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『削れる線と、触れてはいけない距離』 第2章 測る側と、測られる側

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 課題は自由設定。

 敷地も用途も構造も、現段階で考えていることをそのまま持ってくればいい。完成度は求められていない。ただ、「何を考えているか」を示せと言われた。

 湊は鉛筆を指先で転がしながら、白い紙を見つめる。

 都市。

 滞在。

 小さな空間。

 形を描こうとすると、すぐに違う気がした。頭に浮かぶのは形ではなく、“間”だった。

 風の抜ける隙間。光が落ちる位置。立ち止まる理由。

 線を引く。

 消す。

 もう一度、引く。

 光をどう落とすか。それを考えているときだけ、胸の奥が静かに整う気がした。


 次の週、最初のエスキスが始まった。思っていたよりも、教室は静かだった。

 東雲は前方の机に座り、学生は一人ずつ呼ばれて向かいに座る形式。順番待ちの間、教室にはキーボードの打鍵音と、紙をめくる乾いた音だけが響いている。名前を呼ばれるたび、教室の空気が少しずつ削れていく。


「スパンはどう設定していますか」

「その構造では成立しませんね」

「この方向で進めてみてください」


 淡々としたやりとりが続く。声は低く、必要なことだけを言う。前の学生が戻るたび、空気が少しずつ重くなる。


「次、朝倉」


 喉の奥が鳴った。図面とスケッチブックを抱え、前に出る。椅子に腰を下ろした瞬間、距離の近さを自覚する。黒のタートルネックの布地の質感まで見える距離。目を上げれば、視線がまっすぐにある。


「お願いします」

「はい」


 変わらない声で、東雲は湊のスケッチブックを見る。


「考え方は、どこから始めましたか」


 評価ではなく、問い。

 湊は少しだけ呼吸を整える。


「空間というより、止まる理由から考えました」

「理由」


 繰り返す声は、低く、静かだ。


「立ち止まる人は、何を見ていますか」


 掘られる。逃げ道はない。けれど、それが嫌ではない。湊は一瞬だけ言葉を探す。


「……光、だと思います」

「どの時間帯の」


 すぐに続く。鋭い。胸の奥が、少しだけ熱を持つ。試されている。それが嫌ではない。


「夕方です」

「なぜ」

「……長くなるからです」


 言葉にした瞬間、自分でも曖昧だとわかる。

 沈黙が落ちる。

 東雲は急かさない。ただ、待つ。その待ち方が、思っていた以上に重い。

 やがて東雲が顔を上げる。視線が正面から湊を捉える。

 ――自己紹介のときと同じだ。

 東雲の中で、あの言葉が一瞬よみがえる。

 “建築を設計したいです”

 それは、自分が学生の頃に口にした言葉だった。飾らない、ただの欲求。だからあのとき、視線が一瞬止まった。懐かしかっただけだ。だが、目の前の図面を見て、東雲は理解する。同じではない。線の引き方が違う。間の取り方が違う。構造の理解は未熟だが、空間の抜き方に迷いがない。

 厄介だ。

 こういう学生は伸びると速い。だが、自分の感覚を疑わない。


「光だけでは、滞在は弱いですね」


 静かに言う。


「影も設計してください」


 机一枚分の距離が、なぜか少し近づいたように感じる。


「設計は意図が弱いと、すぐ崩れます」


 否定ではない。けれど、核心に触れている。湊は小さくうなずく。


「続けてください」


 それ以上は踏み込まない。褒めもしない。否定もしない。だが空気が、わずかに違った。


「次」


 席に戻ると、立花が振り返る。


「ちょっと長くなかった?」

「そう?」

「圧あったよな」


 小野寺が小声で笑う。


「でも“影も設計して”って、ちょっとカッコよかったよ」

「聞こえてた?」

「静かすぎたもん」


 湊は笑う。普通だ。特別扱いではない。ただ、待たれただけだ。なのに、あの沈黙が、やけに長く残っている。

 スケッチブックを見つめたまま、呼吸を整える。指先がわずかに震えている。何が起きたわけでもない。ただ、問われただけだ。それなのに。胸の奥が、妙に落ち着かない。

 周囲では笑い声が上がっている。別の席では、設計とは関係ない雑談も混ざる。

 湊はスケッチブックを開き、もう一度線を引く。さっきよりも、少し深く。影を意識して。

 ふと視線を感じる。顔を上げると、教壇の横からこちらを見ている目がある。

 一瞬。すぐに逸れる。勘違いかもしれない。

 それでも、その一瞬の長さだけは、確かだった。


 ________________________________________


 授業が終わり、資料をまとめながら、東雲は思い返す。

 光の落とし方。

 言葉に詰まる間。

 視線。

 強がりではなかった。だが、自分を信じきれていない。

 やはり厄介だ。

 放っておけば伸びる。だが、近づきすぎれば依存する。

 依存は嫌いだ。

 教師は距離を守るものだと、わかっている。

 スマートフォンが震える。

 《鷹宮:いつものところで》

 短いメッセージ。

 《了解》


 夜、バーはいつも同じ光に包まれている。奥の席は人目につきにくく、会話が外に漏れない場所だ。東雲はそこに座る。しばらくして、鷹宮が現れる。


「珍しく早いな」

「仕事帰りだ」

「学生どうだ」


 東雲はグラスを受け取る。


「普通だ」

「その顔で普通はないな」


 鷹宮は昔から観察力だけは鋭い。大学時代の同期。東雲が設計事務所を辞めて独立する前からの付き合いだ。今は都市再開発のコンサルと不動産会社の代表をしている。合理的で、感情をあまり信用しない男。

 鷹宮は笑う。


「面白いのがいる?」


 沈黙


「……厄介なのが一人」

「才能型か?」

「直感型だ」

「ほお、お前と逆だな」


 東雲はグラスを傾ける。


「未熟だ」

「当たり前だろ学生だぞ」

「……未熟だが、掴んでいる」


 鷹宮は笑う。


「嫌いなタイプだ」

「嫌いではない」

「依存しそうか」


 東雲の手が一瞬止まる。グラスの中で氷が鳴る。


「昔のお前みたいか?」


 その言葉で、空気が変わる。

 東雲は視線を外す。


「違う」

「違わない」


 鷹宮は言い切る。


「言葉が足りないくせに、空間だけは掴んでるやつ。理由を後から探すタイプ」


 東雲は何も言わない。


「削れなかったな」


 東雲は目を伏せる。削れなかった。卒業制作のあのとき。自分の線を、削る勇気が持てなかった。


「依存は嫌いだ」


 東雲は静かに言う。


「設計は自立しなければならない」

「人間は?」


 鷹宮の問いは軽い。だが逃げ道がない。バーの奥で氷を砕く音がする。


「名前は?」

「朝倉」

「覚えてるな」


 東雲は答えない。

 鷹宮は笑う。


「削る勇気って言ったのはお前だろ」


 東雲は目を閉じる。昔の自分と違う。だが、似ている。


「仕事だ」


 それ以上でも、それ以下でもない。そう言い聞かせるように。夜は静かに流れていく。

 光を削る。距離を削る。感情を削る。


 だが。

 削れなかったものがあることを、自分が一番よく知っている。

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