第15話 例外処理
異変は、昼になってから表面化した。
それは、誰にとっても予想外だった。
◆
「アルトさん!」
執務室の扉が、慌ただしく開く。
「南の畑で、作物が枯れ始めています」
官吏の声には、隠しきれない焦りがあった。
「原因は?」
「分かりません。害獣の痕跡もない。
水路も……詰まりは、ありません」
その言葉に、アルトは一瞬だけ眉をひそめた。
『マニュアル外事象を確認』
ノウマの声が、即座に続く。
「規模は?」
「一部です。ただ、この枯れ方……
広がる可能性があります」
嫌な沈黙が落ちた。
この土地では、作物が枯れるということは、
生活そのものが枯れるということだ。
◆
現場に着くと、違和感は一目で分かった。
畑の一角だけ、色が違う。
白っぽく、粉を吹いたような色だった。
アルトは、しゃがみ込み、土に指を差し込む。
「……乾ききってる」
土は軽く、指の間からさらさらと零れ落ちた。
不自然だ。
先日、この一帯にはまとまった雨が降っている。
本来なら、まだ湿り気が残っているはずだった。
周囲の畑は、実際そうだった。
だが、この一画だけが、
まるで水を拒まれたかのように乾いている。
「先日の雨の後は、
確かに問題なかった」
ヨハンが、唇を噛む。
「だから……紙の通りにやった」
「詰まりは、流した」
その言葉が、静かに胸に刺さる。
責めるつもりはない。
だが、その“正しさ”が、
今この結果を生んでいる。
『原因候補:継続的断水』
ノウマの声が告げた。
「……雨はあった。
でも、その後が来ていない」
『その可能性が高いです』
「水路を見ます」
アルトは立ち上がった。
◆
水路の下流。
そこに、答えはあった。
土壁の一部が、崩れている。
完全な決壊ではないが、
水が滲むように漏れ出し、
地面に吸い込まれていた。
「先日の雨で、弱ったんだな」
誰かが呟く。
雨そのものが原因ではない。
雨が弱点を露わにしただけだ。
アルトは崩れた縁に触れる。
土は脆く、軽く押しただけで崩れた。
脳裏に、かつて考えたことが浮かぶ。
雑草の刈り取り。
崩れやすい箇所の補強。
定期的な点検。
——やるべきことは、分かっていた。
だが、それは
「今すぐ効く対処」ではなかった。
◆
「でも……」
官吏が、困惑した声を出す。
「詰まりは、全部流しました」
「紙の通りに、やりました」
誰も反論できなかった。
それは、事実だった。
流れは確保した。
だから、安心した。
だが、
流れを“守る”ための仕事は、
紙には一行もなかった。
『前例参照による点検項目の欠落』
ノウマの分析。
アルトは、息を吸う。
ここで説教をしても、
白くなった土は戻らない。
必要なのは、
今の判断だ。
「……やることは二つです」
皆の視線が、集まる。
「決壊箇所の応急補修」
「それと、この区画へ水を届ける」
だが、補修だけでは間に合わない。
この乾き方は、
“水が来ていない時間”が長すぎる。
◆
『推奨判断を提示します』
ノウマの声が、はっきりとした調子になる。
『上流側の配分を一時的に変更し、
水量を集中させてください』
『他区域への影響は、
短期間であれば許容範囲内です』
今回は、確率も注意点も少ない。
それが異常だった。
「……本当に?」
『合理的です』
短い断言。
その一言で、
空気が固まる。
なぜなら皆が欲しいのは、
“考えなくていい判断”だからだ。
◆
アルトは迷った。
学園での事故。
断言が生む模倣。
だが、目の前には、
白く乾いた畑がある。
ここで躊躇すれば、
枯れは広がる。
「……やろう」
それが、彼の出した答えだった。
「水量を増やしてください。
上流の配分を調整して、迂回させます」
官吏たちは即座に動く。
ヨハンも、無言で頷いた。
◆
夕方。
応急的に補修された水路を通り、
水が再び流れ込む。
白くなった土は、
すぐには色を戻さない。
だが、
これ以上白くなることはなかった。
「……助かった」
誰かが、そう呟く。
『被害拡大、抑制を確認』
ノウマの声は、いつも通り淡々としている。
だが、アルトの胸は、少しも軽くならなかった。
◆
夜。
一人、机に向かう。
あの紙を広げる。
水路は、まず流れを確保。
——間違ってはいない。
だが、その下に、
守り続けるための仕事は、書かれていない。
「……成功じゃない」
『結果は、被害抑制です』
「運が良かっただけだ」
ノウマは、すぐには返さなかった。
『……認識しています』
その僅かな間が、
最初の亀裂だった。
アルト・クロウは、椅子にもたれかかる。
正しいことをした。
皆、間違っていない。
それでも、
白くなった土は、
考えなかった時間の長さを、
確かに刻んでいた。
この例外処理は、
やがて紙に追記される。
——守るべき理由を、書かないまま。
それが、
次の破綻を呼ぶことを、
アルトはもう、理解してしまっていた。
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