つまりこのとき頑なに自宅への帰宅ルートを考えていた私は、人としてとても自然だったのだと、仕方が無かったのだと言い訳をしたい訳だ。
そして、約束通り樹海の外、更には一番近くだという街に連れて行ってもらったときに、私の淡くて甘ったれた諸々が打ち砕かれることになったのも、仕方のないことだったのだ。
※ ※ ※ ※
窓の外を見下ろす。ここは黒くて大きい彼―――リーヴェルトさんがとった宿の中、だ。三階の南部屋という中々良いお部屋。ツインベッドくらい大きさのベッドが二つあることから、おそらくツインでとってくれたのだろう。―――駅に行けば、私は家に帰れるのに。
帰れるのに、いらないとは私は言えなかった。
窓の外を見る。沢山の人がいた。わさわさ、わさわさ。緑だったり灰色だったり青だったり、色とりどりの鮮やかな―――獣人たちが、沢山。
「…………。」
リーヴェルトさんは今ここにいない。用事があるとかで出て行ってしまった。部屋から出るなと一言私に言い置いて。彼は、黒くて、鱗以外は、いや、鱗と瞳以外は人とあまり差はないように見えた。
けれど今眼下に行き交う人たちは違う。鳥まんまな顔だったり、猫耳?犬耳?が生えていたり、ばっちり翼や尻尾を揺らす人もいる。町並みは西洋っぽくて、そう、某ネズミーランドの海Verのような景観だった。
日本、じゃ、ない。
でも、日本語は通じる。
『えき、というものは存在しない。』
『にほん、というものも聞いたことがない。』
無表情に、彼は私の質問に答えた。静かに、まっすぐに、機械的に。
そんな馬鹿なと、樹海を進む彼に私は半笑いをした。“存在しない”って。“聞いたことがない”って。
まさかね。まさかまさか。
だって、じゃあここってどこよ。あなたは、一体何語を喋っているのよ。
『漢字はある?』
『ない。』
『ひらがなは?』
『ない。』
『片仮名は?』
『ない。』
『英語は?』
『アルファベットは?』
『ギリシャ語は?』
『ドイツ語は?』
律儀に律儀に、彼は返してくれた。ただ一言の『ない。』というバッサリ切る言葉を、延々と。
『じゃあ、じゃあ…。』
ここって、どこなのよ。
彼は、それに答えなかった。
「…異世界…。」
ぽつりと、言葉が漏れる。まさかね。まさかまさか。でも、もうまさかと私は言えなくなっていた。
足が痛い。捻った足が。痣が熱を持っている。切ったところがじくじくして、擦ったところが痒い。なんてリアル。
「…夢、だよね?夢、夢…夢だ。」
ああ、なんて痛い夢。いろんな意味で、アイタタター、だ。中二病は脱却したと思ったんだけどなー。
「ああヤダヤダ。」
笑った声は、なんだかとても乾いていた。