第14話 便利な紙一枚
それは、誰かが「作ろう」と言って生まれたものではなかった。
朝の領主館。
執務室の机の端に、紙が一枚置かれている。
昨日まで見なかったはずの紙だ。
◆
「……これは?」
アルトが手に取ると、近くにいた官吏が少し気まずそうに視線を逸らした。
「覚え書きです」
「誰の?」
「皆で……というか」
歯切れが悪い。
紙には、箇条書きで短い文が並んでいる。
・水路は全面補修を急がず、まず流れを確保
・種は一度に配らず、様子を見る
・人手は集中させず、最低限を維持
どれも、間違っていない。
どれも、ここ数日で“うまくいった”やり方だ。
そして、紙の一番下。
——参考:アルトの時の判断
胸の奥が、ひくりと鳴る。
『簡易マニュアルの成立を確認』
「……マニュアル?」
『正式な定義には達していませんが、
行動指針として機能しています』
アルトは、紙をそっと机に戻した。
◆
昼前、判断の速度が変わった。
「水路の件ですが」
官吏が紙を一瞥してから、言う。
「まず流れを確保します」
「……理由は?」
一瞬、間が空いた。
「前回、それで問題がなかったので」
それ以上の説明はない。
だが、
迷いもなかった。
『意思決定時間、短縮』
「失敗の可能性は?」
「低いと思われます」
思われます、という言葉が、
どこか無責任に聞こえた。
◆
畑では、ヨハンが同じ紙を手にしていた。
「便利だな、これ」
悪びれもせずに言う。
「前は、頭の中だけだったが、
こうして書いてあると、迷わん」
「……ヨハン」
「分かってる」
彼は先に言った。
「これが絶対じゃないことくらい」
だが、紙を折り畳む手つきは、
慣れている。
「だがな」
ヨハンは、畑を見渡す。
「迷ってる間に、
水が止まるのは、もう嫌なんだ」
その言葉は、
誰よりも正直だった。
◆
夕方、カイが執務室で言う。
「助かってる」
短い言葉だが、重い。
「判断が早い。
混乱が減った」
「……考えなくなっているとは?」
アルトの問いに、カイは少しだけ黙った。
「考えてないわけじゃない」
だが、続く言葉は、歯切れが悪い。
「ただ……基準があると、楽だ」
また、その言葉だ。
『“楽”という評価語、定着傾向』
ノウマの声が、淡々と告げる。
アルトは、反論できなかった。
実際に、
人は救われている。
◆
夜。
アルトは、あの紙を見つめていた。
破れば、終わる。
燃やせば、なくなる。
だが、それで何が変わる?
明日になれば、
同じ内容が、
誰かの記憶から書き起こされるだけだ。
「……便利すぎるんだ」
『利便性は、拡散を促進します』
「分かってる」
だが、止める理由を、
まだ言葉にできない。
この紙は、
正しいことしか書いていない。
だからこそ、
危険だった。
アルト・クロウは、紙を畳み、引き出しに入れる。
見えない場所へ、
押し込んだだけだ。
だが、便利なものは、
隠されても、
必ず引き出される。
この一枚の紙が、
やがて「基準」と呼ばれるようになることを、
まだ誰も、はっきりとは意識していなかった。
ただ一つ確かなのは、
この土地で、
考える前に見るものが、生まれてしまった、という事実だけだった。
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