敵は
シュヴァリ王太子殿下に借りた馬は元気だった。ブヒヒヒヒンと言いながら首を振るものだから怖くて思わず後ずさりをしてしまったくらいだ。
借りた馬はどうすればいいのかと尋ねたら、港に王家直属の馬宿があるらしい。その馬宿に返してくれればいいとのことだった。王家直属の馬宿ってやっぱり豪華なのかな、と思いながらルリアート王子に手を取られて馬に乗る。
「気をつけて」
「本当に世話になった。この礼はまた」
「必要はない。あなたのためじゃなくフューイのためだ」
シュヴァリ王太子殿下がそう言うと、ルリアート王太子殿下は何も言わなかった、後ろに乗っているから表情が見えない。
エルム様がその場に流れた少しピリついた空気を振り払うように、執事に大声で礼を言う。なんだこの空気、と思いながら馬上からシュヴァリ王太子殿下に手を伸ばしてそのほおに触れる。
「女神ティアのご加護がありますように」
そう言って微笑むと、シュヴァリ王太子殿下が泣き出しそうな顔になった。すぐに手を引っ込めて馬の鞍についている取手をしっかりと掴む。行くぞ、とルリアート王太子殿下が言って馬が歩き出す。吐くことにならないといいな、と思いながらマントを深く被り直した。
馬が歩き出すと意外と揺れるけれど、喋れない程ではない。それなのにルリアート王太子殿下は何も喋らない。大通りを抜けて馬が少し早歩きになる。もうこれで見納めだな、とライアス王国の王都を眺めた。
馬には申し訳ないけれど野宿もせずに駆け抜けて、ついてのはすっかり辺りが暗闇に覆われてからだった。言われた通り、馬宿に馬を返してマントの下からキョロキョロと辺りを見回す。港にいると書いてあったけど、詳しい場所は書かれていなかった。詳しい場所まで書いておけよ、と心の中で毒づいていると、ランタンを持って歩いている人間が目についた。ランタンの炎で照らされている顔には見覚えがある。
「王太子殿下、あれ」
「ああ」
王太子殿下も気づいていたようで、視線で追っているのがわかる。どう見てもギリウス王子の家臣の一人だ。周囲を警戒するのならマントか何かで顔を隠せばいいものを、と思いながらそっと後をついていく。家臣の一人が入っていったのは、民家の一つだった。ここを借り上げているらしい。
周囲に比べても大きなその民家をどうやって借りたのだろうと思っていると、王太子殿下がマントを脱いだ。
そのことに驚いていると、王太子殿下は私を見てニヤリと笑った。見たことのない笑みだった。
「俺とエルムは表から入ろう。お前はどうする」
「後からついていきます」
「気をつけろよ」
王太子殿下が相手では中に何人用心棒を連れていようと関係ないだろう。中の人を大体倒してもらってから、中に入った方が安全だ。
そう考えて王太子殿下とエルム様が民家に入っていくのを見送る。ただ、ギリウス王子もバカではない。きっと何か策があるのだろう。
民家の中から時折大きな音が聞こえてくる。前の通りを通っている人間が思わず振り返ってしまうくらいには大きな音だ。この音が止んだら中に入ろう。耳を澄ましていると、程なくして静かになった。
民家の扉に手をかけて、そっと中を伺うと、人が動いている気配はない。王太子殿下たちは奥へと進んだらしい。そうっと足を踏み入れると、どこから出したのか縄で縛られている人間が何人かいた。気は失っているようだ。
怖いからそちらを見ないようにして自分も奥に進むと、王太子殿下とエルム様がいるのが見えた。少し安心してその二人に近づくと、ギリウス王子の前にお母さんとテスがいた。その姿を見て、自分の血の気が引くのがわかった。
後ろ手で縛られているのか手は後ろに回っている。二人の体も縛られている。そして首元にはギリウス王子が持つ剣が突きつけられていた。
「お母さん、テス」
駆け寄ろうとしても二人のそばにはギリウス王子がいる。無駄に怪我をするだけだろう。どうしよう、と思って二人を見ると、二人は私の方を向いて首を振るだけだった。
二人とも幸に、衰弱している様子はない。
「ギリウス」
静かに王太子殿下が名前を呼ぶ。ギリウス王子はその呼びかけに無表情で答えた。
「よくお分かりになりましたね。母と弟の居場所を」
とりあえず二人から気を逸らしたくてそう言うと、ギリウス王子の視線が私の方へ向く。私の方へ向いても表情は無表情のままだ。王太子殿下と同じ黒い髪に青い瞳。美しいと形容されていい容姿のはずなのに、あまりにも冷たく見える。
「お前の銀の腕輪、それは女神ティアへの信仰を表すものだろう」
やっぱりあの誕生祭で見られていた。女神ティアを信仰している国はライアス王国しかない。
「俺のことを馬鹿だと思っていたか」
力が入ったのかテスの首元からたらりと血が流れる。即死の場合、治癒の魔法は効かない。私の力も死から人を救うことはできない。焦ったことが顔に出たのか、ギリウス王子が横に剣を引いた。テスの首筋に横一線の傷ができて、そこに血が滲む。
「そんなこと思ってはおりません」
「どうだかな」
テスの表情が一瞬苦しげに変わった。可哀想で見ていられない。どうしよう、と思って王太子殿下を見ると、王太子殿下は両手を降参のようにあげた。
「ギリウス、二人を離せ。俺には何をしてもいい」
ギリウス王子を落ち着かせるような穏やかな声だった。とても人質を取られているようには聞こえない。余裕さえ感じさせる声音に、ギリウス王子のこめかみがぴくりと動く。イラついたのだろう。
「順番が違う」
「順番?」
順番ってなに。王太子殿下も不思議そうな声を出したけれど、私も同じく不思議に思ってしまう。なんの順番だ、と思っているとギリウス王子はゆっくりと口を開いた。
「兄上が死ねばこいつらを離してやる」
「そんなに憎まれているとは思わなかったな。お前はいつでも可愛い弟だった」
「黙れ」
地の底を這うような声でギリウス王子がそう言う。王太子殿下の声にはまだ余裕が滲んでいて、ギリウス王子からすれば腹が立つだろう。あまり刺激しないで欲しい。そう思って王太子殿下を見ると、エルム様が剣の柄に手をかけていることがわかった。
ギリウス王子は怒りのためかエルム様の動きに気づいていない。
「お前はいつでも可愛かったよ。ギリウス。幼い頃は俺の後ろをついてきてくれたのにな」
王太子殿下がそう言うと、ギリウス王子は明らかに怒りで眦を吊り上げた。その剣先はまだテスの首筋に当てられていて、私はヒヤヒヤしてしまう。
眦を吊り上げたギリウス王子は何を思ったのか、唐突に怒りの表情を崩して元の無表情に戻った。その表情の変化を訝しく思っていると、ギリウス王子が大きく息を吐く。自身を落ち着かせるかのようだった。
「俺を怒らせれば、簡単にことが片付くとでも」
「そんなことは思っていない。お前は可愛い俺の弟だ。こんなことはやめさせたい。父上の耳に入れば、お前がどんな処罰を受けるか。考えるだけでも恐ろしい」
王太子殿下は処罰の内容を想像したのか、演技じみた様子で体をブルリと震わせた。アルル王国の王陛下のことを思いだす。子どものことを愛している父親だと王太子殿下は言っていた。
処罰の内容はわからないけれど、愛情深い父であり、厳格な父なのかもしれない。
「覚えてないか、幼い頃いたずらをすると尻を叩かれた。あれは痛かったな、お前も泣いていただろう」
そこで王太子殿下は一度言葉を区切った。そして横から見ていてもわかるような優しい顔になる。
「ギリウス、俺が死んだところで、お前に王は無理だ。お前はあの頃、…叩かれている俺を見て泣いていた頃から変わっていない」
王太子殿下にはありありと思い出せるのかもしれない。いたずらをして怒られた自分が尻を叩かれているのを、泣きながら見ている弟。
今のは兄の顔だったな、と思いながらテスを見る。私もテスのことをいつまでも小さい弟だと思ってしまう。兄や姉というのはそういうものなのかもしれない。
王太子殿下の言葉に、ギリウス王子は表情を変えなかった。それでも思うところがあったのか、剣に力が入ったのがわかる。これ以上血を流させるのはやめてくれ、と思っているとギリウス王子の口が開いた。
「捕えろ」
その言葉で後ろを振り返ると、いつの間にか人が立っていた。さっき倒された人たち以外にもいたのか、と思っているとすぐに手を後ろ手に捕えられる。ブンブンと振ってみてもどうにもならない。
エルム様と王太子殿下が素直に捕えられたのは、お母さんとテスがいるからだろう。どうしよう。そう思ってギリウス王子を見ると、ギリウス王子も私を見ていた。




