第13話 書かれていない決まり
変化は、音を立てずに始まった。
朝の領主館。
執務室の隅で、若い官吏が紙を折り畳んでいる。
それは命令でも、規則でもない。
ただの覚え書きだ。
——昨日、こうした。
——その前は、こうだった。
箇条書きの短文。
日付と、状況と、結果。
誰に見せるためでもないはずだった。
◆
「アルトさん」
声をかけられ、振り返る。
「昨日の対応、助かりました」
礼儀正しい一礼。
「いえ、決めたのはあなたです」
「ですが……」
官吏は一瞬、言葉を探した。
「判断が、楽でした」
胸の奥に、小さな引っかかりが残る。
『“楽”という評価語の使用頻度、増加傾向』
「分かってる」
ノウマの声に、短く返す。
だが、その“楽”が何を意味するのか、
まだ言葉にできない。
◆
昼前、畑を見回る。
ヨハンが、鍬を肩に担いで近づいてきた。
「水路の話だがな」
「何かありましたか」
「いや。
この前と同じで、流れを先に確保した」
彼は、当たり前のように言う。
「前に、うまくいったからな」
前に。
その一言が、耳に残る。
『前例参照を確認』
「ヨハン」
「なんだ?」
「同じやり方が、
いつも正しいとは限りません」
彼は、少し困ったように笑った。
「分かってる」
即答だった。
「だがな。
分からん時は、
助かったやり方をなぞるしかない」
それは、責められない判断だ。
人は、
生き延びた方法を信じる。
◆
夕方、領主館。
廊下で、数人の官吏が小声で話している。
「水路は、まず流れを確保」
「種は、全部配らない」
「人手は、分散させない」
どれも、
誰かが決めたわけではない。
だが、
皆が知っている。
アルトは、足を止めなかった。
声をかければ、止められる。
そう分かっている。
だが同時に、
止める理由を、
はっきり言葉にできなかった。
『非公式ルールの形成を検出』
「……書いてないだけだ」
『はい。
しかし、行動を拘束しています』
拘束。
その言葉は、
少し大げさに思えた。
まだ、誰も縛られてはいない。
ただ、同じ方向を向いているだけだ。
◆
夜。
机の上に、一枚の紙が置かれている。
誰かが忘れていった覚え書きだ。
箇条書き。
短い文。
余白だらけ。
その端に、小さく書かれている。
——アルトの時は、こうだった。
紙に書かれているのは、
すべて「その場で効いたこと」だった。
水路の流れを確保。
種の配分を抑制。
人手の集中を避ける。
どれも、即効性がある。
だが、アルトは気づく。
そこには、
・雑草の刈り取り
・崩れやすい土壁の補修
・定期点検の役割分担
そういった、
「続けなければ意味がない作業」が、
一つも書かれていなかった。
ペンを取る。
修正しようとした。
消そうとした。
だが、手が止まる。
これは、間違いではない。
実際に、そうだった。
だからこそ、
危うい。
「……名前を残すな」
小さく呟く。
『削除しますか』
「いや」
首を振る。
「消しても、残る」
人の中に。
記憶の中に。
ノウマは、何も言わなかった。
◆
窓の外、畑は静かだ。
風が吹き、
土の匂いが流れてくる。
この土地は、
今のところ、うまく回っている。
だからこそ、
誰も疑わない。
——これが、正しいのだと。
アルト・クロウは、紙を伏せる。
書かれていない決まりは、
書かれた規則よりも、
強く人を縛る。
それを、
彼はまだ、
止められないでいた。
そしてこの夜、
誰の署名もないまま、
この土地には、
一つのやり方が根を下ろした。
——失敗しなかった、という理由だけで。
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