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『削れる線と、触れてはいけない距離』 第8章 空白の告白

中間発表はクラス内だけで行うと告げられていた。外部講師も他の教員もいない、東雲が一人で学生の案を巡回していく形式だ。評価というよりは、濃密な途中経過の確認。それでも教室の空気は張りつめていた。誰もが、自分の設計の真価を問われる場だと分かっているからだ。


名前を呼ばれ、湊は前に立つ。プロジェクターに映し出される、自分の設計のコンセプト、コンテクスト、ダイヤグラム、そして図面。

「……以上です」

説明を終えた湊の声は、自分でも驚くほど乾いていた。

東雲は図面を凝視したまま、しばらく何も言わなかった。沈黙が落ちる。やがて、低い声が教室に響いた。

「難しい条件です」

否定ではない。事実の確認だ。

「ただ、不要な線を削ったという判断は、正しい」

湊の呼吸が止まる。

「まだ弱い部分はあります。ですが、方向は良い。伸びしろがあります」

それだけだった。声に感情は乗っていない。誰に対しても変わらない、公平な調子だ。それでも、湊の胸の奥は静かに震えた。正しかった。削ってよかった。それ以上の言葉はいらなかった。

「次」

東雲はすぐに視線を移す。特別扱いは一切ない。峻厳な教師の顔だった。

発表が一通り終わると、東雲は腕時計に目をやった。

「残り三十分は自習にします。各自、今日の講評を元に修正してください」

教室にざわめきが戻る。椅子が引かれ、パソコンが開く。緊張から解放された誰かの小さな笑い声が混ざる中、湊はゆっくりと自分の席に戻った。

「よかったじゃん、湊」

隣から声がする。クラスメイトの藤堂だった。背が高く、人懐っこい笑顔を絶やさない彼は、隠す気のない好意を瞳に宿し、椅子ごと湊の方へ寄せてくる。「帰りも駅まで一緒に行こう」と藤堂が言いかけた、その時だった。

「朝倉」

低い声が、教室の前方から鋭く落ちる。東雲だった。

「少しいいですか。来なさい」

理由は告げられない。藤堂が微かに眉を寄せ、湊は慌てて立ち上がった。パソコンを鞄に押し込み、スケッチブックを抱えるようにして東雲の背中を追った。

廊下は静かで、大きな窓から午後の光が斜めに差し込んでいる。前を歩く東雲の背中は大きく、迷いがない。湊は呼吸が浅くなるのを感じながら、半歩遅れてついていった。

その瞬間だった。

手の中で、スケッチブックが滑る。

乾いた音が廊下に響いた。慌ててしゃがもうとした湊より先に、東雲の手が伸びていた。拾い上げられたスケッチブック。その表紙が、偶然にも捲れる。東雲の視線が、そこに落ちた。

――削れる勇気をくれた人。

その少し下、小さな文字。

――隣に立ちたい。

言葉は瞬時に彼の意識へと滑り込んだ。東雲は一瞬だけ、息を止めた。

ああ、そうか。

静かな、そして深い納得が胸に落ちる。嬉しさが、自分でも驚くほど微かに、けれど確かに奥底で揺れた。

東雲は何も言わず、スケッチブックを閉じた。湊はまだしゃがみ込んだまま、石のように固まっている。東雲がスケッチブックを差し出した。湊がおそるおそる受け取る。その時、東雲は初めて、じっと湊の顔を覗き込んだ。赤い。耳の付け根までが、熱を持っている。

(……かわいいな)

そんな感情が自然に浮かんだことに自分自身で驚きながら、それでも東雲は表情を変えなかった。

「……その言葉」

一拍。湊の心臓が跳ねる。

「図面に、どう反映しますか」

廊下の空気が、完全に止まった。責められているわけではない。だが逃げ場のない、設計としての問い。

「……まだ、分かりません」

やっとの思いで、小さな声を絞り出した。

「分からないなら、考えてください」

東雲は頷く。

「言葉は、残ります。残るなら、空間にしてください。それがあなたの仕事です」

東雲はそれ以上何も言わず、踵を返した。教室の方へ歩いていく背中は、いつもと変わらない教師の歩幅だった。

見られた。でも、否定はされなかった。代わりに、この想いを設計に変えろと言われた。

湊は震える手でスケッチブックを握り直した。

(隣に立ちたいなら、相応の線を描け、ということだ)


その日の夜。 湊は自分の部屋の机に向かい、開いたスケッチブックをただ見つめていた。ページに書かれた、自分の幼い願望。東雲がその文字をなぞるように見ていた光景が、まぶたの裏に焼き付いて離れない。

(見られた。……見られてしまった)

恥ずかしさで顔から火が出そうになるのに、胸の奥では小さな火花が散るような、嬉しいドキドキが止まらなかった。否定されなかった。蔑まれなかった。「空間にしろ」と言われた。それは、この想いを持ち続けることを許されたような気がして。

ふと、昼間の出来事を思い返す。東雲はなぜ、あのタイミングで自分を呼び出したのだろうか。修正の指示も、具体的な講評の続きもなかった。ただあの問いを投げかけるためだけに、彼は自分を連れ出した。

(……もし、あのまま藤堂くんと一緒にいたら)

藤堂の誘いを、遮るようにしてかけられた声。そう思うのは自惚れすぎだろうか。けれど、そう思いたい自分がいる。彼が、自分を誰かの隣に行かせたくなくて、あの場所に引き留めてくれたのだと。「空間にしろ」という言葉の裏に、彼自身の隠された独占欲を探してしまう。

「……ずるいよ、先生」

湊はスケッチブックの上に突っ伏した。複雑な不安と、弾むような喜びが交互に押し寄せ、熱を持った頬がいつまでも冷めることはなかった。


それから一週間、湊は取り憑かれたように図面に向き合った。

東雲に会いたい。あの鋭い視線に、もう一度自分の線を晒したい。

木曜日が近づくにつれ、湊の心拍は日ごとに速まっていった。


そして迎えた、次の木曜日。

湊は覚悟を決めて教室の扉を開けた。教壇を見ることができないまま席に座り、ただ拳を握りしめる。チャイムが鳴り、扉が開く。湊は思わず息を止めた。

「おはよう。今日は東雲先生が急用でお休みなので、代わりに私が担当します」

教壇に立ったのは、担任の先生だった。湊は、張り詰めていた糸がぷつりと切れたような感覚に襲われた。

(……いない)

安堵した。自分を守ることができて、心からホッとした。けれど、それ以上に、立っていられないほどの空虚さが湊を襲う。あの日、あんなにも自分を追い詰めたくせに、彼は今日、ここにはいない。

隣の小野寺が心配そうに覗き込んでくるが、湊は力なく微笑むことしかできなかった。

(攻めてほしかったんだ)

不意に自分の本心に気づいて、湊は唇を噛んだ。

「あの言葉はどういう意味だ」と、もう一度あの熱い圧で問い詰められたかった。彼に否定され、あるいは肯定され、剥き出しの自分をその視線の中に繋ぎ止めておいてほしかったのだ。

代理の先生が淡々と授業を進める中、湊は真っ白な図面の一角を見つめ続けた。

会いたい。

でも会いたくない。

自分を壊してほしいのに、嫌われるのが怖い。

窓の外では、冬の足音が確実に近づいている。

東雲凌という存在が刻んだあの「圧」だけが、冷えた湊の指先に、消えない火傷のような熱を残したままだった。



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