前世で教え子に焼かれましたので、王妃の座は聖女様にお譲りします
街道を南へ下る馬車の中で、わたくしは窓の外を眺め、うっとりとため息をついた。
畑にすらなっていない荒れ地が地平まで広がっている。街道沿いには粗末な農家が数軒あるきりで、あとは、石ころと、背の低い灌木、名前を覚える価値もなさそうな乾いた草。
素晴らしい。実に素晴らしい景色である。
――ここなら、少なくともあと二十年は、誰も「学校を作りましょう」などと言い出すまい。
ふふ、と笑いが漏れた。
御者が怯えた顔で振り返ったが、気にしないことにした。王太子との婚約を解消し、はるか南の修道院へ向かう公爵令嬢が、荒れ地を眺めて笑っている。怪しいのは百も承知である。
ごとり、と車輪が石を踏んだ。
ごとり。ごとり。
その規則正しい響きが、いつしか別の音に重なっていく。
薪の爆ぜる、あの不吉な音に。
前の生で、わたくしは聖女と呼ばれていた。
日本という国から異世界へ召喚された、ごく普通の女子大生だった。癒やしの奇跡は使えなかった。光の魔法も出なかった。召喚した神官たちの「これは、もしかして外れでは」という顔は、今でもよく覚えている。
もっとも、わたくしには知識があった。読み書き。計算。記録の取り方。複数の証言を突き合わせ、食い違いを見つける方法。病が広がるときには人の往来を制限したほうがよいこと。水は上流から汚れること。収穫量と税額は、同じ単位で記録しなければ比較できないこと。
どれも日本では、さして珍しくもない知識だった。けれど、その世界では違った。
村の子どもたちは文字を知らなかった。徴税人が帳簿を読み上げれば、そこに記された数がどれほどでたらめでも、領民は頷くしかなかった。商人が秤に細工をしても、それを記録して訴える術を持たなかった。
だから、わたくしは思ったのだ。
――学校を作ろう。
我ながら、善意百パーセントだった。混じりけなし。産地直送。疑いようのない善意である。
学校といっても、最初は村の空き家を借りただけだった。机も椅子もない。子どもたちは土間に座り、砂の上へ指で文字を書いた。
一、二、三。
自分の名前。村の名前。収穫した麦の袋の数。
子どもたちは、驚くほどよく覚えた。やがて、徴税人が読み上げる数字と実際の収穫量を突き合わせて、
「先生、これ、三割増しになっています」
と目を輝かせて報告に来る子も現れた。
かわいい。天使かと思った。
彼らはわたくしを「先生」と呼んだ。祭りの日には野の花を摘んできてくれた。初めて自分の名前を書けた子は、決まって砂の上の文字を消されまいと、両手で囲った。
わたくしは、彼らの成長が心の底から嬉しかった。あの二十年を後悔したことは、一度もない。今でも、ない。
学校は成功した。それはもう、恐ろしいほどに。
二十年後、卒業生は数百人になっていた。
読み書きができる。計算ができる。記録を残せる。証言を比べ、矛盾を見つけることができる。優秀な若者が、数百人。
対して、村の書記の席は二つ。会計係の席は一つ。
数百対三。倍率は、おおよそ百倍である。就職氷河期どころの騒ぎではない。
町へ出れば多少の働き口はあった。商家の帳場、裁判所の記録係、教会の書記。だが、そこにも限りがある。
彼らは学んだ技能を生かす場所を求めた。だが、それを受け入れる席が、あまりに少なすぎた。
そこへ教会と王権が、にこやかに新規求人を出した。
証言を集め、正確に記録し、過去の発言と照合する仕事。矛盾を発見し、聖典の教えに反する思想を分類する仕事。学校で学んだ技能を、そのまま生かせる仕事である。
卒業生歓迎。経験不問。官舎あり。制服支給。
職種、異端審問官。
求人内容に嘘は一つもなかった。
さて、ここで問題である。
この世界に存在しないはずの知識を、二十年間しゃべり続けた女がいる。
星の巡りについて。病の伝わり方について。遠い国々の統治制度について。聖典のどこにも書かれていない知識を惜しみなく語り、それを神の啓示であると説明してきた女がいる。
証言を集め、記録し、分類することを職業とする数百人の目に、その女はどう映るだろう。
正解。魔女である。
教え子たちは、わたくしが教えたとおりの手順で、わたくしを調査した。証言を集めた。過去の発言を記録と照合した。聖典にない知識を、一つひとつ丁寧に分類した。憶測を排し、証拠だけを積み上げた。
仕事が丁寧なのだ。
誰が育てたと思っているのか。わたくしである。
教会も王権も、彼らの仕事ぶりを高く評価した。そして、結論が出た。
――この女は、神から知識を授かった聖女ではない。
――世界の外から異質な知識を持ち込んだ、魔女である。
火刑台の下で判決文を読み上げたのは、かつて最も優秀だった教え子だった。砂の上に初めて自分の名前を書けた日、泣きながら笑っていた、あの子だった。
「先生」
彼は、最後までわたくしをそう呼んだ。
「あなたに教えていただいたとおり、憶測を捨て、証拠だけを集めました」
声は、誇らしげですらあった。当然だ。彼は師の教えを、一字一句たがえず実践したのだから。
満点の答案だった。
教師としても、誇らしい。誇らしいが、燃やされるのはわたくしである。採点者が火あぶりになる試験があってたまるか。
集まった群衆の中には、見覚えのある顔がいくつもあった。教え子たち。その親たち。誰も石を投げなかった。けれど、誰も助けようともしなかった。
手続きは、それほどまでに完璧かつ正しく積み上げられていた。
裏切りではない、とわたくしは思った。
これは、教育の完全勝利だ。
わたくしは彼らに、権力を疑えとは教えた。けれど、彼ら自身が権力になる日のことまでは、教えていなかった。
火は、思ったよりもゆっくり燃えた。煙で早く意識を失えればよかったのだけれど、風向きが悪く、そう都合よくはいかなかった。
薪が爆ぜる。熱が足元から這い上がる。
朦朧とする頭で、わたくしはどうでもよいことを考えていた。
――そういえば、この世界では、ギロチンをまだ見たことがない。
あれは確か、処刑する人数が多すぎて、従来の方法では手間がかかるから発明されたのではなかったか。
必要は発明の母とは、よく言ったものである。裏を返せば、必要になるまでは誰も作らない。
つまり、必要になってからで十分なのだ。
ギロチンも。
学校も。
それが、前の生でわたくしが得た、最後の教訓だった。
次に目覚めたとき、わたくしは天蓋つきの寝台の中にいた。
公爵令嬢エレノア。それが、今生のわたくしの名前だった。
美貌よし。家柄よし。教養よし。七歳で王太子殿下の婚約者。
物心ついた頃には、自分の立ち位置についても察しがついていた。
金髪。巻き髪。公爵家の令嬢。王太子の婚約者。
この配役は、あれである。いずれ現れる清らかな少女をいじめ、王太子から婚約を破棄され、破滅する係。
通称、悪役令嬢。
普通ならば青ざめるところだろう。しかし、わたくしは違った。
破滅。婚約破棄。国外追放。
大歓迎である。火あぶりに比べれば、どれもご褒美だ。国外追放など、交通費つきの避難ではないか。
もっとも、わたくしには悪役令嬢としての将来より、確認すべき重要事項があった。
この国には、まだ大規模な学校制度が存在しないことだ。
読み書きは聖職者と貴族と一部の商人の特権で、識字率の低さを嘆く声もない。
ああ、なんと平和な世界だろう、とわたくしは安堵した。
今生こそ、刺繍と茶会と領地の畑を愛で、穏やかに年を取り、寝台の上で死ぬのだ。畳の上が理想だったが、この世界に畳はないので仕方がない。
その完璧な計画は、十六歳の春に崩壊した。
異世界から、聖女が召喚されたのである。
謁見の間に満ちた光が消えたとき、一人の少女が床に座り込んでいた。
少女は周囲を見回し、深々と頭を下げた。四十五度。そして、慌てて両手を胸の前で振った。
「えっと、あの、すみません。ここ、どこですか?」
お辞儀の角度。手の振り方。謝罪から始まる会話。
日本人である。
間違いなく日本人である。
嫌な予感しか、しなかった。
聖女ミオ様は、善良で、熱心で、行動力のあるお方だった。
三拍子そろって、わたくしにとっては最悪だった。
召喚から三か月も経たないうちに、ミオ様は王太子殿下と重臣たちの居並ぶ御前会議で、高らかに宣言なさった。
「貧しい子どもたちも学べる学校を作りましょう。読み書きと計算ができれば、誰もが自分の未来を選べます!」
気がつけば、わたくしは立ち上がっていた。
「お待ちくださいませ!」
広間中の視線が突き刺さる。
分かっている。この構図は、完全に「清らかな聖女の改革を妨げる、嫉妬深い悪役令嬢」である。
分かっているが、口は止まらなかった。
「教師は、どなたが育てますの? 俸給は、一年限りではなく継続して、どの財源から支払いますの? 子どもが家の働き手から外れるあいだ、その家族の暮らしは?」
「エレノア嬢、ひとまず落ち着いて――」
王太子殿下が声をかけた。
「落ち着いておりますわ!」
実際、わたくしとしては非常に落ち着いていた。火刑台の上よりは。
「そして、卒業した子どもたちの職は? どこに、いくつ、ございますの!」
広間が静まり返った。
「読み書きのできる領民が急増すれば、既存の徴税人や村役人と必ず衝突いたします。不正を暴ける者が増えるのは結構なこと。ですが、新しく育った書記が徴税人と結託したなら、横領が二人体制になり、帳簿だけが美しくなるかもしれませんのよ!」
完璧な指摘だった。何しろ二十年間の実地検証済み。検証費用は、わたくしの命一つである。
しかし、言葉を重ねるほど、広間の空気が冷えていくのが分かった。
周囲の耳には、こう聞こえているのだろう。
――公爵令嬢は、貧しい子どもに教育を与えたくないらしい。
――既得権益を守りたいのだ。
――いや、聖女様の人気に嫉妬しているのだろう。
違う。断じて違う。
わたくしが守りたい既得権益は、「燃やされずに生きる権利」ただ一つである。
ミオ様は悲しそうに、わたくしを見つめた。
「エレノア様は……子どもたちの可能性を、信じられないのですか?」
わたくしは答えられなかった。
信じている。誰よりも信じている。
子どもは教えれば覚える。覚えれば使う。使えば世界を変える。二十年後には、教師を証拠つきで魔女認定するところまで含めて、寸分の疑いもなく信じている。
前世で、わたくしはその可能性によって焼かれたのだから。
けれど、それを口にすることはできない。「前世で異端審問にかけられた経験から申し上げますと」――そんな弁明こそ、火刑台への最短距離である。
わたくしは黙って一礼し、席へ戻った。
広間のどこかで、誰かが小さく嗤った。
敗北である。
わたくしの懸念を裏切って――いいえ、懸念どおりにと言うべきだろう――学校の設立は、恐ろしいほど順調に進んだ。
王家が古い離宮を校舎として提供した。富裕な商人たちは、競って紙とインクを寄進した。聖職者と退役した書記が、教師として名乗りを上げた。王太子殿下は渋る財務官を説き伏せ、向こう十年分の予算を確保なさった。
おやめなさい、と言いたかった。その有能さを、どうか別の場所で発揮してほしかった。
何もかもが、うまくいっていた。
前世と同じように。
開校の日、わたくしは王太子の婚約者として視察に赴いた。
一期生の子どもたちは石板を宝物のように抱きしめ、目を輝かせて最初の文字を習っていた。
かわいい。天使か。
前世でもそう思った。その後の展開まで思い出して、頭痛がしてきた。
一人の少年が、わたくしの前に駆けてきて、ぺこりと頭を下げた。
「僕、たくさん勉強します!」
わたくしの判決文を読み上げた教え子と同じ名前の少年は、利発そうな瞳でまっすぐにわたくしを見上げた。
「いつか必ず、殿下と聖女様と、エレノア様のお役に立ちます!」
「……ええ」
わたくしは微笑んだ。
「期待しておりますわ」
お役に立つだろう。実によく立つだろう。
二十年後、書記の椅子が足りなくなり、教会か王権が新しい官職をご用意あそばした、そのときに。
少年の頭を撫でながら、わたくしは考えた。
この子には何の罪もない。ミオ様にもない。学校にもない。
あの子たちの学びは本物だ。ミオ様の善意も本物。王太子殿下の予算も本物である。
学校を潰す必要はない。潰せもしないし、潰すべきでもない。
誰も悪くないのに、二十年後に薪が組まれる。
それが制度というものである。
制度と戦ってはならない。
制度に勝てるのは制度だけで、わたくしは制度ではない。
可燃物である。
ならば、解決策は一つしかない。
火が回る前に、燃えやすいもの――すなわち、わたくし自身を――現場から撤去すればよいのである。
婚約解消の申し出は、書面と口頭の両方で、正式に行った。
「聖女様こそ、この国の新しい時代を導くお方です。王太子殿下のお隣には、わたくしではなく、ミオ様こそがふさわしいでしょう」
我ながら、非の打ちどころのない口上だった。
高潔。無私。物分かり良好。
悪役令嬢の台詞としては零点だが、逃亡者の口上としては満点である。
王太子殿下は、心底戸惑っておられた。
「エレノア、私は君を蔑ろにしたつもりはない」
「存じております」
「何か不満があるなら、言ってくれ」
「不満は何一つございませんわ」
これは本心だった。
「では、なぜだ」
わたくしは少し考えた。
嘘はつきたくない。だが、本当のことは絶対に言えない。
「強いて申し上げるならば……」
慎重に言葉を選ぶ。
「この国の未来が、輝かしすぎますの」
王太子殿下は黙った。
その顔に、見えない疑問符が五つほど並んでいた。
嘘ではない。輝かしいのだ。
松明のように。
ミオ様は青ざめ、震える声でおっしゃった。
「わたしのせいですか? わたしが、エレノア様から殿下を……」
「まさか」
わたくしは即座に否定した。
「ミオ様は、何もお奪いになっておりません。学校も、どうか続けてくださいまし。素晴らしい事業ですわ」
これも、すべて本心だった。
わたくしは誰も責めていない。何にも反対していない。
ただ、はるか南の修道院に入り、残る生涯を祈りと畑仕事に捧げたいだけである。
一番の難関は、身内だった。
お父様は机を叩いて泣いた。
「修道院などへ行く必要はない!」
お兄様も目を真っ赤にして頷いた。
「聖女が気に入らないなら、あの学校を閉じさせることだって――」
「おやめになって!」
わたくしは、生まれて初めて兄の言葉を遮った。危うく、襟首を掴むところだった。
学校を閉じたら、二十年後と言わず、火刑台にわたくし専用の席が用意される。「貧しい子どもから学びを奪った悪女」という立派な罪状つきで。
それだけは、絶対に避けなければならない。
「学校を閉じてはなりません。あの子たちは何も悪くありません。ミオ様も、殿下も、お父様も、お兄様も、誰一人として悪くありませんわ」
お父様は長く黙ったあと、わたくしの手を握った。
「そこまでして行きたいのか」
「ええ」
「……戻りたくなったら、いつでも戻ってきなさい」
胸の奥が、少しだけ痛んだ。けれど、わたくしは微笑んだ。
「ありがとうございます、お父様」
手紙は書こう。
ただし、本音は書かない。
文書は証拠になるので。
ごとり、と馬車が揺れた。
わたくしは我に返った。
薪の爆ぜる音は、もうしない。
聞こえるのは車輪の音と、馬の蹄と、乾いた風だけだった。
都市はとうに遠ざかっていた。街道はいよいよ細くなり、風景はいよいよ荒れ果てていく。
この先にある南方の修道院は、貧しい土地に建つ小さな家だ。
周辺には十分な人口もない。産業もない。学校を維持できる余剰もなければ、識字人材を雇い上げる官僚機構もない。
異端審問官が生まれるような土壌が、どこにもない。
なんという優良物件だろう。
荒れ地徒歩零分。文明まで馬車で十日。
わたくしは窓枠に頬杖をつき、石ころだらけの大地を眺めた。
いずれ、この土地も豊かになるかもしれない。人口が増え、商人が集まり、帳簿や証文を扱う仕事が増えれば、そのときは誰かが学校を作るだろう。
わたくしではない、誰かが。
それでよいのだ。
学校は、必要になってから作ればよい。
ギロチンと、同じように。
お父様とお兄様の泣き顔を思い出すと、少しだけ胸が痛んだけれど、こればかりは譲れない。
なにしろ、わたくしは知っているのだ。
善意がどれほど順調に育つのか。教育がどれほど見事に実を結ぶのか。子どもたちの可能性が、どれほど大きなものなのか。
――二度も続けて火あぶりになるのは、ごめんなのである。
馬車は高笑いするように揺れながら、文明の気配のない南へと進んでいった。
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