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婚約破棄されたので、無能王子と体を入れ替えました! ~元婚約者はコルセット地獄、私は王子の体で国家再建します~

掲載日:2026/10/27

『婚約破棄されたので、無能王子と体を入れ替えました!』


~元婚約者はコルセット地獄、私は王子の体で国家再建します~


第一章 婚約破棄のお礼に、あなたの体をいただきます


「セリア・フォン・グランベル公爵令嬢! 貴様との婚約を、本日この場をもって破棄する!」


 真紅の絨毯が敷き詰められた王宮の大広間に、第一王子カイル殿下の声が響き渡った。


 三千個ものクリスタルをあしらった巨大なシャンデリアが、卒業記念の夜会を華やかに照らしている。優雅な弦楽四重奏がぴたりと止まり、貴族たちのざわめきが波紋のように広がっていった。


 その中心で、これでもかと胸を張っているのは、私の婚約者であるカイル殿下だった。


 念入りに整えられた金髪に、金糸をふんだんに使った礼服。顔立ちだけなら、それなりに見栄えのする男である。


 もっとも、中身については保証しかねる。


 その腕には、ピンク色のフリルを何段にも重ねたドレス姿の男爵令嬢ルルナが、猫のように擦り寄っていた。


「殿下ぁ、怖いですわぁ……。セリア様のあの冷たい目、まるでわたくしを睨み殺そうとしているみたい……」


「安心しろ、ルルナ! 私が守ってやる!」


 カイル殿下は得意げに胸を叩いた。


「聞こえなかったのか、セリア! お前のような愛想もなく、朝から晩まで分厚い魔導書ばかり読んでいる陰気な女など、王妃に相応しくない! 国母となるべきは、この可憐で無垢なルルナだ!」


 私は静かに瞬きをした。


 ……は?


 陰気?


 魔導書?


 私が毎日読んでいたのは、あなたが放り出した王室農政の予算報告書と、隣国との通商条約ですけれど?


 それも全部、古代帝国語で書かれた原本である。


 カイル殿下が「難しい文字を見ると頭が痛くなる」と泣き言を漏らすたび、私が徹夜で翻訳していたのだ。


 十年間。


 そう、十年間である。


 私はこの能天気な王子を、立派な王太子に育て上げるため、あらゆる娯楽を捨ててきた。


 宮廷での根回し、財務省との折衝、農政改革の下準備。おまけに、殿下が勝手に増やした交際費の帳尻合わせまで。


 その間、本人は何をしていたか。


 中庭でルルナとお茶を飲み、宝石を贈り、私がまとめた政策案を自分の手柄として披露していたのである。


 それで、婚約破棄?


 ギリッ、と奥歯が鳴った。


「……殿下。本気で仰っているのですか?」


 私は扇をパチンと閉じた。


「ふん! 今さら泣いて縋っても遅い! お前のような女、顔を見るのも胸糞が悪いわ! 二度と私の視界に入るな!」


 その瞬間、ルルナが扇の陰から、私に向かってぺろりと舌を出した。


 ブチィッ。


 何かが切れた。


 十年間、忍耐という名の金庫に押し込めてきた怒りが、ついに限界を迎えたのである。


 ……よろしい。


 それほど私の顔が嫌いなら、二度と見なくて済むようにして差し上げますわ。


 ドレスの隠しポケットに手を入れる。


 指先に触れたのは、小さな銀の指輪だった。


 グランベル公爵家に代々伝わる、禁忌の古代魔術具。その名も『運命の天秤』。


 強い怨嗟と屈辱を抱いた者が、相手に触れて呪文を唱えることで、互いの魂を入れ替えるという、なんとも性格の悪い代物である。


 発動できるのは、一生に一度。


 ただし、術者が望み、相手が自らの罪を認めて心から返還を願った場合に限り、解除の呪文が使える。


 つまり、元に戻すかどうかは私次第。


 ふふふ……。


 実に素晴らしい家宝ではないか。


「殿下。最後のお別れに、せめて握手をしていただけませんか?」


「ふん、未練がましい女だ。だが、慈悲深い私はそれくらい許してやろう!」


 差し出された右手を、私は両手で包み込んだ。


 そして、殿下の耳元へ顔を寄せる。


「十年間、本当にお世話になりました」


「ふん。ようやく自分の立場を……」


「入れ替われ、豚」


「……え?」


 銀の指輪が、カッと青白く輝いた。


 視界がぐるりと回転する。


 胃袋がひっくり返るような浮遊感。耳鳴り。そして、全身を貫く奇妙な感覚。


「げほっ! ごほっ!」


 喉の奥に、強い酒と脂っこい肉の匂いが込み上げた。


 ……何これ。気持ち悪い。


 視線が妙に高い。


 肩が重い。いや、肩幅そのものが広い。


 恐る恐る自分の手を見下ろす。


 太い指。金糸の刺繍が施された礼服。豪華なマント。


 そして、左腕には……。


「殿下ぁ? どうなさいましたの?」


 ピンク色のドレスを着たルルナが、べったりと抱きついていた。


「ぎゃあああっ!?」


 私は反射的に飛び退いた。


「な、なんですの、殿下!?」


「離れなさい! 香水がきつい! 鼻がもげるわ!」


 口から飛び出したのは、聞き慣れた自分の声ではなかった。


 太く、低く、妙に響く男の声。


 成功した……!


 本当に、カイル殿下の体になっている!


 そして、目の前には。


「な……なんだこれはぁぁぁ!?」


 純白のドレスをまとった私自身が、胸元を押さえて悲鳴を上げていた。


 いや、正確には、私の体に入ったカイル殿下である。


「く、苦しい! 息ができない! 腹が締め付けられるぅぅぅ!」


 カイルは床に膝をつき、背中を丸めた。


 原因は明白だった。


 コルセットである。


 貴族令嬢の正装に欠かせない、あの恐るべき締め付け器具。


 日頃から好き放題に飲み食いし、腹筋という概念すら忘れていた軟弱王子にとって、それは拷問器具以外の何物でもなかった。


「だ、誰か! 背中の紐を切れぇぇぇ! あばらが折れるぅぅぅ!」


 さらに、頭を抱える。


「重い! 頭が重い! なんだこの髪飾りは! 首の骨が折れる!」


 当然である。


 今夜の私の髪には、宝石をふんだんに使ったティアラと、豪華な付け毛が飾られていたのだから。


 カイルは生まれたての子鹿のように震えながら、床を這い回った。


 私はその姿を見下ろし、大きく息を吸った。


 ……軽い。


 驚くほど体が軽い。


 コルセットがない。ハイヒールもない。胸元を締め付けるドレスもない。


 肺いっぱいに空気が入る。


 男の体って、こんなに快適だったの!?


 私は思わず両腕を広げた。


「素晴らしいわ!」


「セ、セリア……!」


 床のカイルが、涙目で私を見上げた。


「貴様、何をした!? 私の体を返せ!」


「返す?」


 私はカイルの顔で、にっこりと笑った。


「お断りですわ」


「なっ!?」


「殿下は仰いましたわね。『顔を見るのも胸糞が悪い。二度と視界に入るな』と」


 私はゆっくりと顔を近づけた。


「ご安心ください。これからは鏡を見るたび、私の顔が見られますわ」


「ひっ……!」


「そして私は、あなたの顔で好きなだけ国を動かせる。なんて合理的な解決でしょう!」


「悪魔! お前は悪魔かぁぁぁ!」


「いいえ。十年間、あなたの尻拭いをしてきた婚約者ですわ」


 私は高らかに笑った。


「さあ、カイル殿下。明日の朝から、財務省と農政局の合同会議があります。書類は三千ページ。すべて古代帝国語です」


「さ、三千……?」


「これまでは私が徹夜で要約して差し上げましたけれど、今後はご自分でどうぞ」


「無理だ! あんな象形文字みたいなもの、読めるわけがない!」


「知らんがな!」


 広間が静まり返った。


 第一王子の口から、あまりにも令嬢らしくない言葉が飛び出したからである。


 私は咳払いをした。


「……失礼。つい本音が」


 その時だった。


「これはまた、興味深いことになっていますね」


 落ち着いた声が響いた。


 人垣を割って現れたのは、第二王子ユリウス殿下。


 銀縁眼鏡の奥に、冷静な青い瞳を宿した青年である。


 ユリウス殿下は床に転がる私の体と、仁王立ちする兄の体を交互に見比べた。


「……兄上。急に背筋が伸びて、知的な顔つきになりましたね」


「ユリウス殿下」


「それに、その立ち方。右手で左の袖口を整える癖。……セリア嬢ですね?」


 私は目を見開いた。


「よくおわかりになりましたわね」


「十年間、あなたが兄上の仕事を肩代わりしている姿を見てきましたから」


 ユリウス殿下は、少しだけ微笑んだ。


「事情は後ほど伺います。それより、明日の合同会議ですが」


「ええ」


「兄上の姿をしたあなたとなら、長年停滞していた財政改革を進められそうです」


 私は思わず笑みを深めた。


「話が早くて助かりますわ」


「ただし、国王陛下への報告と、正式な権限の確認は必要です。そこは私にお任せください」


「頼もしいですこと」


 床から、悲痛な叫びが上がった。


「おい! 私を無視するな! 戻せ! 今すぐ戻せぇぇぇ!」


 私は扇の代わりに、カイルの礼服の襟を整えた。


「まあ、元気なこと。明日からの淑女教育にも、その元気を生かしてくださいませ」


「じょ、淑女教育……?」


「ええ。ボガード侯爵夫人の特別講習ですわ」


 カイルの顔から血の気が引いた。


「扇の角度が一度ずれただけで、竹の物差しが飛んできますから」


「ぎゃあああああっ!」


 夜会の広間に、元第一王子の絶叫が響き渡った。


 秋の夜風が、バルコニーのカーテンを涼やかに揺らす。


 私はカイルの体でシャンパングラスを持ち上げた。


 さて。十年間の残業代、きっちり回収させていただきますわよ。


 実に晴れやかな夜だった。


第二章 地獄のコルセットと、快刀乱麻の偽王子


 翌朝、午前六時。


 王宮の離宮にあるグランベル公爵家の控え室から、この世の終わりを告げるような悲鳴が響き渡った。


「ぎゃああああっ! 痛い! 折れる! あばらがミシミシ言ってるぅぅぅ!」


 鏡の前で、純白の肌着姿のセリア――中身は元第一王子カイル――が、柱にしがみついていた。


 その背後には、鬼の形相をした古参の侍女長マーサ。


 鍛え上げられた前腕を隆起させ、コルセットの編み紐を容赦なく締め上げている。


「何を朝から情けない声を上げていらっしゃるのです、お嬢様!」


「情けない声だと!? これは人間の尊厳に関わる問題だぞ!」


「淑女たるもの、姿勢を正し、優雅に振る舞うのが務めでございます!」


「息ができないんだよぉぉぉ!」


「では、少し緩めましょう。ですが姿勢が崩れれば、ボガード侯爵夫人の特別指導が待っておりますよ」


「うぐっ……!」


 昨夜の騒動は、すでに国王陛下の耳に入っていた。


 ユリウスの説明と宮廷魔術師による検証の結果、魂の入れ替わりは事実と認定された。


 そして、国王は激怒した。


 婚約破棄そのものよりも、十年間にわたって長男が公務を放棄し、その負担を公爵令嬢に押し付けていたことに、である。


 元に戻るまで、カイルにはセリア嬢が担ってきた務めを経験させよ。


 国王の命令は、実に簡潔だった。


 その結果、元第一王子は地獄の淑女教育へと放り込まれたのである。


「さあ、お嬢様。本日の課題は『紅茶をこぼさず優雅に階段を降りる』でございます」


 侍女たちが運んできたのは、高さ十センチのヒールと、分厚い辞書三冊だった。


「……何だ、それは」


「頭に乗せていただきます」


「は?」


「一冊でも落とせば、最初からやり直しです」


「国家反逆罪だぁぁぁ!」


 マーサは涼しい顔で答えた。


「お嬢様、寝言は辞書を落とさなくなってから仰ってくださいませ」


 バチン!


 丸まった背筋に、侍女長の手刀が飛んだ。


「ぎゅえっ!」


 かくして、元王子の長い一日が始まった。


 一方、その頃。


 王宮の中央会議室では、まったく別の意味で悲鳴が上がっていた。


「以上の理由により、北方国境警備隊の備品調達費に計上されている『交際費』金貨三千枚を即時凍結します」


 私はカイルの体で、羽ペンをパチンと机に置いた。


「その全額を、東部干拓地の灌漑工事へ回します。異論のある方はいらっしゃいますか?」


 円卓を囲む財務卿、軍務卿、農政長官らが、一斉に顔を見合わせた。


「し、しかし殿下……。あの交際費は、現地の豪族との長年の付き合いが……」


 軍務卿が脂汗を拭いながら口を開く。


 私はにっこりと微笑んだ。


「付き合い?」


「は、はい……」


「高級酒の購入費、愛人への宝石代、私的な宴会費。それらを『付き合い』と呼ぶのですか?」


「なっ……!」


「私の知る財務用語では、それを『横領』と申します」


 会議室が凍りついた。


「裏帳簿の写しは、すでに監査官へ渡してあります。異論がおありなら、午後の査問会で詳しくお聞きしましょうか?」


「め、滅相もございません!」


 軍務卿は椅子から飛び上がった。


「ただちに予算を修正いたします!」


「よろしい」


 私は満足げに頷いた。


 ああ、なんて楽なのかしら。


 これまで同じ提案をしても、『女のくせに政治に口を出すな』と一蹴されていた。


 ところが今はどうだ。


 同じ内容を王子の低い声で話すだけで、大臣たちが真剣に耳を傾ける。


 中身は何ひとつ変わっていないのに。


 腹立たしくもあり、滑稽でもあった。


 隣で書類を確認していたユリウス殿下が、小声で囁いた。


「見事な手腕ですね、セリア嬢」


「ふふ。男の体というのは、本当に便利ですわね」


「それはまた、どういう意味で?」


「声が低いだけで威厳が出ますし、睨めば相手が勝手に縮み上がります。おまけにコルセットもハイヒールもありませんもの」


 私はカイルの太い腕を組んだ。


「十年間の苦労が嘘のようですわ」


 ユリウス殿下は苦笑した。


「ですが、それはあなたの能力がようやく正当に評価されたということでもあります」


「……あら」


「兄上の姿でなくとも、私はあなたの提案を採用していましたよ」


 不意に、胸の奥が温かくなった。


 ユリウス殿下は昔からそうだった。


 私の意見を遮らず、きちんと聞いてくれる。


 たとえ自分と異なる考えでも、まず理由を尋ねてくれる。


 本当に、兄弟でどうしてこうも違うのかしら。


 その時、窓の外から絶叫が響いた。


『いやあああっ! 辞書が落ちるぅぅぅ!』


 見下ろせば、中庭の噴水の周りを、フリルドレス姿のカイルが歩かされていた。


 頭には辞書。手には紅茶のカップ。背後には竹の物差しを構えたボガード侯爵夫人。


『背筋を伸ばしなさい!』


『無理だ! 足が折れる!』


『淑女たるもの、足音を立ててはいけません!』


『じゃあ馬車に乗せてくれぇぇぇ!』


 私は窓辺で腕を組んだ。


「……ずいぶん楽しそうですこと」


「そう見えますか?」


「ええ。私が十年間受けてきた教育を、たった一日で経験できるのですもの。実に効率的ですわ」


 ユリウス殿下は肩を震わせた。


 どうやら笑いを堪えているらしい。


 その時だった。


 会議室の扉が勢いよく開いた。


「カイル殿下ぁぁぁっ!」


 飛び込んできたのは、ピンク色のドレスを着崩したルルナだった。


 髪は乱れ、涙で化粧が崩れている。


「助けてくださいましぃ!」


 警備の騎士を振り切り、私の足元に縋りついた。


「お父様が、王室への不正請求を調べられているんですの! 借金の督促状も山のように届いて……! このままでは爵位まで失ってしまいます!」


「まあ」


 私は眉を上げた。


「それは大変ですわね」


「でしょう!? だから、わたくしを助けてくださいませ! 殿下はわたくしを愛していると仰ったではありませんか!」


「……ほう?」


 私は椅子の背にもたれた。


「ところで、ルルナ嬢。あなたが身につけているその宝石、購入代金はどなたが支払ったのでしょう?」


「えっ?」


「王室の交際費から支出されていましたね。ドレスの代金も、グランベル公爵家の取引先に未払いのままです」


 ルルナの顔色が変わった。


「そ、それは……殿下が払ってくださると……!」


「ええ。以前のカイル殿下は、ずいぶん気前がよかったようですね」


 私は机の上から一枚の書類を取り上げた。


「ですが、その支出に正当な理由はありません。あなたのご実家に不正な請求が認められれば、法に従って返還していただきます」


「そ、そんなぁ!」


「ご安心ください。身に覚えがなければ、調査で明らかになるでしょう」


 私は衛兵へ視線を向けた。


「この方を退出させてください。必要な事情聴取は、正式な手続きで」


「かしこまりました!」


「殿下ぁぁぁ! ひどいですわぁぁぁ!」


 ルルナの悲鳴が、廊下の向こうへ消えていく。


 ユリウス殿下が、静かに拍手した。


「実に鮮やかですね」


「当然ですわ。国のお金は、誰かの恋愛ごっこのためにあるわけではありませんもの」


「同感です」


 私はふう、と息を吐いた。


 窓の外では、カイルがついにバランスを崩し、噴水へ盛大に落下していた。


 ドボォン!


『冷たいぃぃぃ! もう嫌だぁぁぁ!』


 その姿を眺めながら、私はユリウス殿下に向き直った。


「ねえ、ユリウス様」


「何でしょう?」


「私、しばらくこの体で国を立て直そうと思いますの」


 ユリウス殿下の目が、わずかに細くなった。


「……本気ですか?」


「ええ。ただし、王位を奪うつもりはありません。陛下の正式な許可をいただいたうえで、王室の財政改革を進めたいのです」


 彼は少し考え、頷いた。


「父上には私から進言しましょう。あなたの能力を、これ以上埋もれさせるわけにはいきません」


「ありがとうございます」


「それに……」


 ユリウス殿下は、ふっと柔らかく微笑んだ。


「私は以前から、あなたと一緒に仕事をしてみたかったのです」


 思いがけない言葉だった。


「……まあ」


「兄上には内緒ですよ」


 私は思わず笑った。


「ふふ。もちろんですわ」


 こうして私たちは、国王の正式な許可のもと、王宮の財政改革に着手した。


 そして、その日から半年。


 王国は、かつてない変化を迎えることになる。


第三章 黄金の玉座と、針と糸の受難曲


 半年後。


 王都の空には、初夏の爽やかな風が吹き抜けていた。


 王宮の大ホールは、以前とは見違えるほど整然としている。


 無駄な金箔装飾は売却され、東部の治水工事の費用へ。宴会用の高級酒の購入予算は削減され、農村の備蓄倉庫の建設費へ。


 王室の帳簿には、初めて明確な収支報告が記載されるようになった。


 その結果、王国の負債は半年で三分の一にまで圧縮された。


 東部の飢饉も、早期の灌漑工事と穀物備蓄によって未然に防がれた。


 そして、その改革を主導したのは……。


「第一王子カイル殿下、ならびに第二王子ユリウス殿下、ご入場!」


 近衛兵の号令とともに、大扉が開いた。


 堂々と絨毯を踏みしめて入ってきたのは、軍服姿の私――カイルの肉体に入ったセリアと、その隣を歩くユリウス殿下である。


「……見違えるようだ」


「第一王子殿下が、あれほど英明な方だったとは」


「いや、第二王子殿下との連携も素晴らしい。まさしく王国の黄金時代だ」


 居並ぶ貴族たちの賞賛が耳に届く。


 もっとも、私の正体については、国王と一部の重臣のみが知っている。


 正式な勅命によって、私は第一王子の肉体を借りた臨時の王室政務代行官として、改革を進めていた。


 ただし、その権限には期限がある。


 今日、最後の問題を解決すれば、私は元の体に戻る予定だった。


 ……少し名残惜しいですわね。


 コルセットのない生活。歩きやすい靴。低く響く声。


 そして何より、能力を正当に評価される毎日。


 この半年間は、私にとって驚くほど充実した時間だった。


「セリア嬢」


 隣を歩くユリウス殿下が、小声で囁いた。


「準備はよろしいですか?」


「ええ。いつでも」


 私は頷いた。


 壇上の玉座には、国王陛下が厳かに座している。


「では、最後の審議を始めよ」


 国王の言葉に、ユリウス殿下が書類を広げた。


「本日の議題は、第一王子カイル殿下の王位継承権放棄、および今後の処遇についてです」


 ホールの空気が張り詰めた。


「対象者を前へ」


 後方の扉が開いた。


 近衛兵に付き添われて現れたのは、灰色の修道服をまとった小柄な人物だった。


 指先には絆創膏。足元には、踵のすり減った布靴。


 かつての私の美しい体。その中に入っている元第一王子カイルである。


「ひ、ひぃ……!」


 カイルは壇上の私を見上げるなり、震え上がった。


「カイル殿下」


 私は低い声で呼びかけた。


「修道院での生活はいかがでしたか?」


 カイルの目に、みるみる涙が溜まった。


「じ、地獄だぁぁぁ!」


 彼はその場に崩れ落ちた。


「朝四時に起こされて、冷たい水で床を磨かされる! その後はひたすら針仕事! 靴下! 手袋! 刺繍! 針で指を刺せば修道院長に叱られる! 食事は質素だし、夜は早く寝ろと言われるし!」


「まあ」


 私は扇もないのに、思わず口元へ手を添えた。


「健康的な生活ですこと」


「どこがだぁぁぁ!」


 ユリウス殿下が、涼しい顔で書類をめくった。


「ちなみに兄上。修道院で編んだ靴下は、冬季の救貧事業に寄付されています」


「そ、それは……」


「あなたが以前、ルルナ嬢に贈った宝石の代金を補填するには、まだまだ足りませんが」


「ひぃっ!」


「ただし、労働で得た報酬は正当に計上されています。借金の返済に充てることもできますよ」


 カイルは涙を拭った。


 そして、私に向かって頭を下げた。


「セリア……!」


「何でしょう?」


「悪かった!」


 ホールが静まり返った。


「私が全部悪かった! お前がどれだけ大変だったか、身に染みてわかった!」


 カイルは床に額を擦りつけた。


「女の服があんなに苦しいなんて知らなかった! 淑女教育があんなに厳しいなんて思わなかった! それに、お前が毎日読んでいた書類が、あんなに難しいものだったなんて……!」


 私は黙って聞いていた。


「私は、お前に全部押し付けていたんだな……」


 その声には、かつての傲慢さがなかった。


「本当に、すまなかった」


 私は小さく息を吐いた。


 ……ようやく、ですか。


 十年間。


 ずっと聞きたかった言葉だった。


 だが、謝罪だけで失われた時間が戻るわけではない。


「カイル殿下」


 私は静かに告げた。


「あなたの謝罪は受け取りましょう」


「セリア……!」


「ですが、それと責任を取ることは別問題です」


「……え?」


 私はユリウス殿下へ合図した。


 彼が一枚の羊皮紙を差し出す。


「こちらをご覧ください」


 そこには、国王陛下の裁可を受けた正式な処遇案が記されていた。


 第一王子カイルは、王位継承権を放棄する。


 これまでの不正支出について、個人の責任に属するものは返済義務を負う。


 そして、今後は王室財務局の会計監査補佐として、一定期間の監督付き勤務に就く。


 給与は支給されるが、返済計画に従って一部が充当される。


 勤務成績によっては、将来的に別の職務へ移ることも認められる。


「……か、会計監査?」


 カイルの顔が引きつった。


「ま、まさか、あの数字だらけの書類を……?」


「ええ」


 私は微笑んだ。


「あなたが十年間、私に押し付けてきた仕事ですわ」


「む、無理だぁぁぁ!」


「ご安心ください。最初から三千ページも読ませません。基礎計算から始めていただきます」


「け、計算……!」


「掛け算はできますわよね?」


「……七の段が、少し苦手だ」


 ホールのあちこちから、ため息が漏れた。


 私は額を押さえた。


 ……よくこれで王太子になろうと思いましたわね。


 ユリウス殿下が咳払いをした。


「兄上。処遇を受け入れ、責任を果たす意思はありますか?」


 カイルはしばらく震えていた。


 やがて、ゆっくりと頷いた。


「……ある」


「王位継承権の放棄も?」


「……ああ」


 カイルは、国王陛下を見上げた。


「父上。私は、王になる資格がありませんでした」


 国王はしばらく沈黙した後、重々しく頷いた。


「ようやく、それを理解したか」


「……はい」


「ならば、これからは一人の人間として、己の働きで信頼を取り戻すがよい」


 カイルは深く頭を下げた。


「承知しました」


 その言葉を確認したユリウス殿下が、正式な誓約書を差し出した。


 カイルは震える手で署名した。


 国王が署名を確認し、王印を押す。


「第一王子カイルの王位継承権放棄を、ここに承認する」


 厳かな声が響いた。


 これにより、王位継承順位の第一位は、第二王子ユリウス殿下へと移った。


 私は静かに頷いた。


「それでは、最後の約束を果たしましょう」


 懐から、銀の指輪を取り出す。


 カイルの目が大きく見開かれた。


「セリア……! ま、まさか……!」


「ええ。元に戻して差し上げます」


「ほ、本当か!?」


「ただし、戻ったからといって契約が消えるわけではありませんよ」


「わ、わかっている!」


 カイルは何度も頷いた。


「もう逃げない! だから、頼む……!」


 私は指輪をはめた。


 古代魔術具『運命の天秤』。


 一度きりの入れ替わり。


 そして、双方の意思が揃った時にのみ許される解除の呪文。


 私はカイルの手を握った。


「では、元に戻りましょう」


 指輪が青白く輝く。


「運命よ、元の秤へ」


 視界が激しく回転した。


 胃袋がぐらりと揺れ、全身から力が抜ける。


 次の瞬間。


「……うっ!」


 視線が低くなった。


 肩幅が狭い。手が小さい。長い髪が背中に触れる。


 そして何より……。


 私は、自分の白く細い指先を見つめた。


 戻ってきたのね。


 懐かしい体だった。


 少し頼りなく、華奢で、重いものを持つには不向きな体。


 けれど、十年間を共に生きてきた、大切な私自身の体だ。


 私は静かに微笑んだ。


「お帰りなさい、私」


 目の前では、元の体に戻ったカイルが、自分の腕や胸をぺたぺたと触っていた。


「あ……ああっ! 戻った! 私の筋肉! 私の体だぁぁぁ!」


 その場で飛び跳ねる元第一王子。


 だが。


「兄上」


 ユリウス殿下が、にこやかに声をかけた。


「早速ですが、明日からのお仕事です」


 ドサッ!


 カイルの腕に、分厚い羊皮紙の束が積み上げられた。


「……え?」


「各地方自治体の収支報告書です。まずは数字の転記から始めていただきます」


「……こ、これ全部?」


「ええ。ですが、勤務時間内に終わらない分は翌日に回して構いません。計算を間違えた箇所は、指導官が丁寧に教えてくれますよ」


 カイルは恐る恐る書類をめくった。


「……数字が、いっぱい……」


「ちなみに、教育係は財務局でもっとも厳格と評判の監査官です」


「ひぃぃぃ!」


 私は扇を開き、口元を隠した。


「頑張ってくださいませ、元殿下」


「セリアぁぁぁ! やっぱりお前は悪魔だぁぁぁ!」


「まあ、失礼な」


 私はにっこりと笑った。


「悪魔ではありませんわ。元婚約者です」


 こうして、カイルは泣きながら財務局へと連行されていった。


 もっとも、今度は誰かが仕事を肩代わりしてくれるわけではない。


 自分の人生は、自分で引き受けてもらう。


 それが、彼に与えられた最後の教育だった。


 そして……。


「セリア嬢」


 静まり返ったホールで、ユリウス殿下が私に向き直った。


「少し、お時間をいただけますか?」


「ええ、もちろんですわ」


 彼は私の前に立つと、そっと片膝をついた。


 周囲の貴族たちが息を呑む。


「ユ、ユリウス殿下……?」


 私は思わず目を瞬かせた。


 彼は穏やかに微笑んだ。


「この半年間、あなたと共に国を立て直すことができて、私は本当に幸せでした」


「……私もですわ」


「あなたは、誰よりも誠実にこの国を支えてきた。誰も見ていないところで、誰よりも努力していた」


 彼は私の右手を取った。


「私は、ずっとそれを見ていました」


 胸が、どきりと鳴った。


「兄上の婚約者だった頃から、あなたの聡明さも、強さも、時折見せる不器用な優しさも……ずっと尊敬していたのです」


「ユリウス様……」


「ですが、今は尊敬だけではありません」


 青く澄んだ瞳が、真っ直ぐに私を見つめた。


「セリア・フォン・グランベル嬢」


 彼は、私の手の甲にそっと口づけた。


「どうか、私の隣で、この国の未来を共に築いていただけませんか?」


 ホールが静まり返った。


「王室の財政だけではありません。私の人生も、あなたと分かち合いたいのです」


 私は、言葉を失った。


 十年間。


 ずっと誰かのために働いてきた。


 努力しても、感謝されることは少なかった。


 能力を認められることも、ほとんどなかった。


 けれど、この人は違った。


 私が何を考え、何を願い、どれほど努力してきたのか。


 ずっと、見ていてくれた。


 胸の奥が、じんわりと温かくなる。


 私は扇をパチンと閉じた。


 そして、最高に美しく、少しだけ不敵な笑みを浮かべた。


「喜んで、ユリウス殿下」


 彼の表情が明るくなる。


「ただし……」


「ただし?」


「私の監査は、カイル殿下に対するものよりも、何倍も厳しいですわよ?」


 ユリウス殿下は一瞬きょとんとした後、楽しそうに笑った。


「望むところです」


 彼は私の手を、もう一度優しく握った。


「あなたになら、私の心も資産も、すべて預けられます」


「まあ。そんなことを仰ると、本当に差し押さえてしまいますわよ?」


「構いません。ですが、ひとつだけ条件があります」


「何でしょう?」


「あなた自身の幸せのためにも、時間を使ってください」


 私は目を見開いた。


「……私の、幸せ?」


「ええ。これからは、あなた一人に何もかも背負わせるつもりはありません」


 ユリウス殿下は微笑んだ。


「仕事も、責任も、喜びも。二人で分け合いましょう」


 その言葉に、私は思わず笑ってしまった。


「……困りましたわね」


「何がです?」


「そんなことを言われたら、ますますあなたを好きになってしまいますわ」


 ユリウス殿下の頬が、ほんの少し赤く染まった。


 その珍しい表情が可笑しくて、私は声を上げて笑った。


 やがて国王陛下が立ち上がり、穏やかな声で告げた。


「グランベル公爵家との協議が整い、両名の意思が変わらぬならば、この婚約を喜んで認めよう」


 ホールに、盛大な拍手が巻き起こった。


 初夏の光が、窓から柔らかく差し込んでいる。


 こうして私は、十年間の苦労から解放され、新しい人生を歩み始めた。


 後日、ユリウス殿下との婚約は正式に成立。


 私は王室財務顧問として引き続き改革に携わりながら、未来の王妃としての準備を進めることになった。


 もちろん、無理な徹夜仕事は禁止。


 休日も、きちんと設けられた。


 そして、元第一王子カイルはというと……。


『セリアぁぁぁ! この帳簿、数字が合わないんだがぁぁぁ!』


『自分で計算し直してくださいませ!』


『ひぃぃぃ!』


 今日も元気に、財務局で悲鳴を上げているらしい。


 私はユリウス殿下と顔を見合わせ、くすくすと笑った。


「ねえ、ユリウス様」


「何でしょう、セリア?」


「私、あの夜に婚約破棄されて、本当によかったと思いますの」


「それはまた、どうして?」


 私は彼の腕に、そっと自分の腕を絡めた。


「だって、あのままでは、こんなに素敵な方と出会い直すこともできませんでしたもの」


 ユリウス殿下は柔らかく微笑んだ。


「それなら、兄上に少しだけ感謝しなければいけませんね」


「ええ。ほんの少しだけ」


 二人で笑い合う。


 かつて、婚約破棄という名の絶望から始まった、奇妙な運命の入れ替わり。


 けれど、その呪いが私にもたらしたものは、復讐の喜びだけではなかった。


 自分自身の価値を知ること。


 努力を認めてくれる人と出会うこと。


 そして、誰かのためだけではなく、自分の幸せのために生きること。


 私はようやく、それを手に入れたのだ。


「さあ、ユリウス様。午後の予算審議が待っていますわ」


「おや。今日は休日のはずでは?」


「……あら」


 私は足を止めた。


 ユリウス殿下は、悪戯っぽく笑った。


「今日は二人で街へ出かけましょう。新しくできた菓子店が評判だそうですよ」


「まあ、お菓子!」


「ええ。あなたが以前から食べたがっていた、蜂蜜たっぷりの焼き菓子です」


 私は思わず顔を輝かせた。


「では、ぜひ!」


 彼が差し出した手を取り、私は軽やかに歩き出す。


 もう、誰かの尻拭いのために、自分の人生を犠牲にする必要はない。


 これからは、好きな人と一緒に、好きなものを食べ、好きなだけ笑って生きていくのだ。


 もっとも……。


「ユリウス様。お菓子代は、もちろん私費ですわよね?」


「当然です。王室の予算には一切計上していませんよ」


「素晴らしいですわ!」


「ふふ。合格ですか?」


「ええ、満点です!」


 私たちの笑い声が、初夏の王宮に明るく響き渡った。


 こうして、無能王子との婚約破棄から始まった私の騒動は、最高の結末を迎えたのである。


 ただし。


 その日の夕方、財務局から一通の報告書が届いた。


『元第一王子カイル殿下、七の段の習得に成功』


 私はしばらく報告書を見つめた。


 そして、深いため息をついた。


「……先は長そうですわね」


 隣でユリウス殿下が、肩を震わせて笑っていた。


(完)



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