『削れる線と、触れてはいけない距離』 第1章 名前より先に、視線を覚えていた
はじめまして、白透です。
曖昧な距離と静かな緊張を描く物語です。
現在第7話まで公開中です。
今後は毎週金曜夜に更新予定です。
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第1章 名前より先に、視線を覚えていた
教室はまだ完全には静まりきっておらず、建築科二年後期の最初の週が半分ほど過ぎたという事実だけが、どこか中途半端な空気を漂わせていた。机の上にはノートとペンが置かれ、ノートパソコンはまだ閉じられたままになっている。秋の冷たい空気に、新しい紙の匂いがわずかに混ざり、その淡い匂いが、これから始まる卒業までの最後の半年をぼんやりと予感させていた。
「湊、今日新しい先生来るんだよね?」
隣の席から、小野寺愛理が少し身を乗り出すようにして声をかけてきた。肩にかかるくらいの髪がふわりと揺れ、笑うと目がはっきりと弧を描く。その明るさは、教室のざわめきの中でも不思議と目立つ。
「うん。今日かららしい」
「けっこう厳しいって聞いたよ?寝ないでね」
冗談めかした口調に、湊は苦笑する。
「寝ないよ」
「去年、二回寝てたじゃん」
「長かったんだよ、あれは」
小野寺は楽しそうに笑い、「言い訳」と小さくつぶやく。その声は軽く、空気に溶けるようだった。
湊も同じように笑い返す。けれど、意識の奥では別のことを考えていた。
木曜日。週に一度だけ来る非常勤講師。実務の第一線で働きながら、ここで教えている人。
去年の設計発表の日のことが、ゆっくりと浮かび上がる。模型で埋め尽くされた教室の後方に立ち、湊はただ講評を聞いていた。教員の列の中に、一人だけ目を引く人物がいた。腕を組み、無駄のない立ち姿で、表情は読めない。それなのに、口を開いて発せられる言葉だけが妙に熱を帯びていた。
名前は覚えていない。
けれど視線だけは、今もはっきりと記憶に残っている。
まっすぐで、揺れない目。
作品の奥にある何かまで見通しているような、そんな視線だった。
あの日以降、湊は無意識のうちに木曜を意識するようになった。上の階の教室前にある自動販売機で飲み物を買うことが、いつの間にか習慣になっていたのも、その人がそこに来ると知ったからだと、今になってようやく自覚する。
教室の扉が開き、乾いた音が響いた瞬間、空気がわずかに張りつめた。
「起立」
低く、落ち着いた声が教室に広がる。全員が立ち上がり、礼をし、形式的な挨拶を終える。
その一連の動作が終わって顔を上げたとき、湊の時間だけが、ほんの少し遅れたように感じられた。
黒のタートルネックに、グレーのジャケット。
線の強い横顔。高く通った鼻筋。無駄のない輪郭。冷たい、というより隙がない。華やかではないのに、目が逸らせない。
そこにあるのは、湊がずっと憧れてきた“濃さ”だった。自分にはない、揺るがない男の輪郭。
――あの人だ。
胸の奥がひやりとする。驚いたというよりも、予感が現実になった感覚に近い。どこかで、こうなることを待っていたのかもしれないとさえ思う。
「東雲 凌です。今年度、後期の設計を担当します」
簡潔な自己紹介のあと、スライドが映し出される。経歴、実績、受賞歴。派手さはないが、積み上げられた時間の重みがある。作品写真を見つめながら、湊は自分の内側に生じるわずかな焦りを感じていた。ただ美しいだけではない。構造が明確で、揺らがない。その強さが、無言のまま画面越しに伝わってくる。
「順番に自己紹介をお願いします。名前と、二年でやりたいこと。長くなくていいです。」
教室の空気が引き締まる。
「小野寺愛理です」
小野寺は軽く机に手を添えて立ち上がる。
「もう一回行きたくなる空間をつくりたいです。すごいからじゃなくて、なんとなく落ち着くから、って理由で」
小さな笑いが起きる。東雲の口元が、ほんのわずかに動いた。
「立花蓮です」
「構造の強い建築をやりたいです。装飾は、あまり必要ないと思っています」
短く、迷いのない言葉に、東雲は小さく頷く。
そして、自分の番が来る。
「朝倉湊です。……建築を設計したいです」
それだけを口にする。
自分がどれほど未熟かも、どれほど曖昧な場所に立っているかも、わかっている。それでも、その一点だけは嘘がなかった。飾る言葉を重ねるよりも、いま言えるのはそれだけだと思った。
東雲の視線が向けられる。
表情は変わらない。だが、その目が完全に通り過ぎることはなかった。ほんの一瞬、注意がとどまる。短い言葉の奥を測るような、かすかな気配。その感覚が確かにあった。
次の瞬間には、何もなかったかのように視線は外れる。それでも、湊は確信していた。何かが、触れた。
「設計に正解はない。他人の評価よりも、自分が何をつくりたいのかを考えてください。そして、それを形にしてください」
静かな声が、胸の奥に落ちる。
卒業制作のテーマは自由だと告げられ、残りの時間は考えるために使えと言われる。教室は再びざわめきを取り戻すが、湊の内側はどこか静まり返っていた。
「なんかさ、ちょっと違うよね」
小野寺の声が届く。
湊は曖昧に頷きながら、前方を見る。東雲は別の学生と話している。その横顔は変わらず落ち着いているが、言葉を交わす瞬間、目にわずかな熱が宿る。胸の奥で、小さな音がする。理由はわからない。けれど、確かに何かが動き始めている。
今年は、きっと簡単には終わらない。扉が閉まる音が、いつもより深く響いた。
放課後、家に着く頃には日常の空気が戻る。
インターホンが鳴る。
「はーい」
ドアを開けると、見慣れた顔が立っている。
「おつかれ。設計どうだった?」
早坂悠斗はスニーカーを脱ぎながら、勝手知ったる様子で部屋に入ってくる。
「普通」
「普通なわけないだろ。顔がちょっと違う」
「何それ」
「なんかさ、ちょっと火ついてる顔してる」
湊は苦笑しながらキッチンに向かい、ペットボトルの水を二本出す。
「で?今日から新しい先生だったんだろ」
「うん」
「イケメン?」
「……どうだろ」
「は?そこ迷う?」
悠斗はソファにどかっと座り、湊をじっと見る。
「お前が迷うときは大体アウトなんだよ」
湊は何も言わず、ペットボトルを投げるように渡す。悠斗は受け取りながら、わざとらしくため息をついた。
「俺みたいなバリバリのノンケにはさ、男の何がいいのかさっぱりわからん。やっぱ女の子のほうが可愛くて柔らかくて最高だろ?」
「またそれ」
「で、何歳?」
「二十八」
「年上かよ。刺さってるじゃん」
「刺さってない」
悠斗はニヤニヤしながらソファに座る。
「俺はな、今度こそ違う。今の彼女は続く」
「毎回言ってる」
「いや今回はほんとに違う」
「何回目それ」
「……九回目?」
「増えてるよね」
「いや、ちゃんと数えてるわけじゃないけど」
「覚えてないの?」
「だって全員ちゃんと好きだったし」
「三ヶ月コースだね」
「お前な、俺の恋愛を短距離走みたいに言うな」
「だって毎回ゴール前で止まるじゃん」
「タイミングってもんがあるだろ」
「キスは?」
「まだ」
「ほら」
「焦らないタイプなんだよ、俺は」
悠斗は高校からの友達で、家も近い。親同士も顔見知りで、湊の部屋にいる姿はもう珍しくもない。今は別の大学の医学部に進んでいるが、週に一度は当たり前のように顔を出す。経験豊富そうに語るが、実際はいつも手を繋ぐところで止まる。九人目だろうと変わらない。長くても三ヶ月。それが悠斗の恋愛だ。
「お前のほうは?」
「何も」
「嘘」
沈黙。
「ちゃんと見てくるタイプ?」
「……うん」
悠斗は一瞬だけ真顔になる。
「俺は男の良さはわかんねえけどさ。お前が変な方向に傷つくのは嫌だからな」
その言い方は雑で、でも一番まっすぐだ。
二人は笑う。
けれど湊の胸の奥には、あの一瞬が残っている。
触れた。
あれが気のせいでないなら。
三ヶ月なんて、基準にならない。




