第18話 撤退
朝になっても、空気は重いままだった。
怒号はない。
誰かを責める声も、裁こうとする言葉もない。
それが、余計に堪えた。
◆
「……出ていく、とはどういうことだ」
カイは、机越しにアルトを見つめていた。
「そのままの意味です」
アルトは、視線を逸らさずに答える。
「この土地から離れます」
「逃げるのか?」
問いは、責める調子ではなかった。
困惑に近い。
「違います」
即答だった。
「逃げるなら、
あの夜のうちに姿を消していました」
カイは、黙った。
◆
「君がいなくなれば、
もっと混乱する」
「一時的には、そうなるでしょう」
アルトは認めた。
「でも、長くは続きません」
「なぜ、そう言い切れる」
「もう、基準ができているからです」
机の上に置かれた紙。
何度も書き足され、
端が擦り切れている。
「僕がいなくても、
皆は“正しいやり方”を知っている」
それは、
安心材料であると同時に、
致命的な問題でもあった。
◆
「……それでも」
カイは、言葉を探す。
「君がいたから、
ここまでは立て直せた」
「だから、です」
アルトは、静かに言った。
「僕がいる限り、
ここでは判断が集まる」
「皆が、考えなくなる」
はっきりとした言葉だった。
「今回の事故は、
誰のミスでもありません」
「それでも、
起きてはいけなかった」
カイは、目を伏せた。
否定できない。
◆
昼前、畑。
ヨハンが、そこにいた。
白い布は、もうない。
だが、土の色は変わっていない。
「行くと聞いた」
「……はい」
「引き止めない」
ヨハンは、先に言った。
「理由は、分からん」
正直な言葉だった。
「だが……」
一拍置いて、続ける。
「前と同じで大丈夫だと、
本気で思っていた」
アルトは、何も言わなかった。
「迷わなくていいのは、
楽だった」
ヨハンは、土を握りしめる。
「だが、
考えなかった」
それだけ言って、
深く頭を下げた。
責めるためではない。
理解した、という合図だった。
◆
夕方。
官吏たちが集まる。
「後任は?」
「方法は?」
「基準は、どうなりますか?」
次々に投げかけられる問い。
アルトは、すべてに答えなかった。
「……自分で決めてください」
ざわめきが走る。
「紙は残ります」
「ノウマも、います」
それが、余計に不安を煽る。
だが、
それ以上は言わない。
◆
夜。
荷は、軽かった。
持ち出すものは、
本当に必要なものだけだ。
『この判断は、
効率的ではありません』
ノウマの声。
「そうだね」
「でも、必要なんだ」
『理由を、明示できますか』
アルトは、少し考えてから答えた。
「僕がここにいる限り、
この土地は“考えなくて済む場所”になる」
「それは、
続いてはいけない」
ノウマは、沈黙した。
否定もしない。
◆
夜明け前。
アルト・クロウは、
誰にも見送られずに歩き出す。
背後では、
水は流れている。
基準も、紙も、残っている。
だが、
判断の中心だけが、いなくなった。
それでいい。
いや――
それでなければ、ならなかった。
撤退。
それは、
敗北ではない。
この土地に対して、
彼が引き受けた、
最後の責任だった。
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