第11話 小さな成功の味
最初に変わったのは、数字ではなかった。
人の顔だ。
朝、領主館に集まる人々の表情が、ほんの少しだけ柔らいでいる。
状況が好転したわけじゃない。問題は山積みのままだ。
それでも――
切迫感の質が変わっていた。
『緊張度、微減を確認』
「そんなのまで分かるのか」
『表情筋の硬直と発話速度から推定できます』
「……便利すぎるな」
『便利さは、評価されるべき価値です』
ノウマは真顔のまま、たぶん真面目に言っている。
だから余計に、少しだけ笑いそうになる。
◆
「アルトさん、報告です」
若い官吏が、控えめに声をかけてきた。
昨日、帳簿を渡してきた男だ。目の下の隈が少し薄い。
「畑の水路を見て回りました」
「どうでした?」
「……詰まりは三か所だけでした」
彼は、戸惑ったように首を傾げる。
「例年なら、もっとあるはずで」
予想通りだ。
問題が“巨大”じゃないと分かった時点で、対処は現実になる。
昨日やったのは、立派な策ではない。
ただ、話を聞いて、現場を見て、優先順位を一緒に並べただけだ。
「全部、直せましたか」
「はい。応急的ですが」
官吏は頷いた。
その頷きが、昨日より軽い。
「流れは戻ったな」
アルトは、水路にしゃがみ込んで土を指で崩す。
「……でも、これだけじゃ足りない」
「え?」
官吏が顔を上げる。
「雑草は、また生える」
「土壁も、雨で崩れる」
言いながら、アルトは水路の縁を叩いた。
「本当は、刈り取りの周期を決めて、
崩れやすい場所を固めて、
点検役も決めないといけない」
官吏は、気まずそうに視線を逸らす。
「……そこまでは、まだ手が回っていません」
アルトは、何も言わなかった。
今は、“流れた”こと自体が、
この土地では救いだったからだ。
◆
昼前、畑に出る。
土は乾いている。だが、昨日よりは湿り気が戻っている。
小さな変化だ。小さいからこそ、目を凝らさないと見えない。
畑の端で、年配の農夫が鍬を止めた。
「……お前さんが、領主館の」
「アルトです」
彼は僕の顔をしばらく見て、短く言った。
「悪くない」
それだけで十分に重い評価だった。
「……あんた、名前は?」
ふと思って聞くと、農夫は少しだけ目を丸くしてから、言った。
「ヨハンだ」
名乗ったあと、照れたように鍬を握り直す。
「正直に言うとだな」
ヨハンは視線を畑に戻したまま続けた。
「今年は、もう駄目だと思ってた」
軽く言っているようで、全然軽くない。
この土地では、収穫は生活で、生死そのものだ。
「だが、水が流れた」
「それだけで、やれる気がする」
胸の奥が、少しだけ締まる。
『死亡率予測、低下』
「……まだ油断はできない」
『同意します』
それでも――
最悪ではなくなった。
それだけで、人は息ができる。
◆
夕方、領主館に戻る途中、畑の向こうから声が聞こえた。
「アルトさんのおかげだな」
誰かが、そう言った。
否定する間もなく、別の声が重なる。
「失敗しなかった」
「助かった」
その言葉が、胸の奥に静かに沈む。
――成功だ。
だが、それは同時に、次の判断を縛る言葉でもある。
『観測:成功体験の共有が始まりました』
「……共有、か」
『共有は拡散を生みます』
ノウマの声は淡々としているのに、内容だけが冷たい。
◆
夜。執務室でカイと向き合う。
「君は、何も決めてないのに」
呆れたような、感心したような声だった。
「状況が、少し良くなってる」
「決めないことを、決めただけです」
「それが一番難しい」
カイは椅子に深く座り直し、書類の山を見た。
「正直に言う」
真剣な顔になる。
「楽になった」
その言葉に、胸の奥がわずかに重くなる。
楽になる、というのは――委ね始めているということでもある。
『依存兆候、微増』
ノウマの報告に、僕は小さく頷いた。
分かっていた。避けられない。
だが、見過ごせるものでもない。
「カイ」
「うん?」
「楽になるのはいい。でも、考えるのをやめたら駄目です」
カイは、すぐには答えなかった。
やがて、静かに言う。
「分かってる」
そして少し笑う。
「分かってるから、怖い」
僕も同じだ。
◆
部屋に戻り、机に向かう。
今日の出来事を書き留める。
成果と呼べるほどのものではない。失敗が減っただけだ。
それでも、誰も死なず、誰も取り返しのつかない選択をしていない。
「……成功、なのかな」
『定義によります』
「その言い方、便利だな」
『便利さは、評価されるべき価値です(再掲)』
同じ言い回しを繰り返すのが、ノウマの“癖”なのか、強調なのか分からない。
思わず鼻で笑ってしまう。
ノウマは少し間を置いて続けた。
『現時点では、“被害の拡大を抑制した”が妥当です』
「それで十分だよ」
だが胸の奥では、別の感情も芽生えていた。
――このやり方なら、もっと良くできる。
その考えが、次の一歩を急がせる。
そして、急がせるものほど危険だ。
窓の外、畑の向こうで、誰かが笑っている声が聞こえた。
久しぶりの軽い声だ。
アルト・クロウはペンを置く。
小さな成功は、甘い。
それは希望であり、同時に――
近道の誘惑でもある。
この甘さを“当たり前”にしてしまったとき、何が起こるのか。
まだ誰も、正確には想像できていなかった。
ただ一つ確かなのは、
この土地が――変わり始めているという事実だけだった。
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