第一章 17歳最後の日
『いつもの朝』
――どのくらい時間が過ぎただろう。
暗い世界に一筋の光が入り込む。ゆっくりと暗黒の世界は、見覚えのある鮮やかな世界へと移っていった。
まだ頭はぼーっとしている。眠い。
「んっ……」
朝の冷たい空気が、少しずつ僕の眠気を取り除く。いつもと変わらない、同じ朝。
ふと目を送ったカレンダーには21と書いてある数字まで“×”が付けられていて、23の数字には“○”がついている。嬉しくて、悲しい日。今日が2004年の12月22日であることを確認した。
頬をなにかが伝う。泣いていた。いや、正確には涙を流していただけかもしれない。特に悲しいわけでも、寂しいわけでもない。でも毎日の朝の儀式みたいなもので、毎朝流れる一筋の涙が、僕に生きる力をくれる。そんなことを勝手に思っていた。
「さて、と」
まだ堅さの残る体を持ち上げて、固まった筋肉を伸ばす。ベッドから抜け出た僕は、いつも通りブラインドを上げ、窓を限界まで開けた。冬の冷たい風が部屋の空気と混ざっていく。静かな朝だった。
外は昨日の強風がうそのように晴れている。雲の隙間から漏れる陽だまりが、天空からなにかを地上に降りさせているようにも見えた。今日もきっと、平和な一日になるだろう。
「おはよう。父さん、母さん」
答えは返ってはこない。静かな部屋のまま。
そうそう、今日は学園に行かなければならない日だ。二学期最後の今日は終業式がある。時間は6時23分。まだ時間は十分。
窓を閉め、まだ冷たい階段をゆっくり降りていった。
リビングにあるエアコンの電源を入れてから、キッチンへと向かった。コンロの真上にあるやかんを手に取り、お湯を沸かす。パンを卵に浸し、フライパンで焼く。ヨーグルトにジャムを混ぜたものを横に置き、簡単な朝の食卓ができあがった。
さっさと食べ、ゆっくりと砂糖とミルクたっぷりのコーヒーを飲む。これも毎朝のしきたりだ。
皿を片づけ、時計を見上げる。時間はまだ余裕がある。
制服に着替えるために二階へ上がる。部屋はまだ外の空気のように冷たかった。ハンガーにかかっている制服に着替え、必要な教科書やノート類をかばんに放り込む。携帯や財布を制服のポケットに入れた。
「じゃあ行ってくるよ」
誰もいない部屋に向かって一言。部屋を出て階段を降り、洗面所で身だしなみを整える。
「よし、行くか!」
どうしてかはわからないけど、ひとりで暮らすと妙に独り言が増える。寂しさを紛らわすため、なのかもしれない。
「行ってきます」
返事はないとわかっていても、これだけは言いたくなる。
さぁ始めよう。運命の名の下に動き出す、僕らのささやかで、悲しい物語を。
ゆっくりと玄関のドアを開けながら、まだ冷たい静かな世界へと足を踏み出した。
『四人と静かな通学路』
ドアの鍵を閉め、外へ出た。僕は真っ直ぐ学園には向かわず、近くの公園へと足を運ぶ。
そこで親友達と合流し、歩いて学園へと向かうために。
「陽介!」
“陽介”それが僕に与えられた名前。振り返るとポニーテールの女の子が目に入った。
「おはよう」
そこにいたのは幼なじみのひとり、櫻井 千春。
「あぁ、おはよう、千春」
公園に向かって歩き始めた。
「明日だね」
ほんの少し神妙な声にも聞こえた。
「あぁ〜明日でやっと18歳だよ! 結恵とも明日で1年!」
そんな意味で言っているわけではないことくらい、僕にだってわかる。だからわざと明るく振る舞った。
「そうじゃなくて、お父さんとお母さん」
やっぱり。
「やめとけやめとけ。朝から湿っぽい」
「でも……」
千春にいつもの元気がなかった。ボーイッシュな千春に、こういうらしくない姿はあまり似合わない。沈んだ千春は、あまり好きじゃない。
「確かに悲しいさ。でもそれで二人が帰ってくるわけじゃないだろ。悲しむことを、あの二人は望んじゃいないよ。それと、おまえのキャラにそういう話は似合わん」
「なっ、なにそれ! ちょっと陽介!!」
僕は全速力で逃げた。脱兎のごとく、とはまさにこのこと。
「待ちなさーい!!」
やっぱりこっちの方が千春らしい。しかし相手は元運動部、足が早い。それでもどうにか逃げ続け、やっと公園が見えてきた。公園の前には、誰かが立っている。
「はい、おしまい」
僕が公園に着くと男の声が聞こえた。彼はもう一人の幼なじみの橘 裕也。僕は裕也の肩につかまり、息をつく。
「わりぃ、疲れた……」
「ったく、おまえらはいつでもガキみたいに元気余ってるな」
「おいおい、千春に合わせる苦労も少しは考えてくれよ」
それを聞いた裕也は笑っていた。
「よぉーすけぇぇ!!!」
げっ。鬼の殺気立った声が背中から聞こえる。まずい……。
「あぁ、18年に一日足らない人生もこれで終わるのか……」
「あははは! 葬式は俺が取り仕切ってやるぞ! 安心して逝け」
「頼んだぞ……我が息子よ……」
千春の表情は呆れ返っている。
「いつまでバカやってるつもり!?」
しかしさっきまでふざけていた裕也は至って冷静だった。
「一体なにがあったんだ、朝っぱらから」
「裕也聞いてよ! 陽介ったらさぁ……」
千春は裕也に今あったことを話す。
「まぁ気持ちはわからなくないが陽介の身にもなってやれよ。その話は控えた方がいいことくらい、お前だって知ってるだろ?」
裕也は千春に近づいて、
「それに陽介はおまえにそんな顔されたくないんだろうさ。あいつがああ振る舞ってるんだ、こっちが落ち込んだら逆にあいつが辛くなる」
と僕に聞こえないように小さな声で言った。まぁ、しっかり聞こえてはいるけど。
「……うん、わかった」
「すまぬなぁ息子よ。必ず礼はするぞ」
裕也はにやりと笑う。
「おまえも少しは反省しろよ。今日の昼飯はおまえのおごりな」
「仕方ねぇな。わかったよ」
そんなやりとりが一通り終わった時だった。
「おはよう、みんな」
冬の空気のように澄んだ、色にすると透明な声。その主は黒川 結恵。これで全員揃った。
「さて、行くとしますか」
まだ静かな街路に、四人の声が響いていた。
『彼女と棘と金棒』
僕らが通う学園は、あの公園から15分くらい歩いた場所にある。小高い丘の上に建っていて、晴れた日には屋上から海を眺めることもできる。僕たちは車の通りが少ない住宅街を二人ずつ並んで歩く。僕の隣には結恵が、後ろは裕也と千春が歩く。
「明日からやっと冬休みか」
裕也がまだ眠い目を擦りながら言った。
「これでしばらくは退屈な授業に出なくてすむ! このまま冬休みが続いてくれりゃいいのにね」
「そしたらずっと寒いままだよ、裕也君」
結恵が口元に手をあてる。
「そいつは勘弁。この寒さはひとり身には堪えるよ」
コミカルな裕也の動きが僕たちの笑いを誘った。
「ま、君はそうだろうね」
僕はそう言いながら結恵の肩に腕をまわした。
「なんだあ、この寒い時に自分たちだけいい思いしやがって!」
「べ、別にそんなこと……」
結恵が下を向き、顔を真っ赤に染めながら言う。
「違うって、結恵ちゃん。このキザなバカに言ったのさ」
「キザなバカはないだろ。悔しかったら彼女の一人や二人くらい作ったらどうなんだ?」
放っておくわけにもいかない。裕也に反撃を試みる。
「ぐっ、き、貴様! それがさっき助けてもらった奴の態度か!」
「恩はしっかり昼飯で返すよ。安心しな」
「今恩を仇で返された気分だよ。あーあ、俺も彼女ほしいなー」
「すぐ近くに候補がいるだろ?」
千春の方を向くと、目があった。
「あ、あたし?」
驚いた千春が変な声色で言った。
「なるほど。でも陽介、美しい薔薇には棘があるとよく言うだろう?」
「その言葉はよく知ってるぞ! 息子よ」
「だがこの場合、どちらかと言うと鬼に金棒だ」
鈍い音が響く。言葉より先に拳が僕と裕也に飛んできた。
「バカじゃないの!」
「こ、これで今年の冬も寒くなる……」
「身に染みる思いだな、息子よ」
それを見て結恵はくすくすと笑っていた。
「だから彼女ができないんだよ、裕也君。女心を理解しないとね。陽介君も反省しなさい! 行こう、千春ちゃん」
二人はスタスタとかなり足早に歩き出す。
「そいつはキツいよ、結恵ちゃん」
「女心なんて知るか」
僕たちは小さな声で言う。
「ほら、置いてくよ! 遅刻したって知らないんだから!」
僕たちは顔を見合った後、二人を追いかけた。
『ありふれた日常』
僕たちはいつものように特に必要があるわけでもない話をひたすら続け、気がついた時には学園の目の前にある坂にいた。
「おはよー!」
「よぉー仲良し四人組!」
「今日もアツいねぇーお二人さん!」
さすがに学園の近くまで来るとあたりは騒がしくなる。次々と見覚えのある顔が僕たち四人に声をかけていく。
「おはよー!」
僕たちは話しながらも挨拶を返して、そしてまた話しながら歩く。いつも日常的にやっていることだ。
ありふれた会話がやっと終わる。丘の上の白い校舎が、僕たちが学んでいる学園。校舎の中へと入り、階段をのぼってすぐ左の教室が僕たちの教室。運良く僕たち四人は同じクラスだった。ここまで来ると、やはり僕たちは腐れ縁なのだろうと笑ってしまう。僕の席は窓際の後ろから二番目。裕也が僕の前で結恵は窓際から三列目の一番後ろ、千春は教卓の目の前の席だ。
「昼飯忘れるなよ」
裕也が席にかばんを置きながら言う。
「もちろん。ほんとに感謝します、裕也様」
「さて、どうかね。ま、期待しているよ」
そう言うと裕也はクラスの男子が集まるところへと向かった。
僕はというと、考えごとをするような体制で窓から外を見ているそうして誰かに話したらほぼバカにされるようなどうでもいいことを考え、悩んでいた。この時は自分が生きる意味、だったかな?
そうこうしているうちに担任が教室に入ってきた。
「起立! 礼!」
「みんなおはよう。今日で二学期も最後となるわけなんだが、みんなの中には……」
話はまだ続いたはずだろうけど、特に聞く必要もなかった。ここで担任が話す内容を聞きのがしたとしても、実際大して困ることもない。
「と、いうわけで以上で終わり」
「起立! 礼!」
そして僕はまた外を眺める。こんなことの繰り返しだった。
「陽介! 行くぞ」
裕也の声がする。
「終業式、始まるってさ」
「わかった」
そして僕たちは体育館へと入り、終業式は始まった。結局、式と言っても校長の偉そうな話がメインで、退屈な時間だった。こんな寒い日に体育館で立ったままの僕たちのことを考えろよ、校長。
「君たちは今、生きている」
確かに。
「しかし、ただ生きているだけでは人生は何も楽しくない」
今みたいにね。
「だから私はこう思う。日々目標を持って生活すること、それが大切だと」
まぁ一般論だね。
「そして……」
まだあるのか。
「一日一日を大切にし、喜びを感じること。それが大切だとも思う」
できたら苦労しないな。
「そして夢の実現に向けて、頑張ってほしい」
45点!
「では、年が明けたらまた会おう」
はーい。
『昼食』
「悪いな、陽介」
裕也はカツ丼とラーメンを、僕はカレーを注文した。
今、僕たちがいる場所は学生食堂。いつもなら賑やかなこの時間の食堂も、がらんとしていてほとんど人はいない。今日は午前中で帰れるから、みんな家に帰ったのだ。僕たちはそれでも帰らずに食堂で昼食を食べていた。理由は簡単、裕也に安い昼食をおごるため。帰って家で昼食を作るのが面倒なだけ、というのも捨てきれない理由のひとつ。
「で、おまえ最近どうなんだ?」
裕也が口にカツをほおばりながら聞いてきた。
「何が?」
「結恵ちゃんだよ。進展してるのか?」
僕は苦笑しながら答える。
「いいや、まだ手をつなぐ程度」
「おまえら明日で一年だろ? 小学生かよ、おい」
「仕方ないだろ、相手が結恵じゃあさ」
裕也が言うのも無理はない。僕たちは付き合って一年も経つのにキスの一回もしていないのだ。
「どう見たって結恵は積極的な行動を取るような奴じゃないだろ」
「しかし、自分からできないから待ってるんじゃないのか?おまえが迫って来るのをさ」
僕は少し大げさに笑った。
「それはないな。一度迫ってみたこともあったが、顔真っ赤にしてしばらく俺のこと見てくれなかったから」
「まったく。のんびりしてるよな、おまえらはさ」
裕也は席を立った。
「ごちそうさま。結恵ちゃん待ってるんだろ? 早く行けよ」
「悪いな。じゃあまた」
僕は小走りで結恵が待つ教室へ向かった。
『帰り道と約束』
「悪い、待たせて」
少し顔が赤い結恵が
「ううん、大丈夫」
と答える。
太陽がまた少し傾いたが、日は高い。風もなく、冷えるけどこの季節にしては暖かい。
「今日も先生の話聞いてなかったでしょ」
「あ、バレてた?」
「いつものことだもん。でも特別なこと何も言ってなかったから大丈夫だよ」
「そっか、ありがとう」
微妙な静寂が訪れた。
「あ、あのね」
結恵が手をこねて恥ずかしそうにしている。
「あさってのことなんだけど、……陽介君、用事とかある?」
結恵にしては珍しい質問だ。
「あさって? 別にないけど」
「じ、じゃあ、えっと……その、一日一緒にいてくれる?」
意外な言葉に僕は一瞬言葉を忘れた。
「えっ!?」
「えっとね、その、うん……」
下を向いている結恵の顔が見る見る赤くなっていく。
「ぷっ、……あはははは!!」
つい笑ってしまった。結恵の顔はやっぱり真っ赤だった。
「そ、そんなに笑わないでよ」
唇を尖らせた彼女は、一段と魅力的に見える。
「悪い悪い、あさっては大丈夫。何もないし、結恵と一緒にいたいって思ってたから」
まだ結恵は顔を赤くしていた。
僕たちは一年ずっとこんなだった。まわりのカップルみたいに、少し大人びたことは一切しなかった。お互いが、お互いの近くにいる。それが、僕たち二人にとって、十分すぎる程幸せだったから。
「ほんと!? 絶対だよ! 約束だからね!」
「おっけー」
笑顔で答えて、僕はそっと結恵の手を握った。彼女もそれを拒みはせずに、恥ずかしそうにしながら下を見て歩いていた。風は冷たく、やっぱり寒かったけど、僕の手だけは暖かかった。
『ひとりの食卓』
結恵を家まで送って、僕は広すぎる僕の家の前にいた。
「ただいまー」
返事はない。いや、返事があったら逆におかしい。返事がなくて当たり前なのに。そう、それが当たり前。
「はは……、バカみてぇ」
部屋に入り、適当にあるものに着替える。そのままベッドの上で天を仰いだ。薄暗い部屋の窓から赤みがかった太陽に照らされている外の景色が見えた。
目が覚めたらいつの間にか日は落ち、窓の外も部屋の中も闇がすべてを包んでいた。どうやら寝てしまったようだ。のそのそキッチンに立つ。
冷蔵庫の中をあさる。昨日炊いたご飯をレンジで温め、豚肉とピーマンを使って炒め物を一品、インスタントの味噌汁と豆腐を切った冷や奴が食卓にあがる。エアコンのスイッチを入れて、テレビの電源を入れて、ひとり食事をすませる。
一年前まではこうではなかった。母さんが食事を作り、父さんは新聞を読んだりテレビを見たりしながら僕と最近のことを話し、三人で楽しく食卓を囲む。そのすべてが崩れた。
「あの時……」
取り留めのない想いが頭の中を駆け回る。後悔したって遅いのは知っていた。過去が戻ってこないってことくらい知ってたし、後悔したって両親が生き返らないことも知っていた。でも、ひとりは辛かった。
家の中に響くテレビの音、広すぎる家、会話のない食卓、使われない食器。こんな状況が、もう一年も過ぎてきた。
でも悲しみは感じない。慣れというやつだろうか、それとも悲しみという感情を忘れたのか、どこかに捨ててきたのか。
「ふぅー……」
長く大きくため息をついて、僕は食卓を片付け始めた。
『走馬燈』
一日にやるべきことをすべて終わらせ、部屋へと戻った。相変わらず冷たい空気が居座っている。音をたてて僕はベッドへ倒れ込んだ。見慣れた天井が視界に広がる。窓からは千春の部屋が見えるけど、カーテンが閉められていて中の様子はわからない。
もう一度天井を見た。
「明日、か」
時計は11時55分を少し過ぎたくらい。さて、寝るか。と思った時だった。
「……?」
何かがおかしい。妙な違和感がある。体がなんかだるいし、でもそれだけではないなにか。多分眠気でそう思うんだろう、そう考えて気にせずに横になった。しかしどうしても気になって仕方がない。嫌な予感がする。心臓の鼓動が飛び出しそうなほど早くなる。やっぱりなにかおかしい。体を起こそうとしたその時だった。
「くっ!!」
まるで突き上げられるような感覚。
「が……っ、つっ、はぁー」
強烈な胸の痛みだった。まるで心臓をムチみたいなもので縛られているような、そんな感覚。
「ち……っ、……くっ」
声にならない声しか出ない。時間が過ぎる程に痛みが増す。
「ぐあぁぁ!! はぁっ、はぁっ」
なんだこの痛みは! 僕の右手は胸を、左手は必死になにか掴んでいた。ベトッとした汗の感触がわかる。
「ああぁぁ……」
一体どのくらいの時間が過ぎただろう。時間は過ぎたのだろうか。段々痛みが消えていく。それと同時に世界が白いなにかで包まれるような。自分でなにかしようとは思えず、まさに無心だった。
何かが目の前を通り過ぎた。光のような、なにか。ようやく見えたそれは、なにかの前で泣いている人のような……女の子?
「!」
――結恵だった。結恵だけじゃない。千春も裕也もいる。なにかを言いながら、泣いている。じゃあ、目の前で横になっているのは一体……。
「!!」
それは紛れもない僕自身だった。目は閉じていて、表情はない。とても自分の顔とは思えないくらい白かった。
ま、まさか……!
そう思った瞬間、それが燃え始めた。
世界はまた、光に包まれた。