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八百万(やおよろず)の傘の下で

作者: 山田 ソラ
掲載日:2026/04/22

 宗教の話は、酒の席でするものじゃない。


 それが守田浩二の長年の信条だった。五十八歳、居酒屋「守田」の二代目店主。カウンター七席、テーブル三つ。新橋の路地裏で三十年やってきた。


 客の話は聞く。でも乗っかるな。それが父から受け継いだ商売の哲学だった。


 その夜、騒ぎはカウンターの端から始まった。


 IT企業に勤めるという三十代の男、村上が、隣に座ったインド人のラジュに話しかけたのがきっかけだった。ラジュは近所の会社に派遣されているエンジニアで、週に二度ほど顔を出す常連だ。


「ラジュさんってヒンドゥー教ですか」


「そうです」とラジュは微笑んだ。


「神様がたくさんいる宗教です」


「何人くらいいるんですか、神様」


「三億三千万と言われています」


 村上は少し笑った。笑い方が、よくなかった。


「多すぎません? うちはキリスト教なんですけど、神様は一人でいいと思いますよ。その方がシンプルだし、正直」


 ラジュの表情が、ほんの少し固まった。


 浩二はカウンターを拭く手を止めた。


「シンプルが正しいとは限らないですよ」とラジュは静かに言った。


「神様が一人しかいないなら、どうして世界にこれだけ違う文化があるんですか。一人の神様が全部作ったなら、なぜこんなにバラバラなんです」


「それは人間が堕落したからですよ。聖書にも……」


「聖書はあなたの真実です。私にとっての真実ではない」


 村上の顔が少し赤くなった。酒のせいだけではなかった。


「でも事実として、キリスト教は世界最大の宗教で……」


「信者が多ければ正しいんですか」


 声が大きくなってきた。他の客がちらちらと視線を向け始めた。


 浩二は徳利を持って二人の前に立った。


「まあまあ、一杯どうぞ」


 それだけ言って、両方の猪口に酒を注いだ。二人は黙った。


 少し間を置いてから、浩二はカウンターに肘をついてぽつりと言った。


「うちの近所に神社があるんですよ」


 唐突な話に、村上とラジュが浩二を見た。


「氏神様を祀ってる、小さな社でね。七五三の時期になると子供たちが晴れ着着て来る。初詣には近所の爺さん婆さんが列作って来る。ありがとうございます、どうか家族が健康でありますように、って手を合わせてる」


「……それが何ですか」と村上が言った。


「日本にはね、八百万やおよろずの神様がいるって言うんですよ」


「八百万?」


「八百万。山にも、川にも、木にも、台所にも、便所にも、神様がいる。風にも、雨にも、時間にも。数えきれないくらいいる」浩二は少し笑った。


「だからね、世界中の神様を全部足したって、たぶん八百万の中に入っちゃうんですよ」


 ラジュが目を丸くした。「三億三千万も?」


「入る入る。うちの神様はそういう神様だから」


 村上はしばらく黙っていた。


 浩二は続けた。


「ただね、俺が思うのは神様の話で人間が喧嘩するのは、おかしいってことですよ」


「……おかしい?」


「神様が喧嘩しろって言いましたか。あなたの神様も、ラジュさんの神様も」


 二人とも黙った。


「キリストは隣人を愛せと言ったでしょう。ヒンドゥーだって、不殺生、アヒンサーって言葉があるって、ラジュさんから前に聞きましたよ」


 浩二はラジュを見た。ラジュは静かに頷いた。

 

「神様はだいたい、仲良くしろって言ってるんですよ。それを人間が勝手に解釈して、うちの神様の方が偉いって言い合いを始める」


 浩二は徳利を置いた。


「神様が聞いたら泣きますよ、そんなの」


 村上は猪口を見つめていた。


 しばらくして、ぼそっと言った。


「……俺、押しつけましたね」


「まあ」と浩二は正直に答えた。


「事実だと思ってたんですよ。キリスト教が一番広まってるのは事実だから、それが正しいんだって」


「事実と真実は違いますよ」


 村上が顔を上げた。


「信者が多いのは事実かもしれない。でもそれがあなたにとっての真実かどうかは、別の話でしょう。ラジュさんにとっての真実も、また別だ。神様の話は、そういうもんじゃないですか」


 ラジュがゆっくりと口を開いた。


「私も、少し言いすぎました」


「いや、俺の方が……」


「両方ですよ」と浩二は笑った。「まあ飲みなさいな」


 その後、二人はしばらく黙って飲んでいた。


 やがて村上がラジュに聞いた。


「三億三千万の神様って、名前とか全部あるんですか」


「全部は無理ですよ」とラジュも笑った。


「でも主要な神様は、うちの祖母は全員知ってました」


「すごいな……うちの祖母は聖書の登場人物も半分知らなかったのに」


 二人が笑った。


 浩二は奥で洗い物をしながら、その笑い声を聞いていた。


 閉店後、浩二は一人でカウンターに座り、残った酒を少し飲んだ。


 神様がいるかどうか、浩二にはわからない。死んだ父が「神社には手を合わせておけ、損はない」と言っていた。それくらいの信心しかない。


 でも思う。


 もし神様がいるなら、喧嘩を見て悲しんでいるはずだ。自分の名前を使って人が傷つけ合うのを見て、困った顔をしているはずだ。


 そして八百万の神様がいるなら、世界中の神様は結局みんな同じ場所にいる。山も川も風も、全部つながっているように。


 一人の人間の言葉が全ての真実にはなれない。一つの宗教が全ての人間の真実にはなれない。


 それは優劣の話じゃない。


 世界がそれだけ広いという話だ。人間がそれだけ多様だという話だ。


 神様がいるとしたら、きっとその多様さを、最初から知っていたはずだ。


 翌週、村上とラジュは二人で連れ立って店に来た。


 浩二は何も言わず、二人分の酒を出した。


 それだけで十分だった。


 完

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