奇跡は意外と近くにある
翌日、ユルレム様と朝食を取った後、また馬に乗った。吐くから朝食はいいです、と固辞する私にまあまあ、と言って美味しい朝食を取らせた使用人たちの満足げな顔が忘れられない。
近いうちに顔を出せよ、とユルレム様は王太子殿下の背中を叩いていた。
そして、私は今吐きそうになっていない。
「奇跡が起きています」
「昨日でだいぶ慣れたんだな」
「そうでございますね」
お尻が痛くなってきたな、と思っていたところで王太子殿下が馬を止めてくれた。ところ変わってもまだ森の中だ。森にはブラクニがいるかもしれないので王太子殿下から離れないようにする。あの魔物は本当に怖い。
魔力が戻ってきていたのか確認するために、右手に力を込めると強く光る。だいぶ回復している。やっぱり昨日食べた美味しいご飯と、ぐっすり眠ったのが良かったらしい。
王太子殿下が言うには今日中には王宮へ着くとのことだった。それを聞いて俄かに緊張してしまう。王宮は私に取っては良くない思い出がある場所だ。
「ブラクニが怖いのか」
私が離れないことに気づいた王太子殿下がそう言ってくる。その顔には微かにからかいの色が浮かんでいた。
「あの魔物が怖くないのは王太子殿下くらいですよ」
私の言葉にエルム様もうんうんと頷いてくれる。後からエルム様に聞いたことだが、王太子殿下が一人で倒したあのブラクニは、本当なら騎士団を編成して討伐にあたるものらしい。
本当に素晴らしいお方なんです、と言うエルム様に、それを素晴らしいで済ませていいのかと思った。もう化け物だ。
「そうそう出るものではないから安心しろ」
「そうなんですか」
「勇者が魔王を倒してから数百年も経っている。魔王の力がなくなって魔物の数は減っているはずだ」
「なるほど」
そうなんだ、と思って安心して木の幹にもたれる。それでも、と王太子殿下は言葉を続けた。
「一体出れば大きな被害が出る。昨日早いうちに倒せたのは幸運だったな」
その言葉に曖昧に頷いた。確かにあれだけ大きな魔物が食べる量は人間一人ではないだろう。倒すにしてもそれなりの被害を覚悟しなければいけない。
やっぱり怖い、とブルリと体を震わせると、王太子殿下が笑った気配がした。
馬を走らせて王宮に着いたのは日もすっかり暮れた頃だった。思わずマントの下で顔を両手で覆ってしまう。疲れた。お尻が痛い。
王宮の入り口は全て王太子殿下の顔を見ただけで門や扉が開いた。おかえりなさいませ!と大声で言う騎士たちを見て、王太子殿下は好かれているのだなとわかった。
王宮は左右に広がった形をしていた。ライアス王国の王宮は縦に長かったから、また色々と違うんだなと思った。
「東の棟に俺と母上が住んでいる。西の棟に王妃とその息子が」
「なるほど」
「ルリアート様、ギリウス様には会わせないようにしませんと」
「そうだな」
エルム様の言葉に王太子殿下が頷く。ギリウス様とは第二王子のことだ。私も会いたくない。そう思っていると、エルム様は私は王陛下に帰ったことをご報告に行って参ります、とどこかに行ってしまった。
第三夫人以降は別宅と教えてもらうと、その身分差がはっきりとわかる構造にわかりやすいと感心してしまう。
王太子殿下は中央の入り口は使わずに向かって右に進んでいく。なるほど、そちらにも出入り口があるのか。黙って馬に乗っていると、立派な両開きの扉が見えた。王太子殿下が馬を降りると、近くにいた使用人が馬の手綱を持ってどこかに連れて行く。お疲れ、心の中でそう声をかけていると立派な両開きの扉が内側から開かれた。
「ルリアート!」
「母上」
出てきたのは金髪に金の瞳を持ったご婦人だった。その顔は喜びに溢れていて、そのまま王太子殿下に飛びつく。母上、と呼んでいたから母親なのだろうが、とびきりに若い。
うちの母と比べ物にならない若さに驚いていると、その母上の視線が私に止まった。
「ルリアート、その方は?」
慌てたように佇まいを直したご婦人が、咳払いをした後そう王太子殿下に尋ねた。とりあえずお辞儀だけでもしておこうとお辞儀をすると、王太子殿下がその話は中で、と言った。
その言葉で王太子殿下の母上が中に入っていき、私も王太子殿下の後について中に入る。使用人がずらりと並んでいるのを想像したけれど、いたのは侍女が二人と執事が一人だけだった。
「おかえりなさいませ、ルリアート様」
「お怪我はありませんか」
「お荷物をお預かりいたします」
三人は口々にそう言って王太子殿下に近づいてくる。それに大丈夫だ、ありがとう、と言いながら王太子殿下も荷物を渡す。
第一王子についている人間はこれだけなのかと驚いてしまう。もしかしたらもっといるのかもしれないけれど、それにしたって少ない人数だ。
「マントをお預かりいたします」
いつの間にかすぐ隣に来ていた侍女にそういわれて、頭から被っていたマントを脱いだ。侍女は私がマントを脱いでもニコニコするだけで、何もいわない。
「お願いします」
そう言ってマントを渡すと、お洗濯もしておきますね、と言ってくれた。
「ルリアート様、サロンへどうぞ。お茶も入れましょうね。お腹も空いているでしょう。夕食もすぐにご用意します」
執事がそう言っていなくなる。王宮の廊下ってどこも絨毯をしくんだなと思いながら歩いているとサロンに着いたらしく、扉が開かれて中に入った。
「ルリアート」
「この女性は俺の呪いを癒すことができます」
王太子殿下の母上が座るやいなや、自分は座りもせずにそういった王太子殿下に母上が目を見開く。そんなに見られるとこの場に居づらいな、と思いながらもじもじしていると、母上が立ち上がって私のそばに寄ってくる。
「本当なの?」
表情は真剣そのものだ。金色の瞳が私のことを推し量るような目をしていた。綺麗な方だ。でも王太子殿下には似ていない。
「本当でございます。なぜかはわかりませんが」
そう答えると、王太子殿下の母上が私のことを抱きしめる。汚いですよ、と言おうとして相手の体が震えていることに気づく。
どうして震えているのか分からずにそっと背中に手を添える。
「ああ、本当にありがとう」
堪えきれなくなったようにそう言った王太子殿下の母上は私のことを強く抱きしめた。まだ何も見せていないのにこの感激のしようは、王太子殿下を信用しているのだろうとわかる。
王太子殿下のいうことだから、信じているのだろう。
「よければお見せいたします」
私がそう言うと、王太子殿下が驚くのがわかった。
「見ていただくのが一番です」
「わかった」
王太子殿下が立ったまま、服を捲り上げる。呪いは臍のあたりまで進んでいた。その進行の速さに驚いた。やはり治療の持ちは良くないらしい。痛みもあるとのことだから、馬上でも痛かったはずだ。
それなのにそんなそぶりは一切見せなかった。呆れるくらい我慢強い。
「ルリアート、それは」
「だいぶ引いているでしょう。これでも進んだ方です」
その言葉に王太子殿下の母上が驚いているのがわかった。そっと息子である王太子殿下のお腹に触れて、ああ、と声を漏らす。
「あなたがしてくれたの?」
「お見せします」
右手をそのあざに当てると、光が漏れる。その光が母上の顔を照らして、より一層若く見えた。スルスルと引いていくあざに、両手を口に当てて少女のような仕草をする。顔は喜色に輝いていて、母親というものはみんなこうなのかな、と思った。
思い出せば私のお母さんも、私が力を使い始めてからも私の心配ばかりしていた。力を使いすぎて疲れていないか、体は大丈夫か、気持ちがへこたれていないか。
「ごめんなさい、不勉強で、あなたの力のことはわからないの。でも本当にすごいわ。本当にありがとう」
頭を下げた王太子殿下の母上に慌てていると、王太子殿下がすごいでしょう、と言って満足そうにしている。痛いなら痛いと言えばいいのに。
治療費がかかるのが嫌なんだろうか。
「それで、お礼は?」
「一回の治療費が27サルーです」
「お金でいいの?」
「信用できるでしょう」
「ええ、本当に」
この人たちはお金以外のものをねだられたことがあるのだろうか、と思った。私は今回の治療費は奢ろうかな、と思ってからその考えを打ち消す。
私にも私の生活がある。慈善活動をしている場合ではない。
「本当にありがとう」
私の両手を取ってそう繰り返す母上に微笑む。治療費をもらっているので、そんなに感謝されることではない気がするけど、感謝されて悪い気はしない。
「母上、この件はご内密に」
「そうね、知られたらどうなるかわからないものね」
「そうです」
王太子殿下の母上は察しがいいと感心していると、何かに気づいたようにハッとした顔をする。王太子殿下の母上は私のことを見て、それから王太子殿下を見ると、疲れたでしょう、ゆっくりしてね、と言ってサロンを出て行った。
その対応を不思議に思っていると、王太子殿下がコホン、と咳払いをする。
「明日、王宮内の案内をしよう。今日はゆっくり休んでくれ」
その横顔をまじまじと見つめてしまう。
「王太子殿下、今日のあざにも痛みがあったのではないですか」
「痛みはあったがそれほどではなかった」
「本当ですか」
「本当だ。痛みが強くなれば言う」
「そうしてください」
そう話しているうちに、侍女の一人がサロンに入ってきた。赤茶色の髪の毛をお団子にしていて、王太子殿下の母上よりもずっと年上に見える。ニコニコと笑う彼女を王太子殿下が手のひらで指す。
「ニールだ。俺にずっと仕えてくれている。わからないことがあればなんでも彼女に尋ねるといい」
そう言って区切ってから今度は私のことを手のひらで示す。
「ニール、こちらはフューイだ。俺の客人だな」
「ええ、心得ております」
そう言ってニールが私の方に歩み寄る。
「お疲れでしょう。お部屋にご案内しますね」
なんだかホッとする笑顔だった。いわれるがままにニールに着いてサロンを出て行こうとすると、後ろから王太子殿下の声がかかった。
「おやすみ」
「おやすみなさい」
そう答えて、ニールと一緒にサロンを出る。王太子殿下の傷をやっぱり毎日診るべきかなと思った。




