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『削れる線と、触れてはいけない距離』 第7章 平等という距離

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 朝、湊は頭の奥が鈍く重い感覚で目を覚ました。

 昨日の夜の会話は曖昧だ。露天の冷たい空気と、川の音だけが残っている。ポケットに手を入れると、何かが触れた。

 小さな金属片。

 取り出してみる。プルタブ。

 一瞬、記憶がよみがえる。笑っていた自分。差し出された手。だが、細部は思い出せない。


「何やってんだ」


 悠斗が布団の中から顔を出す。


「なんでもない」


 湊はそれを再びポケットに戻した。



 朝食を終えたあと、四人は一度部屋へ戻り、身支度を整えた。今日は昼前に周辺を少し歩き、早めに戻る予定になっている。

 ロビーへ降りたとき、自動ドアの外から明るい声が響いた。


「お久しぶり!」


 外光を背にして入ってきたのは、長い髪をまとめた綺麗な女性だった。


「鷹宮、久しぶり」

「相変わらず声がでかいな」


 鷹宮が笑う。

 女性はそのまま東雲に視線を移した。


「東雲も」


 その呼び方が、少しだけ近い。


「……久しぶり」


 東雲は短く返す。


「ちゃんと来てくれたんだ」

「仕事です」

「分かってる」


 女性は笑いながら、軽く東雲の肩にぶつかる。

 その距離が自然すぎて、湊は視線を落とした。


「私がここにいるの知ってて、この旅館にしたの?」

「予約したのは鷹宮です」

「相変わらず固いね。大学のときから変わらない」


 その一言で、空気が少しだけ動く。

 鷹宮が横から笑う。


「お前、まだその話するのか」

「だって有名だったでしょ?私が追いかけてたの」


 ロビーの空気がどこか軽くなる。

 湊は黙って立っている。

 東雲の横顔を見る。表情は変わらないが、完全に無関心というわけでもない。過去として処理している顔だ。


「今度そっちに行くとき、ご飯でもどう?」


 女性が言う。


「スケジュールが空いていれば」


 間を置いて、東雲が返す。曖昧でも、拒絶でもない。

 女性は笑い、鷹宮に向き直る。


「予約ありがとう。いつでも歓迎だから。また来てね」

「営業上手だな」

「経営者ですから」


 女性は手を振り、フロントへ消えていった。ロビーが静かになる。

 湊は視線を床に落とす。

 さっきの距離。肩に触れた自然さ。“大学のときから”という言葉。

 頭の中で、その言葉が何度も反復される。胸の奥が、静かにざわついた。

 自分は男が好きだ。

 けれど、東雲がどうかは知らない。

 むしろ、普通に女性と並ぶ姿のほうが自然に見える。それは当然だと、頭では理解している。

 何もおかしくない。

 それなのに。

 ポケットの中の金属が、急に存在感を持つ。

 昨日の夜の記憶は曖昧だ。けれど、何かをもらった気がする。

 同時に、何かを渡されたような感覚も残っている。

 指先でそっと触れる。冷たい。

 その冷たさに押されるように顔を上げると、東雲はすでに外へ向かって歩き出していた。


「行きますよ」


 振り返らずに言う。

 その声は、学校で聞くものと同じだった。

 平等で、一定の距離を保ったままの声音。

 湊は一歩遅れて歩き出す。歩幅を合わせないように。

 合わせてしまいそうになるから。


 昼は温泉街の食堂に入った。木の梁がむき出しの古い建物で、湯気の匂いと味噌の香りが混ざっている。四人掛けの席に座り、注文を待つ間、悠斗が湯呑みを両手で持ちながら言った。


「そういえばさ、湊、もうすぐ中間発表だろ」


 湊は箸袋をいじる手を止める。


「木曜」

「優しくしてあげてよ、先生」

「全員平等に見ます」


 東雲は即答する。


「ですよね」


 鷹宮が笑う。


「甘くするつもりはありません。ただ、可能性があるなら、それは言う」


 その言葉に、湊は少しだけ息を詰めた。

 認められたい。

 設計を見てほしい。

 それがいちばん、正しい近づき方だと思った。


 食後、少しだけ土産物屋を覗き、四人は帰路についた。行きよりも車内は静かで、悠斗は途中で眠り、鷹宮は運転に集中している。湊は窓に映る自分の顔を見ながら、昼の言葉を回想していた。

 ――平等。

 そう言い切った人の隣に、昨夜は自分が座っていた。思い出しながら、ポケットの中にある小さな金属の感触を確かめる。


 夕方、悠斗の家の前に車が止まる。軽く挨拶を交わし、悠斗は叔父と並んで玄関へ入っていった。

 湊も帰ろうとしたとき、東雲が言った。


「駅まで歩きます」


 方向が同じだった。

 住宅街の道は細く、夕方の空気がひんやりとしている。並んで歩く距離は一定で、どちらも無理に近づこうとはしない。それでも足音が揃うと、不思議と意識がそちらへ向く。


「設計はどうですか」

「削っています。怖いですけど」

「怖いという感覚があるうちは大丈夫です。削れない人は、怖がりません」


 それは慰めではなく、事実としての言葉だった。


「中間は、うまく見せる場ではありません。あなたがどこを目指しているか、それが見えればいい」


 “あなた”という呼び方が、夕方の光に溶ける。特別ではない。だが、無関心でもない。

 角を曲がると、湊の家が見える。


「ここです」

「木曜、楽しみにしています」


 東雲はそれだけ言い、足を止めずに去っていく。

 振り返らない背中を見送りながら、湊は自分の呼吸が浅くなっていることに気づく。何も起きていない。それでも、何かが確実に進んでいる。

 ________________________________________

 夜。

 机に向かい、スケッチブックを開く。

 昼間の川の音、夕方の光、そしてさきほどの言葉が、静かに重なる。

 線を引く。止まり、消し、また引く。ページの上に迷いの跡が増えていく。

 削ることは、足すよりも時間がかかる。残す線を選ぶ作業は、自分の弱さを一つずつ認めることに似ている。机の上に肘をつき、深く息を吸う。

 ページの端に、無意識のまま文字を書く。


 ——削れる勇気を


 手が止まる。

 消すかどうか迷う。

 もう一度、ゆっくりと書き直す。


 ——削れる勇気をくれた人


 今度は消さなかった。

 ポケットから小さな金属片を取り出し、机の上に置く。丸い輪が光を反射する。

 捨てられるはずだったものが、ここに残っている。

 線も、距離も、まだ完全には削れない。

 けれどページを閉じたとき、迷いは昨日よりも少しだけ薄くなっていた。


 木曜日が、近づいている。

ここまで読んでいただきありがとうございます。


次回更新は【2月20日(金)夜】予定です。

少しでも続きが気になったら、ブックマークや感想をいただけると励みになります。

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