第16話 正しさが完成する日
翌朝、空気が違った。
はっきりとした変化ではない。
だが、確実に――張り詰めていない。
領主館に集まる人々の足取りが、少しだけ軽い。
昨日まであった切迫感が、薄れている。
それは、安心だった。
同時に、
アルトには嫌な予感でもあった。
『心理的緊張度、顕著に低下』
「……良いことのはずなんだけどね」
『一般的には、好ましい状態です』
ノウマの声は、いつも通りだ。
◆
「昨日の件ですが」
官吏の一人が、執務室で報告を始める。
「被害は、最小限で済みました。
枯れた分も含めて、収穫への影響は限定的です」
「水路の補修は?」
「応急ですが、完了しています。
今後も、同様の対応で問題ないかと」
――同様の対応。
その言葉が、引っかかる。
「“同様”とは、具体的に?」
官吏は、少し戸惑いながら答えた。
「決壊箇所の補修と、
必要に応じた水量調整です」
「点検は?」
「……水の流れは、毎日確認します」
“毎日”という言葉は出た。
だが、アルトが考えていた
雑草の刈り取り。
土壁の恒久補強。
点検役の固定。
そういった話は、出てこない。
『即効性のある対応のみが抽出されています』
「だろうね」
◆
昼前、畑を回る。
白くなっていた土は、
完全には戻っていないが、
それ以上悪化もしていない。
「助かりました」
ヨハンが、深く頭を下げる。
「本当に」
「……いえ」
否定しかけて、言葉を止める。
助かったのは、事実だ。
「今回は、運も良かった」
「だが」
ヨハンは顔を上げ、はっきり言った。
「やり方は、正しかった」
その断言に、アルトは何も返せなかった。
「次も、同じでいいな?」
確認のような問い。
アルトは、少しだけ間を置いて答える。
「……状況次第です」
ヨハンは一瞬不満そうに眉を寄せ、
すぐに頷いた。
「分かった。
だが、基準があるのは助かる」
基準。
それは、
考える必要を減らす言葉だ。
◆
夕方。
執務室の机の上に、
例の紙が置かれていた。
内容が、増えている。
・水路決壊時は、応急補修を優先
・必要に応じて、水量を一時的に集中
・判断が遅れる場合は、即断を選択
その下に、小さく追記されている。
——先日の対応を基に
アルトは、紙をじっと見つめた。
『成功事例の形式化が進行しています』
「……誰が書いた?」
『特定できません』
それが、何よりも問題だった。
誰の判断でもない。
だが、皆が従う。
◆
カイが、執務室に入ってくる。
「うまくいったな」
率直な言葉だった。
「被害は抑えられた。
混乱も、ほとんどなかった」
「……はい」
「正直に言う」
カイは椅子に腰を下ろす。
「先日の判断で、
この土地は一段、安定した」
その言葉に、
アルトは違和感を覚える。
“安定した”。
それは、本当に正しい評価なのか。
「皆が、迷わず動けた」
カイは続ける。
「それが、どれほど価値のあることか」
『安定性の向上は、
国家的評価指標において重要です』
ノウマの補足。
アルトは、思わず笑ってしまいそうになる。
「……ノウマ」
『はい』
「今のは、断言だった?」
『事実の提示です』
淡々とした答え。
だが、
“事実”の切り取り方が、
少しずつ変わってきている。
◆
夜。
一人になり、
アルトは紙を畳む。
先日の例外処理は、
もう例外ではない。
成功したことで、
標準になった。
正しさが、完成してしまった。
「……これでいいのか」
『短期的には、
最適解に近い状態です』
「長期的には?」
『……評価が困難です』
その答えに、
少しだけ救われた気がした。
まだ、完全には踏み越えていない。
だが――
今日、誰も
「他にやるべきこと」を口にしなかった。
雑草の話も、
恒久補修の話も、
点検体制の話も。
それらはすべて、
今すぐ役に立たないからだ。
アルト・クロウは、窓の外を見る。
畑は、静かだ。
水は、流れている。
だからこそ、
誰も疑わない。
この正しさが、
次の失敗を生むことを。
それでも、
今日という一日は、
確かに“うまくいった”。
その事実が、
何よりも厄介だった。
正しさが完成した日。
それは同時に、
考えなくても回る世界が、
完成した日でもあった。
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