『削れる線と、触れてはいけない距離』 第5章 触れないまま近づく
第5章 触れないまま近づく
四人で車に乗り込む。鷹宮が運転し、悠斗が助手席、後部座席に湊と東雲が並ぶ。並ぶ、という事実だけで湊の体温が上がる。隣に座ったあの距離を、今度は逃げ場のない形で再現されている。
車が発進すると、わずかな振動が伝わる。肩と肩の間には数センチの隙間があるはずなのに、布地の擦れる気配まで意識してしまう。東雲のコートの袖が、自分の腕に触れそうで触れない。その曖昧な距離が、かえって熱を持つ。
窓の外に視線を逃がすが、隣の気配は消えない。呼吸のリズムが違う。自分より落ち着いた、一定の呼吸。その安定が、逆に湊の心拍を速める。
「緊張してる?」
前から悠斗が振り返る。
「してない」
言葉が少し硬い。声が裏返りそうになるのを飲み込む。鷹宮が小さく笑い、東雲は何も言わない。ただ、横目で一度だけ湊を見る。その視線が一瞬長く留まり、すぐに前へ戻る。
車がカーブを曲がったとき、身体がわずかに傾き、腕が触れかける。湊は慌てて体を引くが、その動きに気づいたのか、東雲がわずかに距離を空ける。
気づいている。
気づいていて、何も言わない。
何も言われないほうが、余計に意識してしまう、と湊は思った。
好きだと自覚してしまったせいで、すべてが過剰に近い。
現場は温泉街から少し離れた、川沿いの土地だった。まだ更地に近いが、測量の杭が打たれ、仮囲いの向こうに重機が見える。湯気の匂いと土の匂いが混ざり、風が冷たい。湊は足元を確かめながら敷地に入った瞬間、胸の奥が静かに整うのを感じた。ここは、教室よりも嘘がつけない。線の先に、現実がある。
東雲は、歩き方が変わった。教室での静けさはそのままに、視線の速度が違う。地面を見て、空を見て、遠景を測り、何かを頭の中で組み立てている。その横顔に、湊は見惚れる。好きだと自覚しているせいで、どの動作も意味を持って見えてしまう。
鷹宮が説明する。
「こっちが宿泊棟。外湯側は回遊導線を意識する。東雲は光と影の話になると止まらない」
「余計なことを言うな」
鷹宮は笑いながらも、東雲の言葉を受け止める姿勢を崩さない。二人は遠慮なく言い合うが、信頼が土台にあるのが分かる。その関係を見て、湊は少しだけ羨ましくなった。自分はまだ、東雲と対等に言い合える場所にいない。
「朝倉」
東雲が不意に湊を呼ぶ。
湊はびくりと肩を揺らし、反射的に「はい」と答えてしまう。悠斗がニヤニヤしている気配がして、湊は恥ずかしさを押し込める。
「どこが一番気になりますか」
設計の問いだ。湊は救われた気がした。設計の話なら、まだ自分でいられる。
「……この川の音です。ここだと、建物ができても残りそうで」
東雲は頷き、川を見た。
「遮るか、取り込むか」
「取り込みたいです」
即答だった。
東雲は一拍置き、湊の顔を見た。視線が長い。湊はまた、設計の話なのに熱くなる。
「なぜ」
「……ここに来た人が、思い出すからです。温泉の匂いと音って、記憶に残るので」
自分でも少し大きい言葉を言ったと思った。けれど東雲は笑わない。茶化さない。真剣に受け止める。
「いい。匂いと音は残る。……だから“残る”を線にする」
湊の胸が少し痛い。嬉しい痛みだった。こんなふうに言われると、もっと近づきたくなる。隣に立ちたい、という言葉が喉まで上がってきて、湊は必死に飲み込む。
悠斗が横から口を挟む。
「先生って、こういうとこだと怖い感じしないっすね」
東雲が悠斗を見る。ほんのわずかに目が細くなる。
悠斗はその目を見ていないようにさらに言った。
「え、今の、ちょっと優しい」
「怖くしているつもりはありません」
そのやり取りが、妙に自然だった。湊はそこで気づく。学校の外の東雲は、教室よりも人間の輪郭が見える。冷たさではなく、線の硬さで距離を守っている男だ。距離を守るために冷たいのではない。守りたいものがあるから、硬い。
湊が足元の資料を持ち替えたときだった。風が強く吹き、紙が一枚めくれ上がる。反射的に押さえようとして、手からクリップが外れ、地面に落ちた。金属が石に当たって乾いた音がする。
「あ」
湊がしゃがむ。焦って指先が滑る。拾おうとした瞬間、同じタイミングで別の手が伸びた。東雲の手だった。
近い。
指先が触れそうで、触れない距離。
湊は呼吸を忘れ、頬が熱くなる。好きな人の手が、こんなに近い場所にある。それだけで、頭が真っ白になる。
東雲がクリップを拾い、何もなかったように湊に渡す。だが、その視線が湊の赤くなった顔に止まる。止まってしまう。その一瞬、視線を外せなかった。
「……暑いですか」
低い声。からかいではない。確認の声だ。湊は「暑くないです」と言いたいのに、口がうまく動かない。結局、頷いてしまう。
東雲の目が、一瞬だけ揺れた。ほんの一瞬。
その揺れを見てしまったことで、湊の胸がさらに苦しくなる。
鷹宮が背後で小さく笑った気配がした。悠斗は何も気づかず、「温泉入ったら治るって!」と無邪気に言う。湊はその場から逃げたくて、資料を抱え直し、視線を外した。
「すみません」
やっと出た声は小さかった。
東雲は短く首を横に振る。
「謝る必要はない。……焦らなくていい」
その言葉が、設計の助言にも、別の意味にも聞こえて、湊は胸がいっぱいになる。焦らなくていい。なのに焦ってしまう。好きだから。距離が近いから。学校の外で、先生じゃない顔を見てしまったから。
現場を一通り見終えた頃には、夕方の光が土地の輪郭を柔らかく縁取っていた。帰りの車の中で、湊はほとんど喋れなかった。窓の外の色が変わっていくのを見ながら、頭の中では、東雲の手と声ばかりが反復される。
旅館に戻り、靴を脱いだところで、東雲が鷹宮に呼ばれてロビー奥へ消える。湊はその背中を見送ってから、やっと息を吐いた。悠斗が肩をぶつけるように寄ってきて、楽しそうに囁いた。
「なあ。湊、さっき顔、赤かった」
「うるさい」
「話した先生のこと。りょうさんだろ」
「……」
「やっぱり刺さってんじゃん」
湊は否定したかったのに、できなかった。自覚してしまった気持ちは、嘘がつけない。
湊はそのまま部屋へ戻り、スケッチブックを開く。
廊下から足音が近づく。
一定の速さで、迷いのない歩幅だった。
この旅館の廊下は畳敷きで、音はほとんど響かない。それでも今は、その気配だけがはっきりと分かる。自分の心拍が、余計に大きいせいかもしれない。
足音が、扉の前で止まる。
湊はスケッチブックを閉じることもできず、ただ抱えたまま息を止めた。
名前を呼ばれたら、どうするのだろう。
何もなければ、それはそれで、きっと落ち着かない。
扉の向こうの気配が、わずかに動く。
自分は逃げたいのか、それとも待っているのか。
そのどちらも、正しい気がして、どちらも違う気がした。
——削れる。
今日、削れなかったのは線ではない。
この感情だ。
——呼ばれた瞬間、きっと自分は、いまより少しだけ壊れる。
それでも、壊れてほしいと思ってしまう自分がいる。




