『削れる線と、触れてはいけない距離』 第6章 削れない夜
第6章 削れない夜
廊下の足音が、扉の前で止まる。
一定の速さで、迷いのない歩幅だった。
湊は息を止めたまま、スケッチブックを抱える。呼ばれたらどうするのか、自分でも分からない。何もなければ、それはそれで落ち着かない。そんな曖昧な期待のまま、ノックの音が小さく響いた。
「湊?」
声は、東雲ではなかった。
一瞬で身体の力が抜ける。
「叔父さんがさ、風呂行くって。お前らも来いって」
悠斗の声はいつも通りだ。湊は小さく息を吐き、扉を開けた。
「今行く」
「顔、まだ赤いぞ」
「温泉だから」
「嘘つけ」
悠斗は笑いながら、廊下を歩き出す。湊はその背中を追いながら、さっき自分が何を期待していたのかを考えないようにした。
湯船は広く、湯気が天井近くまで立ちのぼっている。露天に出ると、夜気がひやりと肌に触れ、遠くで川の音がかすかに響いていた。先に入っていた鷹宮が手を上げる。
「遅いな」
「若いんで準備が長いんですよ」
悠斗が軽口を叩き、湊も湯に足を沈める。
そのとき、東雲の姿が視界に入る。
肩まで浸かっていた身体がゆっくりと立ち上がる。普段はジャケットとシャツに隠れている輪郭が、湯の光の中で静かに浮かび上がった。派手さはないが、無駄がない。肩の線は滑らかで、背中は自然に張っている。鍛え上げたというより、長い時間の積み重ねがそのまま形になったような体つきだった。動くたびに、筋肉の流れが淡く浮く。
飾らないのに、強い。
建築の線と似ている、と湊は思う。
視線が止まっていることに気づいたのか、東雲がこちらを見る。湯面越しに映る湊の身体は、思っていたより細い。首から肩にかけての線は柔らかく、白い肌は湯気の中でわずかに透ける。鎖骨の陰影が静かで、触れれば消えそうな印象を与える。
視線が合う。
湊はそれを感じ、わずかに身体を沈めた。湯面が鎖骨の上まで上がる。
「熱い?」
鷹宮の声に、湊は短く答える。
「ちょうどいいです」
水面の下で、指先がわずかに震えていた。
悠斗はのんびりと背伸びをしながら鷹宮の肩に寄りかかる。
「叔父さん今日優しい」
「普段も優しい」
「嘘」
笑い声が湯気の中に溶ける。
部屋に戻ると、鷹宮が冷蔵庫から酒瓶を取り出して座卓に置いた。
「悠斗が温泉来たら飲むってうるさいからな」
「言ってない!」
「言ってる」
笑いながら四人で座る。湊は無意識に東雲の隣を避けようとしたが、悠斗に引っ張られて結局、東雲の横に座ることになった。
「なんでだよ」
「自然な流れ」
自然ではない。湊の心拍はすでに自然ではなかった。
酒は想像より回るのが早かった。湯上がりのせいか、思考の縁がぼやける。悠斗は早々に鷹宮の肩に寄りかかり、甘えた声を出している。
「温泉最高。叔父さんまた来よう」
「気持ちいい」
「酔ってるな」
鷹宮は笑いながら、悠斗の頭を軽く叩く。
湊はその様子をぼんやり見ながら、気づけば東雲に話しかけていた。
「先生」
「はい」
「今日の川の音、好きです」
子どもじみた言い方だったが、抑える気にはなれなかった。
東雲は一瞬だけ視線を止める。
「音は、残ります」
「残るの、好きです」
余計な防御が働かない。言葉がそのまま落ちていく。
やがて湊の視線は東雲のシャツへ移る。しばらく見つめた。
「ボタン、ほしい」
唐突だった。
東雲は一瞬黙り、シャツに視線を落とす。外せない。外すわけにはいかない。その代わりに、新しいビールを手に取った。
カチ、と金属音が鳴る。
外れたプルタブを指先でつまみ、湊の前に差し出す。
「これなら」
湊はそれをじっと見る。小さな輪。
「……ちがうけど、いいです」
笑いながら受け取り、しばらく指先で転がしてからポケットに入れた。
その仕草を、東雲は目で追ってしまう。
湊は何も気づかない。酒のせいか、ただ静かに笑っている。その笑顔は、昼間よりも無防備だった。
東雲はグラスを持ち直す。
削れないものが、ひとつ増えた気がした。




