『削れる線と、触れてはいけない距離』 第4章 世界は、意地悪に繋がる
第4章 世界は、意地悪に繋がる
土曜日の朝、早坂家の前に停まった車のエンジン音が、住宅街の静けさをわずかに揺らした。湊は小さなボストンバッグを肩にかけ、呼吸を整えてからインターホンを押す。すぐに扉が開き、悠斗が顔を出した。
「早い。珍しく時間ぴったりじゃん」
「お前が早いんだろ」
「今日の俺は違う。温泉がかかってるから」
冗談を言いながらも、悠斗の動きはどこか浮き足立っている。湊のバッグの紐を勝手に整え、そのまま肩を軽く叩いた。その距離の近さは、湊にとっていつもの日常だった。
玄関の奥から低い声がする。
「おはよう」
悠斗の叔父だという男が、ジャケットを片手に現れる。湊は一度会ったことがある。派手ではないが、視線を引く大人だった。
鷹宮仁。悠斗の新しい父親の弟。血縁ではないが、彼らは同じ家に住んでいる。
「湊くん、久しぶり。急に付き合わせて悪いね」
「いえ。悠斗が…」
「俺が寂しいからって言ったわけじゃないからな」
悠斗がすぐに割って入り、鷹宮が小さく笑う。その笑い方が、どこか余裕があった。湊は視線を逸らしながら、車に乗り込む。悠斗は助手席、鷹宮が運転席、湊は後部座席に座った。走り出した車内には、音楽よりも会話が流れ、道が高速に変わるころには、湊の緊張も少しずつほどけていく。
「思ったより遠いんだな」
「遠いほうがいいだろ、温泉は。近いと日帰りで終わる」
「お前は何しに来るんだよ」
「湊の顔を赤くするため」
「やめろ」
いつものやりとりに鷹宮が笑う。悠斗の冗談は軽いが、湊はそれに救われている。今日の湊は、心のどこかで落ち着かない理由を抱えたままだった。東雲の声がまだ耳の奥に残っていて、隣に座った距離が、あの日から少しずつ意味を増やし、湊の中で勝手に膨らんでいる。
昼過ぎ、温泉地に着く。山肌に沿って旅館が並び、湿った空気が肌に触れる。チェックインを済ませ、畳の匂いのする部屋に荷物を置くと、悠斗が窓を開けて大きく息を吸い込んだ。
「最高。俺、今日、ちゃんと幸せ」
「毎日言え」
「忙しいから無理」
悠斗の声は軽いのに、その軽さが今日は妙に眩しかった。
鷹宮はスマートフォンを見ながら、すぐに仕事の顔に戻っていた。プロジェクトの現地確認があると言っていたのは本当らしい。湊は「二人は旅館で待ってていいよ」と言われるものだと思っていたし、それが普通だと思っていた。だから、次の言葉は予想外だった。
「現地、行こうか」
「え、俺らも?」
悠斗が目を丸くする。鷹宮は頷いた。
「今日の打ち合わせ、ちょっと予定が変わった。少しだけ顔を出す。二人もついてくるといい。温泉地の開発だから、見ておいた方が面白い」
湊の胸が小さく跳ねる。建築現場。自分が知っている“建築”と繋がる場所。その言葉に惹かれるのと同時に、妙な予感を覚えた。世界は時々、意地悪なほど繋がる。
ロビーに降りると、外の光が白く差し込み、旅館の静けさが一段と際立っていた。鷹宮がフロントに何かを確認し、ロビー奥のソファに腰を下ろす。悠斗は売店を覗きに行き、湊は手持ち無沙汰のまま柱際に立つ。窓の外で風に揺れる木々を見ていると、背後から足音が近づいてきた。
「鷹宮」
その声を聞いた瞬間、湊の身体が先に固まる。耳が熱くなる。
振り返ると、そこに東雲凌が立っていた。黒のコートを脱ぎながら、視線だけが鷹宮に向いている。仕事の顔だった。教室で見る静けさとは違う、張り詰めた輪郭。その横顔に、湊は一瞬息を忘れた。
鷹宮が立ち上がり、東雲の肩を軽く叩く。
「早いな」
「現場が押した。先に寄った」
「こっちは親戚と友達だ」
そう言って鷹宮が視線を向けた瞬間、東雲の視線が湊に届いた。時間が、わずかに遅れる。
「……朝倉」
名前が呼ばれる。視線を逸らせない。逃げる方向を忘れる。
「朝倉、か」
鷹宮は、悠斗の友人のことをいつも「湊」としか聞いていなかった。名字まで気にしたことはない。
その目が、ゆっくりと東雲と湊を見比べる。
湊の喉が鳴り、声が出ない。悠斗が売店から戻り、空気を知らないまま明るく言った。
「あ、りょうさん!……え、え、なんでいるの」
鷹宮が面白そうに眉を上げる。
「知り合いか?」
東雲は一拍置いた。
「学生です。うちの」
学生。うちの。その言い方は正しい。それでも胸の奥が、静かに痛む。
その痛みの名前が、ふいに浮かぶ。
——好きだ。
その言葉が、初めてはっきりと形を持つ。そして簡単には消えなかった。
「へえ」
鷹宮は笑う。何かを察している目だった。
「じゃあ、なおさら来い。現場を見るのは早いほどいい。東雲の設計も見られる」
東雲が鷹宮を見る。湊を見る。視線が一度だけ、湊の顔の熱をなぞるように通る。湊は自分の頬が赤くなっているのを自覚して、ますます焦る。
「……構いません。ただし、遊びではない」
「了解っす!」
東雲が言うと、悠斗がすぐに敬礼みたいなポーズをした。だが、一瞬だけ湊の顔を心配そうに見た。湊が話した新しい先生のことは東雲だとなんとなく分かってきた。
湊は声を出せず、ただ頷いた。好きな人の前で、言葉がうまく並ばない。それを悟られたくなくて、湊はバッグの持ち手を握りしめる。近づきすぎた距離は、心拍を乱し、いつもの自分を壊していく。
ロビーを出るとき、東雲が先に外へ出て、振り返った。視線が湊に止まる。ほんのわずかに眉が寄る。
「……大丈夫ですか」
その一言は、先生の言葉にも、男の言葉にも聞こえた。湊は「大丈夫です」と言いたかったのに、喉が乾いて声が出ない。代わりに頷くと、東雲は何も言わずに視線を戻した。
その背中を見ながら、湊は思う。
学校の外で会ってしまった。
そして、見たかった顔と、見たくなかった自分の顔を、同時に見てしまった。




