おかしいものはおかしい
結論から言えば、王太子殿下は次の日までに帰ってきてはくれなかった。暗澹たる気持ちで夜明けを迎え、自分の両頰を両手で持ち上げてみる。名案は思いつかないが、治療だけはしたくない。
昨日蹴られたところをニールに見てもらったらあざになっていたらしい。腹を立てながらその治療をしていると、ニールの歩き方が変なことに気づいた。まさか、昨日の治療がうまく行ってなかったのでは、と思ってニールに事情を尋ねるとニールは箒を取りに行くときに向こう脛を強かに打ってしまったらしい。
それも治療しておいた。ニールが用意してくれた朝食を食べながら、どうしようかな、と考える。治せないとは言えないけれど、治したくない。あんな指の傷、舐めなくても治る。
そう思っていると、部屋の扉が乱暴にノックされた。
「女!出てこい!」
「フューイ様」
「ニールはここにいてください」
そう言って椅子から立ち上がる。なんて無礼なやつなんだ、と思いながら部屋から出ると、家臣たちを引き連れてギリウス王子が立っていた。今日のお召し物は白と黒だ。
「お早いおつきに感謝いたします」
そう言って頭を下げると、さっさとサロンに案内しろ、と家臣の一人が私に向かって高圧的に言った。私、お早いおつき、と言う嫌味も通じないらしい。
あんな傷をそんなに治してもらいたいのかと思ってサロンに案内する。扉を開けろ、と顎で示されたので気づかないふりをした。
「扉を開けろ」
「申し訳ありません。気づきませんで」
大袈裟な態度をとってゆっくりと扉に近づく。そしていつもの倍の時間をかけてサロンの扉を開けてやった。
家臣たちが全員入ったのを見計らって、外側から閉めてやろうかと思ったけれど、何をされるかわかったものではない。
「女、傷を治せ」
「治療費を50サルーいただきます」
椅子に座って手を突き出したギリウス王子にそう言うと、ポカンとした顔をした。お金も取らずに治療するわけがない。
「金を取るつもりか」
「失礼ながら慈善活動ではないので、ご協力いただきたく」
頭を下げるとギリウス王子がどんな顔をしているのかわからない。椅子から蹴ろうとしても私までは遠い。
足が届かない範囲にしか近づかないと決めていた。何発ももらってやると思うなよ、と思いながら顔をあげると、ギリウス王子は信じられないものを見るような顔をしていた。
「癒しの力を持ちながら、金を取るつもりか」
「先ほども申し上げましたが、慈善活動ではないのでご協力いただきたく存じます」
そう言うと、ギリウス王子が椅子から立ち上がる。家臣たちがびくついたのがわかった。
普段どういうふうに接しているのかがわかる。こいつらも蹴られてるんだ、と思うと可哀想になってきた。私なら仕事に行くのが嫌になってるだろう。
ギリウス王子が近づいてきて、手を振り上げる。叩くならどうぞ叩け、と思っているとその手は振り下ろされなかった。
「女、ふざけるのもいい加減にしろ」
「ふざけてはいません」
家臣たちが固唾を飲んで見守っているのがわかる。癇癪を起こせば自分達も痛い目に遭うのだろうか。
「女、ギリウス様が治せと申しておるのだぞ!」
家臣の一人が沈黙を破った。一番仕事ができる奴なのかな。そう考えているとギリウス王子の手が私の方に伸びてくる。何を、と思っていると、首を掴まれた。
「もう良い」
片手でもすごい力だ。ギリギリと首が締まって息ができない。途端に苦しくなってきて、手でギリウス王子の手を押さえた。
その手を意に介さずギリウス王子は私のことを締め上げる。こいつここで殺すとか頭がおかしいんじゃないか。
そう思っていると、にわかに廊下を走る音が聞こえてきた。その音に、苦しくなりながら笑ってしまう。
助かった。
「何をしている!」
扉が破られる勢いで開かれた。そちらを横目で見ると、王太子殿下が討伐の時の姿のまま立っていた。
後ろにはニールもついている。王太子殿下の声で首から手が離れた。一気に空気が流れ込んできてゴホゴホと咳き込んでしまう。クソ野郎が、覚えてろよ、という気持ちを込めて思い切りにらんだ。
「大丈夫ですか」
エルムが手を差し伸べてくれて、その手を取って立ち上がる。首に跡が付いてたら嫌だな、と思って触ると熱を持っていて、跡がついていそうだったからすぐに魔力を当てる。
その様子を見てギリウス王子が忌々しそうな顔をするのを見逃さなかった。お前みたいなクソ野郎に絶対力を使うもんか、と心の中で舌を思い切り出しておいた。
「ギリウス、それは俺の客人だ」
静かな声だったが、周りを黙らせるのには十分な声だった。お待ちください、と口々に言っていたギリウス王子の家臣たちが押し黙る。ギリウス王子は私のことを忌々しそうに見たあと、すぐにバカにしたような笑顔になった。
「もてなしていただけですよ。兄上は相変わらず大袈裟だ」
「お前のもてなしは客人の首を絞めることか」
エルムが私の手を引いて王太子殿下の後ろにつく。王太子殿下がここで喧嘩を始めるつもりならいくらでも回復をかけてあげようと思った。
だからけちょんけちょんにしてやってほしい。エルム様にももちろん回復をいくらでもかける。最後にギリウス王子が死にそうになった時に私も一発叩いてやろう。
「その女が悪いんですよ。傷を治そうとしないから」
「治療費の前払いをしないからです」
「金を取るなんて卑しい女だ」
「血税で暮らしているのに自分の金だとお思いで?めでたい頭ですこと」
「フューイ」
名前を呼ばれて黙る。どうして私だけ諌められるのかと不満に思ったけれど、王太子殿下に見放されたらここで殺されるだろうから黙っておく。
「治療費を払う約束で王宮にはきてもらっている」
「王族の手当ができるのは誉だ。その女はそのことをわかっていない。不敬だ」
「お前の行動で王族は約束も守れないと思われる。言動には気をつけろ」
冷たい声だった。ギリウス王子はその言葉に思い切り王太子殿下を睨みつけた。エルムがいて王太子殿下がいる。さすがに分が悪いと踏んだのか、ギリウス王子が行くぞ、と家臣たちに声をかけた。
「ギリウス、今後東の棟には立ち入るな。王陛下からの勅令だ」
王太子殿下がギリウス王子の背中に声をかける。勅令なら逆らえないだろう。ギリウス王子はそれに反応することもなく家臣たちを引き連れてサロンから出て行った
その背中にざまあみろ、と声を出さずに言っておく。家臣の最後の一人が一応とばかりに礼をしてサロンの扉を閉める。
そしてやっと一息つくことができた。
「フューイ」
名前を呼ばれてぎくりとしてしまう。治さなかったことを怒られるかもしれない。怒られてもいいやとすぐに開き直って王太子殿下を見ると、意外なことに眉が下がっている。
「悪かったな。ギリウスがこんなに早く動くと思わなかった」
謝罪に驚きながらも、とりあえず椅子に座らせてもらった。さっきまで締められていたからか息苦しさが残っている気がする。
「それなら私のせいです」
「ニール?」
「私が息子を助けて欲しいと頼んだからです」
「いや、フューイに頼むと決めたのは俺だ」
「それなら、フューイなら助けられるかもしれませんと進言したのは私です」
ニールとエルムと王太子殿下が自分のせいだと言い張るのを見て、本当は誰のせいなんだろう、と考えた。誰のせいでもないはずだ。全員、そのときに最善のことをしたまで。
「誰のせいでもないですが、私の首を絞めたギリウス王子の治療は、王陛下に頼まれてもしません」
「王陛下が好きなだけ払うと言ったら」
「します」
その言葉に王太子殿下が笑って、ニールも笑ってくれた。お金が絡んでくるなら話は別だ。
「王太子殿下、先ほどはありがとうございました」
そう言って頭を下げると、その頭を王太子殿下が軽く撫でた。第六王子までいると言っていたから弟たちにするようにしたのだろう。
頭をあげると、ニールが私、お茶を持って参ります、と言ってサロンから出て行ってしまう。それに続いてエルムが馬の様子を見に行ってきます、と言って出ていった。サロンには二人きりだ。
「お前の力のことは内密にと言っていたのに、兵士たちの件で明るみに出てしまった。すまない」
「いえ、ニールの息子さんがあの状態なら、使えるものはなんでも使いたいと思うはずです」
「王陛下がお前の能力について、説明を求めている」
その言葉に顔をあげると、王太子殿下はその青の瞳をゆっくりと瞬かせた。討伐に行って急いで帰ってきてくれたのだろう。ところどころ、服が泥で汚れている。その泥は洗えば落ちるだろう。
それでも急いで帰ってきてくれたことには変わりはない。私もゆっくりと目を閉じて息をついた。
「王陛下がですか」
「あってくれるか」
「それ選択肢ないですよね」
「ないな」
そう言って王太子殿下が笑う。悪いとは思ってなさそうな笑顔だった。




