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『削れる線と、触れてはいけない距離』 第3章 線がわずかに揺れる

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 課題は進み、教室の空気も少しずつ固まってきていた。最初の緊張や探り合いは消え、それぞれが自分の設計に没頭する時間が長くなる。キーボードを打つ音や紙をめくる音が、一定のリズムで空間を満たし、誰かの笑い声が上がっても、すぐに沈んでいく。

 湊は集中すると、周囲が見えなくなる。

 姿勢は変わらず、視線は図面の上に落ちたまま、ただ線を引き続ける。止まるのは、迷ったときだけだ。そのときだけ、眉間にわずかなしわが寄る。


 三週目のエスキスで、形式が変わった。


「今日は私が回ります」


 東雲の声は、いつも通り低く落ち着いていたが、その言葉に教室の空気がわずかに張りつめる。これまでは学生が前に出ていたが、今日は東雲が机を回るという。

 黒いジャケットが、机の列のあいだをゆっくりと進む。

 立ち止まり、図面を覗き込み、必要なことだけを言う。その姿勢は変わらない。誰に対しても同じ距離。同じ温度。評価は冷静で、感情は乗せない。


 湊は、視界の端でその動きを追ってしまう自分に気づきながら、ペンを握り直した。

 自分の番が来る。

 足音が止まる。


「……朝倉さん」


 背後から落ちる声に、心拍がわずかに乱れる。

 東雲はしばらく何も言わず、図面を見ていた。前回よりも線は整理されているが、それでもどこか守りに入っているのが、自分でも分かる。


「増やしましたね」


 淡々とした指摘。


「……不安で」


 自然に口から出た言葉だった。取り繕う余裕がなかった。

 東雲は黙ったまま、もう一度図面を見下ろす。その沈黙が、思っていたよりも長い。

 そのとき、後ろを通った学生が椅子に軽くぶつかった。湊の身体がわずかに前に揺れる。

 反射的に、東雲の手が椅子の背に伸びた。ほんの一瞬の動作だったが、距離が変わる。

 ——近い。

 すぐ後ろに、体温がある。

 覆われるような距離。

 黒のタートルネック越しの熱が、首筋のすぐ近くにある気がして、呼吸がわずかに浅くなる。

 東雲はすぐに手を離した。何事もなかったように。

 けれど、何もなかったわけではない。


「増やすと、誤魔化せます」


 静かな声が、近い位置から落ちる。


「自分が不安な部分を、線で隠せる」


 湊の指が止まる。


「でも、それは設計じゃない」


 図面の話だと分かっている。分かっているのに、胸の奥が熱を帯びる。


「あなた」


 一瞬だけ、呼び方が揺れた。

 “朝倉さん”と言うはずだったのかもしれない。だが、選ばれたのはそれだった。名前よりも距離を含んだ呼び方。


「削ったほうが強い。削るのは怖いですか」


 図面の話のはずなのに。問いは、まっすぐ湊を射抜いている。


「……少し」


 喉が熱い。視線が逸らせない。

 東雲は立ったまま、ほんのわずかに息を吐いた。そして隣の空いた椅子に静かに腰を下ろす。

 肩と肩の間に、目に見えない熱が生まれる。


「怖いなら、なおさらやってください」


 命令ではない。だが、甘くもない。


「……はい」

「修正してみてください」


 そう言って、東雲は立ち上がった。元の距離に戻ったが、胸の奥にわずかな違和感が残る。

 自分の心拍が、ほんの少し速いことに気づいていた。

 椅子に触れた瞬間。湊の呼吸が一瞬乱れた。

 それに、自分が反応した。

 仕事だ。距離は守る。依存は作らない。そう決めている。

 だが、守るべきなのは湊か、それとも自分か。

 東雲は資料を整えながら、眉をわずかに寄せる。

 線を削れと言ったのは自分だったはずなのに、削れなかったのはどちらだ。


 授業が終わるころには、教室はいつものざわめきを取り戻していた。小野寺が何かを笑いながら話している声も、立花が構造についてぼやく声も、いつもと変わらない。

 だが、湊の中だけが少しずれている。ペンを握る手が、わずかに震える。

 線を削る。

 一本、消す。

 もう一本。

 前よりも迷いが少ない。


 ________________________________________


 夜。

 食卓には煮物の湯気がゆっくりと立ち上り、味噌汁の匂いが部屋の隅まで広がっていた。母は手際よく皿を並べ、父はテレビのニュースの音量を少し下げる。湊の家は特別ではないが、毎日ほぼ同じ時間にこうして三人が席につく。それが、当たり前のように続いている。


「今日は設計どうだった?」


 母が何気なく聞く。


「普通」


 湊はいつものように答えるが、父はすぐに笑った。


「普通って言うときは、大体普通じゃないんだよな」


 図星だった。湊は少しだけ視線を落とし、箸を持つ手を止める。


「……線を削れって言われた」


 母は不思議そうに目を瞬かせる。


「削るの?足すんじゃなくて?」

「増やすと誤魔化せるって」


 言葉にしてみると、あのときの声の温度がよみがえる。静かで、逃げ場のない響きだった。

 父は味噌汁をすすりながら頷く。


「余計なものを足すのは簡単だ。削るほうが、勇気がいる」


 その一言が、胸の奥に静かに落ちる。削る勇気。図面の話のはずなのに、なぜかそれ以上の意味を持って聞こえる。

 母がふと思い出したように言う。


「そういえば悠斗くん、最近見ないね」

「実習が増えたらしい」

「向こうも忙しいのね」


 湊は小さく頷く。

 悠斗の家は四人家族だ。再婚した父と母、そして父の弟。悠斗にとっては叔父にあたる人で、年もそれほど離れていない。両親は仕事で海外に行くことが多く、そのあいだは悠斗と叔父の二人になるが、その叔父も帰りが遅い日が少なくない。

 だから悠斗は、ときどきここで夕飯を食べる。

 別に帰る場所がないわけではない。ただ、誰かと同じ食卓に座る時間が欲しいだけだ。

 母は穏やかに言う。


「一人で食べるより、誰かと食べたほうが美味しいものね」


 その言葉に、湊は曖昧に笑う。悠斗は明るくて、冗談ばかり言う。自分の家のことを深刻に語ることはないし、不幸そうに見えたこともない。ただ、夜遅くにふらりと来る日は少し静かで、リビングのソファに横になりながら、何も言わずテレビを眺めていることがある。それは困っている顔ではなく、ただ、誰かの気配の中にいたいだけの顔だった。

 父がぽつりとつぶやく。


「人はな、困ってなくても、寂しくはなる」


 湊はその言葉を頭の中で繰り返しながら、湯気の立つ椀を見つめる。

 困っていない。

 でも、寂しい。

 その境界は、案外あいまいなのかもしれない。


 食事を終え、自分の部屋に戻ると、教室での出来事が再び静かに浮かび上がってくる。

 椅子が揺れた瞬間、背後に落ちた体温、「あなた」と呼ぶ低い声、そして隣に座った距離。

 今まで必ず立ったまま指導していた人が、初めて同じ高さに降りてきた。

 その意味を考えてしまう自分がいる。

 机に置いたスケッチブックを開く。図面ではなく、余白のページに鉛筆を置くと、意識より先に手が動いた。


 ——削れる


 そこまで書いて、止まる。

 削れるようになりたいと思ったのは事実だった。線を、ではなく、自分の不安や曖昧さを。あの人の前で誤魔化さずに立てるように。

 続きを書きかける。


 ——削れる勇……


 だが、そこで指が止まる。まだ言葉にするには早い。形にしてしまえば、それは意味を持ち、意味を持てば、自分の中で確定してしまう。

 ページを閉じると、家の中の静けさが戻ってくる。リビングからは母の笑い声が聞こえ、父の低いあいづちが続く。守られた空間の中で、湊だけが少し揺れている。

 削るとは、余計なものを落とすことだ。

 けれど今日、自分の中で削れなかったものがある。

 隣に座った距離。

 呼びかけられた声。

 それらは消えず、静かに残っていた。

 線が、わずかに揺れている。

 そしてその揺れは、もう元のままには戻らない気がしていた。

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