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そのフラグ、回収いたしません

前世で教え子に焼かれましたので、王妃の座は聖女様にお譲りします

作者: 如月アトリ
掲載日:2026/08/20

 街道を南へ下る馬車の中で、わたくしは窓の外を眺め、うっとりとため息をついた。

 畑にすらなっていない荒れ地が地平まで広がっている。街道沿いには粗末な農家が数軒あるきりで、あとは、石ころと、背の低い灌木、名前を覚える価値もなさそうな乾いた草。

 素晴らしい。実に素晴らしい景色である。

 ――ここなら、少なくともあと二十年は、誰も「学校を作りましょう」などと言い出すまい。

 ふふ、と笑いが漏れた。

 御者が怯えた顔で振り返ったが、気にしないことにした。王太子との婚約を解消し、はるか南の修道院へ向かう公爵令嬢が、荒れ地を眺めて笑っている。怪しいのは百も承知である。

 ごとり、と車輪が石を踏んだ。

 ごとり。ごとり。

 その規則正しい響きが、いつしか別の音に重なっていく。

 薪の爆ぜる、あの不吉な音に。




 前の生で、わたくしは聖女と呼ばれていた。

 日本という国から異世界へ召喚された、ごく普通の女子大生だった。癒やしの奇跡は使えなかった。光の魔法も出なかった。召喚した神官たちの「これは、もしかして外れでは」という顔は、今でもよく覚えている。

 もっとも、わたくしには知識があった。読み書き。計算。記録の取り方。複数の証言を突き合わせ、食い違いを見つける方法。病が広がるときには人の往来を制限したほうがよいこと。水は上流から汚れること。収穫量と税額は、同じ単位で記録しなければ比較できないこと。

 どれも日本では、さして珍しくもない知識だった。けれど、その世界では違った。

 村の子どもたちは文字を知らなかった。徴税人が帳簿を読み上げれば、そこに記された数がどれほどでたらめでも、領民は頷くしかなかった。商人が秤に細工をしても、それを記録して訴える術を持たなかった。

 だから、わたくしは思ったのだ。

 ――学校を作ろう。

 我ながら、善意百パーセントだった。混じりけなし。産地直送。疑いようのない善意である。

 学校といっても、最初は村の空き家を借りただけだった。机も椅子もない。子どもたちは土間に座り、砂の上へ指で文字を書いた。

 一、二、三。

 自分の名前。村の名前。収穫した麦の袋の数。

 子どもたちは、驚くほどよく覚えた。やがて、徴税人が読み上げる数字と実際の収穫量を突き合わせて、

「先生、これ、三割増しになっています」

と目を輝かせて報告に来る子も現れた。

 かわいい。天使かと思った。

 彼らはわたくしを「先生」と呼んだ。祭りの日には野の花を摘んできてくれた。初めて自分の名前を書けた子は、決まって砂の上の文字を消されまいと、両手で囲った。

 わたくしは、彼らの成長が心の底から嬉しかった。あの二十年を後悔したことは、一度もない。今でも、ない。

 学校は成功した。それはもう、恐ろしいほどに。


 二十年後、卒業生は数百人になっていた。

 読み書きができる。計算ができる。記録を残せる。証言を比べ、矛盾を見つけることができる。優秀な若者が、数百人。

 対して、村の書記の席は二つ。会計係の席は一つ。

 数百対三。倍率は、おおよそ百倍である。就職氷河期どころの騒ぎではない。

 町へ出れば多少の働き口はあった。商家の帳場、裁判所の記録係、教会の書記。だが、そこにも限りがある。

 彼らは学んだ技能を生かす場所を求めた。だが、それを受け入れる席が、あまりに少なすぎた。

 そこへ教会と王権が、にこやかに新規求人を出した。

 証言を集め、正確に記録し、過去の発言と照合する仕事。矛盾を発見し、聖典の教えに反する思想を分類する仕事。学校で学んだ技能を、そのまま生かせる仕事である。

 卒業生歓迎。経験不問。官舎あり。制服支給。

 職種、異(・)端(・)審(・)問(・)官(・)。

 求人内容に嘘は一つもなかった。


 さて、ここで問題である。

 この世界に存在しないはずの知識を、二十年間しゃべり続けた女がいる。

 星の巡りについて。病の伝わり方について。遠い国々の統治制度について。聖典のどこにも書かれていない知識を惜しみなく語り、それを神の啓示であると説明してきた女がいる。

 証言を集め、記録し、分類することを職業とする数百人の目に、その女はどう映るだろう。

 正解。魔女である。

 教え子たちは、わたくしが教えたとおりの手順で、わたくしを調査した。証言を集めた。過去の発言を記録と照合した。聖典にない知識を、一つひとつ丁寧に分類した。憶測を排し、証拠だけを積み上げた。

 仕事が丁寧なのだ。

 誰が育てたと思っているのか。わたくしである。


 教会も王権も、彼らの仕事ぶりを高く評価した。そして、結論が出た。

 ――この女は、神から知識を授かった聖女ではない。

 ――世界の外から異質な知識を持ち込んだ、魔女である。

 火刑台の下で判決文を読み上げたのは、かつて最も優秀だった教え子だった。砂の上に初めて自分の名前を書けた日、泣きながら笑っていた、あの子だった。

「先生」

 彼は、最後までわたくしをそう呼んだ。

「あなたに教えていただいたとおり、憶測を捨て、証拠だけを集めました」

 声は、誇らしげですらあった。当然だ。彼は師の教えを、一字一句たがえず実践したのだから。

 満点の答案だった。

 教師としても、誇らしい。誇らしいが、燃やされるのはわたくしである。採点者が火あぶりになる試験があってたまるか。

 集まった群衆の中には、見覚えのある顔がいくつもあった。教え子たち。その親たち。誰も石を投げなかった。けれど、誰も助けようともしなかった。

 手続きは、それほどまでに完璧かつ正しく積み上げられていた。


 裏切りではない、とわたくしは思った。

 これは、教育の完全勝利だ。

 わたくしは彼らに、権力を疑えとは教えた。けれど、彼ら自身が権力になる日のことまでは、教えていなかった。


 火は、思ったよりもゆっくり燃えた。煙で早く意識を失えればよかったのだけれど、風向きが悪く、そう都合よくはいかなかった。

 薪が爆ぜる。熱が足元から這い上がる。

 朦朧とする頭で、わたくしはどうでもよいことを考えていた。

 ――そういえば、この世界では、ギロチンをまだ見たことがない。

 あれは確か、処刑する人数が多すぎて、従来の方法では手間がかかるから発明されたのではなかったか。

 必要は発明の母とは、よく言ったものである。裏を返せば、必要になるまでは誰も作らない。

 つまり、必要になってからで十分なのだ。

 ギロチンも。

 学校も。

 それが、前の生でわたくしが得た、最後の教訓だった。




 次に目覚めたとき、わたくしは天蓋つきの寝台の中にいた。

 公爵令嬢エレノア。それが、今生のわたくしの名前だった。

 美貌よし。家柄よし。教養よし。七歳で王太子殿下の婚約者。

 物心ついた頃には、自分の立ち位置についても察しがついていた。

 金髪。巻き髪。公爵家の令嬢。王太子の婚約者。

 この配役は、あれである。いずれ現れる清らかな少女をいじめ、王太子から婚約を破棄され、破滅する係。

 通称、悪役令嬢。

 普通ならば青ざめるところだろう。しかし、わたくしは違った。

 破滅。婚約破棄。国外追放。

 大歓迎である。火あぶりに比べれば、どれもご褒美だ。国外追放など、交通費つきの避難ではないか。

 もっとも、わたくしには悪役令嬢としての将来より、確認すべき重要事項があった。

 この国には、まだ大規模な学校制度が存在しないことだ。

 読み書きは聖職者と貴族と一部の商人の特権で、識字率の低さを嘆く声もない。

 ああ、なんと平和な世界だろう、とわたくしは安堵した。

 今生こそ、刺繍と茶会と領地の畑を愛で、穏やかに年を取り、寝台の上で死ぬのだ。畳の上が理想だったが、この世界に畳はないので仕方がない。

 その完璧な計画は、十六歳の春に崩壊した。

 異世界から、聖女が召喚されたのである。

 謁見の間に満ちた光が消えたとき、一人の少女が床に座り込んでいた。

 少女は周囲を見回し、深々と頭を下げた。四十五度。そして、慌てて両手を胸の前で振った。

「えっと、あの、すみません。ここ、どこですか?」

 お辞儀の角度。手の振り方。謝罪から始まる会話。

 日本人である。

 間違いなく日本人である。

 嫌な予感しか、しなかった。


 聖女ミオ様は、善良で、熱心で、行動力のあるお方だった。

 三拍子そろって、わたくしにとっては最悪だった。

 召喚から三か月も経たないうちに、ミオ様は王太子殿下と重臣たちの居並ぶ御前会議で、高らかに宣言なさった。

「貧しい子どもたちも学べる学校を作りましょう。読み書きと計算ができれば、誰もが自分の未来を選べます!」

 気がつけば、わたくしは立ち上がっていた。

「お待ちくださいませ!」

 広間中の視線が突き刺さる。

 分かっている。この構図は、完全に「清らかな聖女の改革を妨げる、嫉妬深い悪役令嬢」である。

 分かっているが、口は止まらなかった。

「教師は、どなたが育てますの? 俸給は、一年限りではなく継続して、どの財源から支払いますの? 子どもが家の働き手から外れるあいだ、その家族の暮らしは?」

「エレノア嬢、ひとまず落ち着いて――」

 王太子殿下が声をかけた。

「落ち着いておりますわ!」

 実際、わたくしとしては非常に落ち着いていた。火刑台の上よりは。

「そして、卒業した子どもたちの職は? どこに、いくつ、ございますの!」

 広間が静まり返った。

「読み書きのできる領民が急増すれば、既存の徴税人や村役人と必ず衝突いたします。不正を暴ける者が増えるのは結構なこと。ですが、新しく育った書記が徴税人と結託したなら、横領が二人体制になり、帳簿だけが美しくなるかもしれませんのよ!」

 完璧な指摘だった。何しろ二十年間の実地検証済み。検証費用は、わたくしの命一つである。

 しかし、言葉を重ねるほど、広間の空気が冷えていくのが分かった。

 周囲の耳には、こう聞こえているのだろう。

 ――公爵令嬢は、貧しい子どもに教育を与えたくないらしい。

 ――既得権益を守りたいのだ。

 ――いや、聖女様の人気に嫉妬しているのだろう。

 違う。断じて違う。

 わたくしが守りたい既得権益は、「燃やされずに生きる権利」ただ一つである。

 ミオ様は悲しそうに、わたくしを見つめた。

「エレノア様は……子どもたちの可能性を、信じられないのですか?」

 わたくしは答えられなかった。

 信じている。誰よりも信じている。

 子どもは教えれば覚える。覚えれば使う。使えば世界を変える。二十年後には、教師を証拠つきで魔女認定するところまで含めて、寸分の疑いもなく信じている。

 前世で、わたくしはその可能性によって焼かれたのだから。

 けれど、それを口にすることはできない。「前世で異端審問にかけられた経験から申し上げますと」――そんな弁明こそ、火刑台への最短距離である。

 わたくしは黙って一礼し、席へ戻った。

 広間のどこかで、誰かが小さく嗤った。

 敗北である。


 わたくしの懸念を裏切って――いいえ、懸念どおりにと言うべきだろう――学校の設立は、恐ろしいほど順調に進んだ。

 王家が古い離宮を校舎として提供した。富裕な商人たちは、競って紙とインクを寄進した。聖職者と退役した書記が、教師として名乗りを上げた。王太子殿下は渋る財務官を説き伏せ、向こう十年分の予算を確保なさった。

 おやめなさい、と言いたかった。その有能さを、どうか別の場所で発揮してほしかった。

 何もかもが、うまくいっていた。

 前世と同じように。


 開校の日、わたくしは王太子の婚約者として視察に赴いた。

 一期生の子どもたちは石板を宝物のように抱きしめ、目を輝かせて最初の文字を習っていた。

 かわいい。天使か。

 前世でもそう思った。その後の展開まで思い出して、頭痛がしてきた。

 一人の少年が、わたくしの前に駆けてきて、ぺこりと頭を下げた。

「僕、たくさん勉強します!」

 わたくしの判決文を読み上げた教え子と同じ名前の少年は、利発そうな瞳でまっすぐにわたくしを見上げた。

「いつか必ず、殿下と聖女様と、エレノア様のお役に立ちます!」

「……ええ」

 わたくしは微笑んだ。

「期待しておりますわ」

 お役に立つだろう。実によく立つだろう。

 二十年後、書記の椅子が足りなくなり、教会か王権が新しい官職をご用意あそばした、そのときに。

 少年の頭を撫でながら、わたくしは考えた。

 この子には何の罪もない。ミオ様にもない。学校にもない。

 あの子たちの学びは本物だ。ミオ様の善意も本物。王太子殿下の予算も本物である。

 学校を潰す必要はない。潰せもしないし、潰すべきでもない。

 誰も悪くないのに、二十年後に薪が組まれる。


 それが制度というものである。

 制度と戦ってはならない。

 制度に勝てるのは制度だけで、わたくしは制度ではない。

 可燃物である。

 ならば、解決策は一つしかない。

 火が回る前に、燃えやすいもの――すなわち、わたくし自身を――現場から撤去すればよいのである。




 婚約解消の申し出は、書面と口頭の両方で、正式に行った。

「聖女様こそ、この国の新しい時代を導くお方です。王太子殿下のお隣には、わたくしではなく、ミオ様こそがふさわしいでしょう」

 我ながら、非の打ちどころのない口上だった。

 高潔。無私。物分かり良好。

 悪役令嬢の台詞としては零点だが、逃亡者の口上としては満点である。

 王太子殿下は、心底戸惑っておられた。

「エレノア、私は君を蔑ろにしたつもりはない」

「存じております」

「何か不満があるなら、言ってくれ」

「不満は何一つございませんわ」

 これは本心だった。

「では、なぜだ」

 わたくしは少し考えた。

 嘘はつきたくない。だが、本当のことは絶対に言えない。

「強いて申し上げるならば……」

 慎重に言葉を選ぶ。

「この国の未来が、輝かしすぎますの」

 王太子殿下は黙った。

 その顔に、見えない疑問符が五つほど並んでいた。

 嘘ではない。輝かしいのだ。

 松明のように。

 ミオ様は青ざめ、震える声でおっしゃった。

「わたしのせいですか? わたしが、エレノア様から殿下を……」

「まさか」

 わたくしは即座に否定した。

「ミオ様は、何もお奪いになっておりません。学校も、どうか続けてくださいまし。素晴らしい事業ですわ」

 これも、すべて本心だった。

 わたくしは誰も責めていない。何にも反対していない。

 ただ、はるか南の修道院に入り、残る生涯を祈りと畑仕事に捧げたいだけである。


 一番の難関は、身内だった。

 お父様は机を叩いて泣いた。

「修道院などへ行く必要はない!」

 お兄様も目を真っ赤にして頷いた。

「聖女が気に入らないなら、あの学校を閉じさせることだって――」

「おやめになって!」

 わたくしは、生まれて初めて兄の言葉を遮った。危うく、襟首を掴むところだった。

 学校を閉じたら、二十年後と言わず、火刑台にわたくし専用の席が用意される。「貧しい子どもから学びを奪った悪女」という立派な罪状つきで。

 それだけは、絶対に避けなければならない。

「学校を閉じてはなりません。あの子たちは何も悪くありません。ミオ様も、殿下も、お父様も、お兄様も、誰一人として悪くありませんわ」

 お父様は長く黙ったあと、わたくしの手を握った。

「そこまでして行きたいのか」

「ええ」

「……戻りたくなったら、いつでも戻ってきなさい」

 胸の奥が、少しだけ痛んだ。けれど、わたくしは微笑んだ。

「ありがとうございます、お父様」

 手紙は書こう。

 ただし、本音は書かない。

 文書は証拠になるので。




 ごとり、と馬車が揺れた。

 わたくしは我に返った。

 薪の爆ぜる音は、もうしない。

 聞こえるのは車輪の音と、馬の蹄と、乾いた風だけだった。

 都市はとうに遠ざかっていた。街道はいよいよ細くなり、風景はいよいよ荒れ果てていく。

 この先にある南方の修道院は、貧しい土地に建つ小さな家だ。

 周辺には十分な人口もない。産業もない。学校を維持できる余剰もなければ、識字人材を雇い上げる官僚機構もない。

 異端審問官が生まれるような土壌が、どこにもない。


 なんという優良物件だろう。

 荒れ地徒歩零分。文明まで馬車で十日。

 わたくしは窓枠に頬杖をつき、石ころだらけの大地を眺めた。

 いずれ、この土地も豊かになるかもしれない。人口が増え、商人が集まり、帳簿や証文を扱う仕事が増えれば、そのときは誰かが学校を作るだろう。

 わたくしではない、誰かが。

 それでよいのだ。

 学校は、必要になってから作ればよい。

 ギロチンと、同じように。

 お父様とお兄様の泣き顔を思い出すと、少しだけ胸が痛んだけれど、こればかりは譲れない。

 なにしろ、わたくしは知っているのだ。

 善意がどれほど順調に育つのか。教育がどれほど見事に実を結ぶのか。子どもたちの可能性が、どれほど大きなものなのか。

 ――二度も続けて火あぶりになるのは、ごめんなのである。

 馬車は高笑いするように揺れながら、文明の気配のない南へと進んでいった。

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