第五章 越えるべき過去・越えられない親友(とも)
『僕の残酷さ』
――どのくらい時間が過ぎただろう。
暗い世界に一筋の光が入り込む。そしてゆっくりと、暗黒の世界は見覚えのある鮮やかな世界へと移っていった。
まだ頭はぼーっとしている。眠い。
朝の冷たい空気が少しずつ僕の眠気を取り除く。
いつも通りブラインドを上げ、窓をこれでもかという程まで開ける。冬の冷たい風が部屋の空気と混ざっていく。静かな朝だった。
時計を見る。日付は2004年12月22日。
「やっぱり」
ベッドに座った。そろそろ来るはずだから。
「いっ、つっ……」
強烈な頭痛。それはしばらく続く。たった一度だけ経験した、世界の終わりを感じるような痛み。頭が痛みで満たされていた。そして僕は、ベッドの上で静かに気を失った。
それがすぐに雨の音だとわかった。うるさくない、静かな雨。
ここは、僕の家の中。写真の前に、千春と裕也がいる。千春は泣いていた。僕と裕也は千春をなぐさめていない。
そして流れは何倍ものスピードになって、僕の頭に流れ込む。様々な風景や、音や、感情。一年を凝縮したすべてが、記憶として僕の中に入り込む。
ふいに時間の流れが遅くなった。いつも見ている、普段のスピード。
「陽介」
千春がいた。
「ねぇ、……」
千春と僕の距離はなかった。公園でのあの感触が、その時より鮮明に、長い時間続いた。
僕たちはあれからずっと付き合っていた。付き合っているのなら、それは当たり前のことなのだろう。
“やめろ……それ以上は……やめてくれ”
僕の声はもちろん届かない。
“やめろ……結恵が……死んだのに……”
「陽介」
千春は求めていた。僕たちがしていた、その先を。
“やめろー!!”
白い天井が、視界に入った。僕は、ベッドの上で泣いていた。
『水晶』
「おはよ!」
後ろから千春の声が聞こえた。
「あぁ、おはよう」
「どうしたの?」
今の僕は、まるで透明なもろい水晶のよう。内にあるものを隠すこともできず、触れたら一瞬で崩れてしまいそうなほど、心はボロボロで崩壊寸前だった。
「ちょっとね」
千春は僕の様子をずっと心配してくれていた。でもそんな千春に、僕はよりかかることができなかった。その瞬間に、彼女に飲み込まれそうに思えたから。
「おぅ」
公園に裕也の姿があった。
「じゃあ行こうか」
僕たちは学園に向けて歩き始めた。
『二度目の感覚』
僕は知らなかった。結恵が、僕のことを特別な存在としていたことを。少なくとも今は知っていることだけど、一年を過ごした“僕”は、それに気付かなかった。彼は知らなかったから、結恵が死んだにも関わらずあんなことができた。それは、“記憶”から知っていた。
「おい、陽介」
裕也がいた。
「なにかあったのか?」
「まぁな」
「そうか、後でゆっくり聞かせてくれ」
こんな会話があったのも覚えていなかった。
窓の外に見える雲が、微妙に姿を変えながら流れているのを、頭の片隅でほんの少し覚えていた。
気が付いた時には、クラスのホームルームも終業式も終わっていた。前にもこんな感覚があった。気が付いた時には、時間がとんでいる。
「なんで、あの時……」
後悔したって、もう遅い。そんなことはわかっている。でもだからといって、開き直ることができるわけじゃない。
父さんと母さんが目の前で死に、結恵までも僕のせいで死んでしまった。さらに僕は彼女を裏切って、千春を受け入れてしまった。
僕の記憶は、千春との楽しい時間を見せた。それは結恵と付き合っていた時とは違って、毎日が刺激に溢れていた。いつも一緒にいて、一緒に遊びに行って、少し大人びたことをして。彼は千春を“完全には”受け入れていなかったけど、彼にとっての楽しい思い出が、逆に自分への憎しみに変わっていた。
今まで起きたこと。その事実が、僕が醜いものであると言っているようにしか思えなかった。
目の前に、空があった。風もなく寒いけど、冬にしてはまぁまぁ暖かい、透き通るような、という表現が本当に似合う空だった。
『赤い光の中で』
「裕也君との、大切な場所?」
結恵は不思議そうな顔をしている。
「なにかあったの?」
少し間をあけた。
「あぁ、ここはお互いがお互いを助けた場所なんだ」
夕焼けの中で、長い話を始めた。
「あれは、一年の頃だったんだ」
秋から冬にむけて、季節が移り変わろうとしている頃のこと。
あの時の僕は、今と同じだった。すべてが、どうでもよく思えていた。
始まりは、とある友達へのいじめが発端。僕はどうしても、そのいじめが許せなかった。友達を守るために先生に相談したが、先生が事実を確認するのに時間がかかり、その間にも事態は悪化していた。
いじめが始まってしばらくして、彼はいじめを苦に自殺した。その時の僕は、いじめを続けたみんなを、友達を守らなかった先生を、僕を置いて自殺した友達を、そしてたった一人の人間すら守れない自分自身を心の底から憎み、信じることを完全に捨てた。そしていつか自分自身も信じられなくなり、自分の生きる意味を見失っていった。
空があった。僕は冷たい風がふく屋上を、縁にむかって歩いていた。足取りはしっかりしていないが、迷いはない。自分なんていなくても……。そんな思いに支配されていた。
ついにあと一歩で一生を終えるところまで来た。ただ広がる景色を見渡し、自分の体をゆっくり倒していった。
はずだった。僕には空しか見えない。何が起きたか一瞬わからなかった。
「ったく、危なねぇな!」
隣で声をあげたのは裕也だった。
「裕也、どうして……」
「あぁ、さっきおまえがここに来るの見かけてな。最近様子が少し変だったのも気になってたから後をつけてたら案の定ってわけ」
「そうか」
僕たちはしばらくそうしていた。ずっと、空ばかり見ていた。
「裕也」
ふいに僕は話しかけた。
「どうしたら、人を信じられるかな」
「おまえ、人間不信か?」
「多分」
「あの自殺したやつが原因か?」
「多分」
「そうか」
裕也は少し考えていた。
「おまえ、俺の言うことは信じられるか?」
「あぁ」
裕也は例外だった。こいつは裏切ることを必ずしない。長い付き合いでそれを知っていた。どんな時だって味方だったし、他の友達とは一緒にいる時間が比べものにならないくらいに長かった。
「それって人間不信なのか?」
裕也は体をあげて座っていた。
「……わからない」
「俺は違うと思う」
空を見たまま裕也は話し続ける。
「まだ誰かが信じられるなら、同じように他の誰かを信じることだってできるんじゃないの?」
そうなのだろうか。本当に、そうなのだろうか。
「……わからない」
「だろうな。そんなに簡単にわかるなら、誰も苦労はしないさ」
じゃあ、仕方のないこと? 誰かを信じられないことって、そうなのか?
「でも……でも、人間がひとり死んだくらいじゃ世界はなにも変わらないだろ?」
「おまえ世界を変えたいの?」
裕也は笑っていた。
「……いいや」
「そりゃ変わるわけないだろ。世界には何十億って人間がいる。その一人ひとりが死んで世界が変わるなら、それこそ大変なことになってるよ」
それにね、と裕也は付け足した。
「おまえが死んだら、おまえを取り巻いていた小さな世界が変わる。俺や千春や結恵ちゃん、それにおまえの両親もな」
「……そうかな」
「そうさ、少なくても俺はな」
その言葉の意味が、その瞬間はまだわからなかった。
「死ぬことでは何も解決しないんだ。おまえは生きて変えればいい。それに、俺はもう誰かが死ぬところを見たくはない」
そうだった。裕也は少し前に祖父を亡くしていた。
「もう人が死ぬのは十分だ」
裕也の涙を、その時初めて見た。驚きと申し訳なさでいっぱいになった。
「すまなかった」
「いいってことよ。その代わり……」
裕也は立ち上がる。
「一発殴らせろ」
「えっ!?」
痛かった。体じゃなくて、心が。そして、裕也の痛みもわかった気がした。
「ありがとう」
礼を言ったのは裕也の方だった。
「なにが?」
「おまえが今日こうしていなかったら、俺が同じようなことをしていたかもしれない」
どうして、裕也が?
「どういうこと?」
「俺もそれを考えていた。でもおまえを説得していて、自分にも同じことが言えるところがあった」
僕にもその経験はある。どこかで自分に言っているような、そんな感覚。
「なるほど。つまり、助け合ってたわけね」
「そういうことになるな」
「じゃあ借りはチャラだ」
「仕方ないな」
「そうだったんだ」
結恵の表情は複雑だった。
「悪い、黙ってて。裕也との秘密ってことにしておいたから」
というか、あまり人に話すようなことじゃない。
「ううん、話してくれてありがとう」
「これ話すのって、結構勇気いるんだから」
人の目が気になっては、こんなことは誰にも話せない。
「そうだね。私も……」
「ん?」
「えっ、あ、なんでもない! あ、あのね、明日なんだけど……時間あいてる?」
明日か。幸い、予定はない。
「あぁ、大丈夫だよ」
「みんなでね、どこか行こうって話してたの! 陽介君来るでしょ?」
「わかった。もちろん行くよ」
夕日がきれいな日だった。その明日というのが、17回目の僕の誕生日。そう、結恵が勇気を出して、そしてあの事故のあった、僕が何度も戻っているあの日だった。
『二度目の空』
「助け合った、か」
あの時と同じ空が、地平線まで広がっていた。あの時と同じように、まっすぐ歩く。
もう、限界だった。
あの時とは比べものにならないほどの悲しさ、辛さ、痛みが、ある日を境に毎日続く。僕にはもう、耐えられなかった。
縁に足を乗せる。このつらいすべてを、終わらせたかった。また戻るかもしれない。でも、少ない可能性に賭けてみたい。それで終わるなら、そうするしか……。
あの時と同じように、広がっている景色を見渡し、ゆっくり目を閉じて体を前に倒した。
体が空中でゆっくり回転し、速度を増す。風を切る音。脳裏に父さんと母さんの顔が浮かんだ。
「すぐに、行くから」
そして地面に激突した。かすかな意識の中で、今まで以上の痛みと、ほんの少しの安堵を覚えていた。
はずだった。いつかと同じように、僕の視界には青が広がっているだけ。体に痛みはほんの少しだけあった。
「……二度目だな」
後ろにいるべき人間に言う。
「ったく、世話がやけるよ」
やっぱり裕也がいつかと同じように、僕の後ろにいた。
「様子がおかしいと思って探してみたら案の定だ」
「ふーっ、おまえにはかなわないな」
僕たちは寝ころんだまま空を見ている。
「陽介」
「あぁ、わかってる」
立ち上がった。そして裕也の手が、同じように力の限り僕を殴っていた。
あの時と同じ空がやっぱりずっと、僕を見ていた。
『告白の後で』
「なにがあった?」
「……」
言うべきか迷っていた。
「1年前のことか?」
「……」
言葉が出ない。
「裕也」
やっと出た。その言葉で、ひとつの疑問を投げかけた。
「一年前のあの日、結恵になんて言われた?」
記憶の中に、その答えはなかった。だからこのことを、僕はまだ聞いてないはず。
「あぁ」
裕也は即答しなかった。たっぷり時間をかけて、次の言葉を出した。
「あの日告白した後、結恵ちゃんはしばらく黙ってた。“返事は少し待って下さい”って言われて、彼女は走っていったよ。例のやつを見たのは、そのすぐ後のはずだな」
「そうか……」
結恵は答えを言ってなかった。結恵がなぜそうしたのか、よくわからない。ただ、彼女が死んだ原因に、僕の行動が含まれることに間違いない。
「陽介」
裕也の声は震えていたように聞こえた。
「言いたくないなら、それで構わない。ただ、辛いのはおまえだけじゃない。辛さを背負っても、俺は死んだ人たちのためにも生きようと思う」
裕也は強い。僕の何倍も、人として強く、魅力的だった。
「だから、負けるなよ。逃げずに、な」
どうして結恵や千春が、裕也じゃなくて僕を選んだのか、納得できなかった。
「じゃあな」
それだけ言うと、裕也は空の下から姿を消した。
「どうして……」
『ふたりで』
「遅い」
校門に千春がいた。
「悪い、裕也と話してたら遅くなった」
「仕方ないなぁ」
飼い主を見つけた犬みたいに、千春は僕に飛びついてきた。
「行こう!」
傾き始めた太陽が、僕たちを照らす。頭はぼーっとしたまま遠くを眺め、千春の隣を本当にゆっくり歩く。
「陽介?」
「……」
「陽介!」
「ん? あぁ、なに?」
「大丈夫? 今日、なんか変だよ」
まださっきのことを引きずっているのかもしれない。このまま続ければ、さっきのことも話さなければいけなくなる。
「一年付き合って楽しかった?」
本当に突然で、不自然な質問。
「なに? 別れ話?」
千春は半分笑って、半分まじめに見えた。
「いや、ただ聞いてみたいだけ」
千春はうーん、と少し考えた後、
「楽しかったよ! 陽介はそばにいて安心できるしね」
「安心できるの?」
とても僕自身が、そういう人には思えない。
「うん。 陽介の近くにいると、本当の自分でいられるっていうか、そんな感じ」
本当の自分。本当の僕って、一体どういう人なのだろうか。
「それに信頼できるしね」
思わず苦笑いしてしまった。千春は不思議そうな顔で僕の表情をのぞき込んでいた。
「裕也の方が、よっぽど信頼できるよ」
「裕也じゃだめなの」
あの裕也を見た僕には、その理由が全然見えない。
「なんで?」
「裕也はいい友達って感じなの。確かに信頼できるけど、本当の自分じゃいられないかな」
「どうして?」
「なんていうのかなぁ。裕也はね、陽介みたいに自分のことあんまり話さないからね。でも陽介が他の誰かと付き合ってたら、裕也と付き合ってもいいかな、って思うよ」
それが、僕と裕也の差らしい。確かに普段の裕也は自分の気持ちを素直に出している、とは少し違う気がする。でもそれは普段の話であって、僕といる時はちゃんと話している、と思う。
それに、僕も自分の気持ちに素直でいる、なんて自信を持っては言えない。むしろ僕の方が、いろんなことを話せずにいるんだ。現に今だってそう。
「千春……」
「ん?」
話すべきだろうか。でもそれは千春にとっても残酷な真実。話せるわけがない。そう、誰にも話すわけにはいかないんだ。
「私ね、」
ふと千春が口を開く。
「陽介と付き合えて、本当によかったって思う。ずっと本当の気持ち隠してたから。自分でもそれはダメなんだって、言い聞かせてた」
少しだけ暖かい風が吹きぬける。
「でもね、それじゃ何も変わらなかった。四人でいることがいいってわかっていても、陽介への気持ちは強くなるだけだったし。なにが本当にいいことなのか、わからなくなっちゃって」
「……」
「そんな時、裕也に言われたの。“それでおまえ自身はいいのか? 気持ちに嘘ついたままの毎日がつらくならないか?”って。笑っちゃうよね。一番うそついてそうな奴に言われたんだしさぁ」
どこか悲しそうな千春の目はしっかりと先を見て、でも少しだけ苦笑いを浮かべる。
「だからやめたんだ、自分の気持ちに嘘つくの。それじゃなにも変わらないから。なんか裕也に言われたあの日から、ちょこっと自分が変われたんじゃないかなって思えるんだ」
本当の自分の気持ち。それに気付いて、素直に従った千春。
「だから、陽介と付き合えてよかった」
それが、やっぱり一番いいような気がした。じゃあ、僕の本当の気持ちって一体……?
「そっか。ありがとう、千春」
本当の気持ち。まだそれは僕自身は気付けていない。でも、
「ほら、早く!」
ただ今だけは、僕に大切なことを教えてくれた千春のそばにいよう。彼女がそれを望んでいるのだから。
そう、思った。
『誓い』
「じゃあね」
「うん」
家の前で、僕たちは別れた。
「ただいま」
返事はない。家は静かなままだった。
昨日起きた時にはにぎやかだったのに。その差が静かさをより強調していた。ノロノロと階段をあがり、部屋に入った。窓から傾いた赤い日が注ぎ込まれる。
「ふーっ」
ベッドの上に倒れ込む。白い天井が、僕をじっと見つめていた。
本当の気持ち。わかっている、そんなものとっくにわかっているはずなんだ。
僕は千春と同じ。すべきことも、大切な人も知っている。でも壊すわけにはいかないものがあるから、最後の一歩が踏み出せないはずだった。でも、千春はそれをやってのけた。
「すごいな、千春は」
違う。そういうことじゃないんだ。このままで僕自身がいいのか、大事なのはそこ。
「結恵……」
彼女は死んだ。僕のせいで、僕が彼女を受け入れなかったせいで、無理に裕也を助けようとしたせいで。
「正解じゃない、のか」
それはわからない。
ただなんとなく、自分の気持ちに気付いていた。あの一年前の時に、僕は“無理に”千春を受け入れたこと。“裕也のために”千春を受け入れ、結恵を拒絶したこと。
簡単にそれを受け入れることなんてできない。でもしなければならないことが、ひとつだけある。結恵を助けること。もう二度と、彼女を殺させないこと。そう、運命を変えられるとしたら、それは多分僕一人のはずなのだから。
彼女を、結恵を守る。必ず。この想いに、心に誓って。
『ふたりの時』
日が落ちた。あたりが闇に包まれている。時間は8時25分。やらなければないないことはとりあえず終わった。
――コンコン
窓を叩く音。立ち上がり、窓をあける。
「こんばんは」
千春だった。僕たちの家は隣接していて、僕と彼女の部屋は窓から行き来ができた。
「なに?」
千春は答えなかった。そのままベッドにもたれながら座っていた僕の隣に、ちょこんと座った。
「なんだよ」
「……冷たいなー」
「冷たい?」
「うん、冷たい。せっかく彼女が彼氏の部屋に来たんだよ? もっと歓迎してくれないと」
「わがままだな」
「陽介の前だからね」
「そうかい」
そこで会話は途切れた。僕たちは寄り添ってただ座っていた。
千春の頭が僕の肩を叩いた。なにもせずにそのまま座っていただけなのに、心臓は少しずつその鼓動を強めていった。
時間が流れた。視線を千春の方に移す。その一瞬あとに、目の前にあったのは千春の顔だった。唇のあたりには暖かく柔らかな感触。僕はあと少ししか“この千春”とは一緒にいられれない。そう思うと、拒めなかった。
千春との距離が、少しだけできた。
「陽介」
千春の目が、涙で潤んでるように見えた。
「……その、えっと」
千春の顔が赤で染まっていく。
千春の言いたいことはわかっていた。一年付き合っている僕に“それ以上”を求めていることを。
「もっと……愛して下さい」
そのまま押し倒すこともできた。でも理性がそれを必死に抑えていた。心臓が張り裂けそうなくらい鼓動を早めている。
「もっと、お願い」
千春は己の体を僕に預けた。僕は彼女を抱きしめるしか、できなかった。
人間とは、なんと悲しい生き物なのだろう。ひとつの愛情を表す行為に慣れが生じると、それ以上のものがないと不安で仕方なくなる。
千春はゆっくり涙で濡れた顔をあげる。そして今まで以上に激しく愛情を表現した。
僕はというと、一瞬バランスを崩して千春と逆の方向に倒れた。千春が、僕を上から見ていた。
「どうして?」
それは答えられない質問だった。答えは彼女には残酷すぎることくらい、僕にも容易に想像できた。
「こんなに、陽介のこと好きなんだよ。なのに、不安なんだよ」
胸に突き刺さったなにかが、とれなかった。
「千春……」
僕がそこで溢れる本能に任せるのは簡単だった。それでも僕の理性は許さなかった。
「大好きなんだよ、誰よりも……」
僕にできることなんて、彼女を今までで一番強く抱きしめるしかなかった。
急に千春に力が入った。僕はそのせいで一度立て直したバランスをまた崩してしまった。
千春が僕の上にいた。僕たちの距離はなかったけど、遠かった。僕は、千春に押し倒されていた。
そして間髪いれずに彼女は自分の唇を僕のそれに押しつけた。今までのどのそれよりも、激しくて官能的で、悲しくて、心が苦しかった。
「陽介、お願い」
千春は僕の手を取って、僕と千春の間に滑り込ませた。手になめらかな肌の感触がある。手に入りきらない、ありあまる感触。
「……千春、どいてくれないか」
そこで止まった。千春はそれ以上なにもしなかった。まるであきらめたように、彼女は僕から体を離した。
「ごめん。今はこれが限界なんだ」
「……」
千春の返事はなかった。
「その……」
「そばにいるだけなら、いいよね?」
「えっ!?」
意表をつかれて、変な声を出してしまった。
「あぁ、いいよ」
『来るべき時』
どのくらい時間が過ぎただろう。もうすぐ、来るべき時が来る。千春は部屋に戻っていた。あと少し、あと少しで“この世界”が終わる。……終わる?
「……しまった!」
急いで時計を見る。時間は11時半を過ぎていた。
僕はまた過去に戻るだろう。でもそれは同時にこの世界、この時間の流れの中の僕の死を意味する。
千春のことが心配だった。僕が死んだ後で、彼女はどうするだろうか。いつかの僕のようになりはしないか。そんな不安がつきまとった。
窓を叩く音。窓を開けると千春が静かに入ってきた。
「……千春」
「なぁに?」
僕はあと数分で死ぬ。その運命は変わらないだろう。そうわかっているなら、僕の死から彼女を救うのに、これしか手段が思い浮かばなかった。
「これで、最後にしてくれないか?」
「えっ!?」
頼む。
「もう、疲れたんだ」
「そんな、だって、だってさっき!」
頼むから。
「お別れだ。ここにももう来ないでくれ」
「どうして?」
僕を、
「だから疲れたんだよ。もううんざりなんだ。こういう付き合いも、千春もね!」
「そんな……」
僕から、離れてくれ。
「……ゃだよ……さっき……」
「今日限りってこと。そんなこともわからないのかよ」
僕を、嫌ってくれ。
「だって……」
「……出ていけ」
でなければ、彼女にはつらすぎる。
「……でも」
「早く!」
時間がなかった。さっきから胸のあたりの違和感が増してきた。もう、限界が近い。
「……いや。行かない」
顔から血の気がひくのが、自分でもわかった。
「だめだ」
「だって陽介、変だよ! さっきはいいって言ってたこと急にダメって言われても、納得できないよ!」
背筋と額に、寒気と嫌な汗が流れていた。
「出ていけ」
「いや」
もう時間がない。
「いい加減にしろよ! 人の……があぁっ!!」
間に合わなかった。こらえていたものが、一気に突き上げてきていた。僕は胸を押さえながらその場に倒れた。
「陽介!!」
千春がそばに寄ってくる。
「……っつ、……はあっ、ぐっ……」
痛い。痛い。痛い。
以前とは比べものにならないスピードで僕をむしばむ。かつてない痛みが僕を襲っていた。僕の異常な苦しみ方に、千春もただ事ではないとわかったようだった。
「かぁ……、っつ……」
「陽介!! ……ゃだよ、そばにいてよ! 陽介!!」
意識が遠くなっていく。千春の声も、かすかにしか聞こえなくなってきている。
「あぁ……」
何かが途切れた。
真っ白で、何もない。何も感じない。
光が僕に近づく。何かが見えた。それは僕の前で泣いている千春。かすかに声が聞こえる。
「……すけ、あんなことしなくても、あたし大丈夫だから……ちゃんと……」
光が消え、白い世界が僕を包んだ。
ついにここまで来ました。だいたいあと半分くらいの予定ですので今後もぜひ読んで下さい。またぜひ評価・メッセージの方もよろしくお願いしますm(__)m