愛する or die
二十五歳で仕事を辞めて何もすることがないので一ヶ月間だけフィリピンに語学留学をしつい先日帰国した。フィリピンに行ったのは雨季で雨が多くそれでいて蒸し暑かったからしんどい。語学の勉強をしに行ったのだけどやったことは家で日本の小説ばかり読んでいただけで結局ほとんど語学は上達しなかった。帰国してからは一層自堕落な生活になってしまい本来なら仕事探しを始めなければならないのだけど二十五歳という中途半端な時に辞めてしまったことも関係し重い腰がなかなか上がらない。けれど不味い。なんとかせねばという気持ちは一応あるにはあるのだけど。
今俺は神奈川県の川崎市の溝口で一人暮らしをしている。大学に進学するのと同時に故郷である新潟県新潟市から上京し川崎市の溝口に住み始めた。溝口は意外と住みやすい。東京にも近いしね。俺の親は未だに現役で働いているから仕事を辞めて語学留学したいと言い出した時もすんなり学費を出してくれたししばらく無職の時間が続いても次の仕事が見つかるまで仕送りをしてくれると言ってくれている。だから当面は働かなくても問題ないし最悪の場合実家に戻ればいいだけの話だ。ダラダラと語ったけど要約すると俺は二十六歳になったばかりのただのニート。それだけの話。
季節は夏。温暖化の影響なのか知らないけどとにかく毎日暑い日が続いていて俺の就職活動する意欲を削り取る。暑さにやられエアコンの効いた部屋で昼過ぎまでぼんやりしているとなんだか腹が減っていることに気づき冷蔵庫を見て何か食べようと思ったけど何もなく仕方なくスーパーまで弁当を買いに行く羽目になる。こんなに暑いのに。暑い中アパートを出て自転車でスーパーに向かう。ギンギラギンの太陽が憎いくらいの灼熱を生み出している。ヘトヘトになりながらスーパーに辿り着き適当に弁当を買って早々に後にする。ただここで少し俺の心に変化が生まれる。こんなに暑いのにどういうわけか寄り道したくなったのだ。寄り道といってもそんなに金はないから遊びには行けない。なにしろニートなのだ。仕送りはもらっているけど。
スーパーの帰り道自転車を走らせて多摩川の河川敷に徐に向かう。俺の住んでいるアパートの近くには多摩川が流れていてそばに河川敷が広がっている。ここは意外と広く野球場やフットサルコートがあったり舗装されたランニングコースがあったりする。だからいろんな人がここで過ごす。流石に今は暑いから人気はまばらだったけど。
河川敷の駐輪スペースに自転車を止めてスーパーで買った弁当を持ってフラフラ歩く。特に行くあてはない。ただ無心になって歩くだけだ。しばらく歩いていると河川敷のそばに広がる雑木林に半袖短パン姿の子供たちが集まっているのが判った。そうか子供たちはもう夏休みなんだな。そんなに風に昔を思い返しながら俺は子供たちのそばに寄ってみる。子供たちは俺が近づいて来たことに気づく。数名の小学生(多分三年生くらい)がひそひそと話している。そして子供たちの足元には小さな段ボール箱が一つ置かれている。
「お兄さん。助けてあげてよ」
小学生の一人が俺に向かってそう言った。
助ける?What?
「何かあったの?」
と俺。
すると小学生は
「子犬が捨てられてるの。すごく弱ってる。助けてあげてよ」
俺は子供たちのそばによりダンボール箱の中を覗き込む。なるほど確かに子犬が捨てられている。俺は犬に詳しくないけど芝犬っぽい子犬がぐったりと毛布が敷かれた段ボールの中で横たわっている。毛色は薄茶と白が混じった感じの色でふわふわとした尻尾がかすかに揺れている。この暑さの中でだいぶ弱っているようだ。弱っている子犬を見つめるとその子犬も俺の方を見てくる。目が合うとその子犬が助けて欲しいと言っているように思えた。
こういう時は警察に連絡した方がいいのかな?俺は一応携帯電話を持っているからここで連絡するのは可能だ。
「判った。今警察に連絡するから」
俺はすぐに警察に連絡する。連絡後すぐに警官がやって来る。ただ警官も困った顔をしている。
「捨て犬ですね。首輪もついていませんし、まだ赤ちゃんみたいだ」
と警察官は言う。それは判っている。
「保護してもらえませんか?」
と俺。
「残念ながら警察では保護できないので、自治体か動物保護センターで保護してもらうしかないですね」
「そうすれば助かりますか?」
「飼い主が見つからない場合、恐らく数週間で殺処分されるかと」
殺処分。つまり殺されてしまう。まだこんなに小さい子犬なのに。
俺と警官のやりとりと聞いていた小学生の一人が不安そうな顔になりながら
「この犬殺されちゃうの?」
と言ってくる。
隠しても仕方ない。正直に言うしかない。
「飼い主が見つからないとダメみたいだね。君たちの中で飼える人いる?」
と俺は問う。
この俺の問いかけに子供たちも困ったようだ。どうやら誰も飼えないみたい。となるとこの子犬は殺されてしまう。こればかりは仕方ない。暗黒に近いどんよりとした空気が広がっていくと後方からその空気を打ち消す声が聞こえた。
「あんた飼いなさい」
それは若い女の声だった。
咄嗟に俺たちは声の方向を向く。
女は俺と同じくらいかあるいはもう少し若いくらいで真夏っぽく白のワンピースにサンダルという軽装をしている。髪の毛は肩まで伸びるセミロングでうっすらと茶色に染められていて繊細な印象がある。そしてキリッとしたネコっぽいツリ目が俺を見つめている。背は多分小さい方かもしれない。恐らく一六〇センチはないだろう。細身の肉体で整った顔はどことなくアイドルチックだ。
「飼う?誰が??」俺は困惑したように言う。すると女は「だからあんたよ」「あんたって俺のこと?」「そう」「無理だよ。俺アパート暮らしだし」「この子犬を助けなければあんたは死ぬわ。駐輪スペースにトラックが突っ込むの。このまま帰ったらあんたは犠牲になる。ねぇあんたニートでしょ?」「は?どうして知ってるの??「そういう力があたしにはあるの。もしもここでこの子犬を助けなければあんたの人生はこれで終わる。いい?これはターニングポイントなの。判るでしょ?生きるか死ぬかの分かれ目よ」「この子犬を助けなければ死んでしまうってこと?」「そう。人生が終わるわ」
一体この女は何者なんだろう?いきなり初対面の相手に死ぬとか言うなんて普通じゃないし子犬を助けなければ死ぬと言うけどそれって本当なのだろうか?冗談にしては笑えないしかといって信じろと言ってもなかなか難しい。というか不可解なのは俺がニートであるということをなぜ知っている?俺がニートであることは俺と両親くらいしか知らない。以前の職場の人間や友達にも言っていないのだから。
「お兄さん助けてあげてよ」
女の声を聞き小学生たちが大合唱のように加勢してくる。参ったな。こんな展開になるとは。素直にスーパーから寄り道せずに帰ればよかったよ。しかしもう賽は投げられた。後には引けない。
「だが断る。…なんてね。あぁ判ったよ。俺がなんとかする」
と俺は岸辺露伴の有名なセリフを言ってみたけど誰も突っ込まない。
結局この犬は俺がなんとかすることになる。女の予言はどこまで本当かどうか判らないけど俺の背景を知っているしどこか真実味があり信じてもいいような気がする。逆に彼女を信じないと本当に死んでしまうような気がするから俺は女の言葉を信じることにした。
俺がそう決意すると弱った子犬の尻尾が大きく動いたような気がする。子犬は確かに生きている。ここで死なせちゃならない。それにもしかしたら助けてもらったことに恩義を感じ俺がピンチの時に助けてくれる存在になるかもしれない。
女の予言は当たっていたのかもしれない。彼女が言ったとおり俺が自転車を止めていた河川敷の駐輪スペースにトラックが突っ込み辺りは騒然になったみたいでもしもあの時子犬を救わずにスタスタ帰っていたらトラックに突っ込まれて本当に死んでいたかもしれない。
ただ捨て犬は保護しますと言ったからといってすぐに飼えるわけじゃない。引き取りの際に必要な費用や手続きが結構あるのだ。まずマイクロチップの登録。それにワクチン代などの医療費。あとは犬を飼うためのゲージやトイレシートなどの備品を買う費用がある。こういった全ての必要経費は五万円くらいになりニートの俺には結構痛い出費だったのだけど子犬は意外と可愛い。すぐに一緒に住んでも悪くないという気持ちになれた。幸いなことに俺のアパートはペットも飼えるようで大家さんからOKが出る。狂犬病の予防注射や畜犬登録を終えようやくこの子犬は俺の愛犬になる。
この子犬はすぐに俺に懐いた。俺が買い物から帰って来ると玄関まで走って迎えてくれるし何よりも散歩を楽しみにしている。ただまだ赤ちゃんなので俺が抱っこして近場を歩くだけだけど。それにまだ暑さが厳しい時期だから俺は夜になってから散歩するようになった。子犬を助けてから俺は新しい人生をスタートさせる。
これまで普通の会社で働いていてきっとこれからもどこかの会社で働くのだろうと思っていたけどそれじゃつまらない。満員電車にも乗りたくないし嫌な上司にヘコヘコするのもゴメンだ。俺はまだ若いし色々挑戦できるだろうから自由に働ける仕事を探そう。そこで自宅でもできる仕事を探し俺はWEBライターをやってみようと考える。たった一ヶ月の語学留学だったのだけどその体験を活かして英会話の教材を紹介するブログを作ったり外部からWEBサイト用の記事の執筆依頼を受けてネット記事の執筆をしたりする。数ヶ月経つと俺の書いた記事も読まれるようになる。そして少ないながらもそれなりに収入を得られるようになりなんとかニートから脱却する。ささやかな幸せを手に入れたような気がする。
そんな風にして俺は新しい人生を歩み始める。そしてある日愛犬であり少し成長し自らの足で散歩できるようになったよち丸と共に夜の河川敷を散歩していると前方に俺が死ぬという予言した女が立っているのが判った。季節は晩秋になり少し肌寒い。彼女は白いワンピースの上にデニムのジャケットを羽織っている。足元はナイキのスニーカーだ。茶色のセミロングの髪の毛が風になびいている。
女はスタスタと俺の方に近寄って来ると「あたしの言葉を信じてくれてありがとう。あんは死という運命を回避したのよ。この犬を救ったことでね」俺は言う。「そうみたいだね。むしろ幸せになったよ」「よかったわね。でも幸せになったのはあんたの力。お告げはあくまでも不幸を回避する力だから。あんたは運命を変えてそして切り拓いたのよ」「そうなのかな。あんまり実感がないけど」「もしもあの時この犬を助けなければ今頃あんたはあの世に逝っていた。犬に感謝しなさい」「それより君は何者なの?」「なんだっていいでしょ」「教えてよ。お礼もしたいし」「あたしはお告げを聞く預言者。それだけ」「もしかして中二病?」するとカッと顔を赤らめた女は「今バカにしたでしょ」「してないよ。ただ思っただけ」「ならいいけど」「預言者ってことはいろんな人を占えるの?」「占いっていうかお告げね。だからお告げが来ればピンチの人が判る。そしてお告げを聞いてピンチとなっている人を救うのがあたしの役目だから」「どうして俺を助けようと思ったの」「あの日散歩をしていたらあんたの姿が見えて急なお告げが来たっていうか未来が見えたの。だから救ったのよ」「そう。ありがとう。ホントに助かったよ。なんというか今でも信じられないけどね。君はあの時俺がニートであることを知っていたよね?それも予言したの」「そう。簡単に言うと私はお告げが来ると対象となる人間の背景が透けて見えるの。だからあんたがニートだって判ったのよ」
俄には信じられない話だ。しかしこの世界で判っている物質は全宇宙のたった5%らしい。あとはダークマターが26%。残りがダークエネルギーと言ってほとんど判らない物質が占めている。だからこの世界にまだ知られていない不思議があったとしてもおかしくない。まぁ確かに不思議なことがあった方がそれを知りたいと思うから人生は面白くなるのかもしれない。人は興味があるから動くのだ。なんでもいい。か細い糸でもいいから興味の対象がある限り人はそれを追いたくなる。
「お礼させてよ」
と俺。
すると女は
「お礼なんていらないけど」
「俺を救ってくれたんだ。それによち丸もね」
「よち丸?」
「この犬の名前。いい名前でしょ。よちよちしていて丸々しているしオスだからよち丸」
「ネーミングセンスはないのね。まぁいいわ。なんのお礼をしてくれるの?」
「ご飯をご馳走するよ」
「まさかあんたの手料理?」
「違うよ。それでもいいけど。レストランを予約するよ」
「まぁいいわ。付き合ってあげる」
「ありがとう。じゃあ、名前聞いてもいいかな?」
「ありす。梶谷ありす。あんたは?」
「俺は久村壮。よろしく」
俺はありすと連絡先を交換し食事の約束をする。ここから俺とありすの不思議で奇妙な関係が始まる。
ありすと再会してから一週間が経ち俺は溝口にあるイタリアンレストランの予約をしてありすとの会食に備える。WEBライターを始めてそれなりの収入を得られるようにはなったけど普通のサラリーマンに比べれば少ない。だから普段は質素に規則正しく暮らしている。朝は早く起きてよち丸と散歩をして昼はブログを書いて夕方になったらスーパーに買い物に行き夜になったら再度よち丸と散歩をする生活だ。外食はほとんどしないしスーパーで安い食材を買って来てそれで作るのが普通だ。最近はずっと炒め物を作っている。手軽だし自分好みの味付けにできるから俺はよく炒め物を作る。炒め物は料理の基本だしね。だから久しぶりの外食に俺の心は浮き立っていた。家を出る時よち丸が少し寂しそうな顔をしたけどすぐに帰って来ると言って俺は待ち合わせ場所に向かって歩き出す。
待ち合わせ時間は午後六時。レストランの予約は六時半。溝の口駅の改札前の広場で待ち合わせをしたから多分待っていればありすもやって来るだろう。今日は平日だから溝の口駅前はサラリーマンやOLの姿が多かった。あとは近くに高校や大学もあるから学生の姿もかなりある。俺は今WEBライターでネット上の記事を書いて生計を立てているから在宅勤務の文筆業だ。満員電車に乗る必要もないし起きたい時に起きて食べたい時に食べる。俺と全く違う生活を送る人たちをただ無心になって見つめているとバスターミナルの方からありすが歩いて来るのが見えた。前会ったと同じデニムのジャケットに白のワンピース。そしてナイキのスニーカー。あとは小さなショルダーバッグを持っている。艶やかな茶色の髪の毛が風に乗ってヒラヒラ舞う。
一応レストランを予約したから俺もそれなりの格好をしてきた。黒のジャケットにグレーのスラックス。足元はレッドウイングのアイリッシュセッターだ。
「待った?」
ありすは俺のそばにやって来るとそう言った。化粧気はあまりない。しかし整った顔立ちをしているから素のままでも十分可愛らしい。
「いや、そんなに待ってない。行こうか」
俺はそう言いありすと共に歩き出す。
俺が予約したイタリアンレストランは溝の口駅から徒歩で五分ほどのところにある。つまり立地条件はかなりいい。ネットで評判を見ると上々だったし土日は混雑するようだったからこうして平日を選んでみた。ラインの連絡先を交換していたし土日がいいかと聞いたら平日でもいいと言っていたのだけど一体何をしているのかは不明だ。
イタリアンレストランに到着しウエイターに予約した名前を告げるとすぐに席に案内される。平日だがそれなりに繁盛しているようで店内は人で溢れている。それに気の利いたヴァイオリンジャズが流れている。ステファングラッペリだろうか?それともスタッフスミスか?よく判らない。ありすの年齢は聞いていないけど十代ではないだろう。可愛い顔立ちをしているものの大人な雰囲気がある。
「お酒は飲める?」
と俺が聞くとありすは
「飲めない」
「そう、なら俺も飲まなくていいや」
「気にしなくてもいいけど」
「いや、俺もそんなに好きじゃないし」
コース料理を予約していたしワインとかも頼む予定だったけどお酒を飲まないみたいだったから俺たちはソフトドリンクを頼んだ。イタリア料理というと通常は食前酒が出るみたいだったけど俺たちはそれを断った。いいのか判らないけど。
しばらく待っていると前菜料理が運ばれて来る。肉や野菜の酢漬けが出る。本格的なメイン料理を食べる前に食欲を増進させるようなメニューだ。こんなもの食べたことがない。
「ねぇ、女性にこんなこと聞くのは失礼かもしれないけど教えてほしい。ありすって何歳なの?」
と俺。
するとありすはアーティチョークの酢漬けを口に運びそれをゆっくりと咀嚼し飲み込んだ後
「あたしは今年二十五歳。あんたは?」
「俺は今年二十六かな。じゃあ歳は近いんだね」
「そうみたいね」
「ありすは普段何をしてるの?今日は平日だからもしかすると働いてるかもと思ったんだけど」
「あたし働いてないし。前も少し言ったけどお告げが来たら人を救うのが日課」
「お告げって俺の未来を予言した力のことだよね?」
「そう、声が聞こえるの。医者は幻聴って言うけどね」
「幻聴って、大丈夫なの?」
「うん大丈夫。今は薬も飲んでるし。症状は安定してる」
「薬って、病気なの?」
「えぇ、統合失調症って知ってる?」
「いや、よく知らない。名前は聞いたことあるけど」
「幻覚とか妄想が生じる精神の病気よ」
精神病患者か。悪いこと聞いたかな?
「ごめん」と俺は言う。「変なこと聞いて」
「ううん、別に。あたし病気を隠してないし。むしろオープンにしてるの。お父さんは隠したいみたいだけど」
「そう、ならいいけど」
なんだか雰囲気が悪くなってしまったような気がする。今はストレス社会だからうつ病とか罹る人が多いみたいだけど実際に精神病の人間に会ったのは初めてだ。だからと言って俺はありすを軽蔑したりしない。彼女は俺の死ぬという運命を打ち破ってくれたのだから。もちろん単なる偶然という可能性も捨てきれないけど。それでも俺がニートであるとバッチリ当てたしある程度は信頼できると思う。占い師なんかがよく使うコールドリーディングとは違う気がする。何しろ俺とありすが初めて出会った時俺たちは事前に会話したわけじゃない。だからコールドリーディングをしている暇などなかったはずだ。
「統合失調症の患者はみんな全てこんな力があるわけじゃないの。むしろね、よく判らないっていうか私もどうしてこの力が使えるのか判らない。ただ気づいたら使えるようになっていたって感じなの。お告げと呼ばれる声が聞こえると本当に困っている人がいるの。そしてその人の背景と未来が見えるっていうかそんな感じ。もちろんほとんどの人は信じない。あたしのことをバカにしてあたしの言うことを聞かないのよ。まぁそれは仕方ないんだけどそうやってあたしの預言を信じなかった人はみんな不幸になってる。あんたは信じてくれたけどこれは珍しいケースなのよ」
「俺は信じるよ。この世界にはまだまだ隠された秘密がある。それに不思議を信じたほうが面白いじゃないか」
「変わってるわね。あんた」
食事は進みメイン料理であるカチャトーラだ。俺はあまり詳しくないけどウサギ肉を使った肉料理。香味野菜にトマトソース、赤ワインやエキストラヴァージンオイルなどが煮込まれている。これもまた初めて食べる料理だ。ウサギの肉はほろほろとして筋肉質ではあるが妙な固さはなく柔らかい。
「ねぇありす。これからの俺の未来も見えるの?」
と俺は聞いてみる。これは興味からだ。
「前も言ったけどお告げは不幸を回避する力だからそれ以外は判らないかな。でもどうして?」
「いやこの先の未来がどうなるのか気になって。今はある程度仕事も軌道に乗ってきたけど、それがずっと続くわけじゃないでしょ」
「大丈夫よ、あんたは上手くいく。よち丸君だっけ?あの犬を救ったことであんたはあの日すぐに河川敷の駐輪スペースに戻らなかった。すぐに戻っていたらトラックに轢かれて死んでいたけどよち丸君を助けた分時間差が生まれてあんたは助かったの。それにね、こんなこと予言したあたしが言っても仕方ないんだけどやっぱり自分の人生は自分で切り拓かないと」
「自分のことでお告げは来ないの?」
「うん、それはないみたい。自分のことでお告げが来たことがないから」
ありすとの食事の時間は楽しくあっという間で久しぶりに人と話した気になる。俺は自由業だしブログを書いているだけだから人との繋がりは弱い。でも人は一人では生きていけないしどこかで必ず人と繋がっている。それがたとえどんなにか細い繋がりだとしても俺はそれを大切にしたい。それにありすは言っていた。自分の人生は自分で切り拓くものだと。確かにその通りだと思うし全て判ってしまったらそれこそ興醒めだ。人は結果が判らないから自分を信じて突き進むのだろうしもしも未来が全て予言されてアカシックレコードの中を覗くように生まれてから死ぬ前の運命が全て判ってしまったらきっと生きる目的を失ってしまうだろう。結果と可能性というのは判らないから尊い。
レストランでの食事を終えると時刻は夜九時に迫っていた。俺たちは二人で溝の口駅までの道を歩く。ありすは女の子だし家のそばまで行くのは難しくても近くまで送って行ったほうがいいかもしれない。俺が送って行くと言い出そうとすると途端ありすの顔が変わった。
「聞こえた」とありす。俺は彼女の真剣な表情を見つめながら「え?」「お告げが来た。信号の向こうにいるグレーのスーツを着たサラリーマンがいるでしょ?」「うん。いるけど」「あの人このままじゃ死ぬわ」「は?」「放っておいたら死ぬの。助けなくちゃ」ありすはそう言うとグレーのスーツを着たサラリーマンの元へ走り出し俺もそれを追って行く。ありすはサラリーマンに会うなり「引き返して。ここから先に進んではダメ。先に進めば死んじゃうから」いきなりありすが叫んだものだからサラリーマンは困惑している。「君は何を言ってるんだ?」「だから先に進まないで。死んじゃうのよ。お願いだからあたしの言うことを聞いて」「俺急いでるから変なこと言わないでくれ」サラリーマンはありすの助言を聞かずスタスタと横断歩道を歩いて行く。すると次の瞬間交差点を勢いよく曲がって来たトラックにはねられてしまった。全ては一瞬の出来事で辺りは騒然となる。平和な溝口の大山街道沿いの交差点でこんな風な陰惨な事故が起きてしまったのだから。俺は轢かれたサラリーマンの元へ急いだ。ぐったりと倒れ動き出す気配がない。頭を強く打ったのか後頭部から夥しい量の血が流れている。「救急車呼ばないと」と俺は言う。するとありすは力なく項垂れながら「無駄よ。もう遅い。また救えなかった」よく見るとありすは泣いていた。それは自分の力で人が救えなかった後悔か?それとも見知らぬ人間か轢かれて死んだ悲しみか?多分前者だろう。俺は救急車を呼び茫然自失しているありすを見つめた。
俺とありすは倒れたサラリーマンと共に一緒に救急車に乗り病院に向かう。本来は他人同士なので付き添う必要はないのだけどありすの力を確認するためにも俺たちは一緒に救急車に乗る。ありすが聞いたお告げ通りこのサラリーマンは即死だったみたいで病院で死亡が確認された。その後俺とありすは病院にやって来た警察官に事情聴取されることになり事故当時の状況を話す。話といっても俺たちは殺人犯というわけではないから事故が起きた時の状況を聞かれそれに対して答えてその後事故現場に戻り実況見分に参加しただけだ。これを全て当日中に行ったから解放された時は日付が変わろうとしていた。
解放された俺とありすは深夜の溝口をひたすら歩く。よち丸には夜ご飯をあげて来たけど寂しく待っているだろうからそろそろ帰らないとならない。だけどありすが青ざめた顔をしているからしばらく一緒にいてやりたかった。
溝の口駅の改札前の広場の長椅子に座っているとありすが徐に口を開く。「やっぱり救えないのね。前も同じようなことがあったの」俺は答える。「そう」「救えないならこんな力あっても意味ないのに」「でも君は俺を死という運命から救ってくれたよ」「あんは信じてくれたけど普通は信じない。そうよね。だって見知らぬ人間がいきなりあんた死にますよって言ったらいい気持しないだろうし何よりも得体が知れないから信じる気になれないだろうし」「あまり自分を責めちゃダメだよ。君のせいじゃない。仕方なかったんだ」「仕方なくないよ。救える命があったのに私はそれを救えなかった。もっと強引に止めるべきだったのかもしれない。はぁ情けない」ありすはため息をつきながら青白い顔をして項垂れる。「そろそろ帰ろう。もう遅いし家のそばまで送って行くよ」「大丈夫、タクシーで帰るから。今日はご馳走様ありがとう」ありすはそう言うと南口のタクシー乗り場の方へ歩いて行く。後ろ姿はどことなく亡霊のようで疲れ切っているように見えた。
家に帰るとよち丸が喜びを爆発させて俺を出迎える。暴れ馬のように尻尾を全開に振り俺に飛びついて来る。俺はよち丸を抱き抱えると頭をゆっくりと撫でて落ち着かせる。一緒にソファに座り今日の出来事を反芻する。
異能の力。それは確かに存在するみたいだ。俺はスラックスのポケットからスマホを取り出して「統合失調症」とググってみる。すると瞬時に色々な情報が溢れ出す。ありすも言っていたけど統合失調症は精神の病気で幻聴を聞いたり変な妄想をしたりするみたいだ。意外と患者数は多く日本全体で八〇万人以上いるらしい。あるサイトでは百人に一人罹患する決して珍しい病気ではないと書かれていたけど予知能力の話は全く書かれていない。統合失調症はかなり古くからある精神疾患でその昔は不治の病として恐れられていたみたいけど今は薬が進化した関係でほとんどの人間が寛解状態にまで回復する。またまだ薬がなかった中世の時代では統合失調症の患者は不思議な声を聞く人間として重宝されていたようだ。ありすと同じ預言者みたいな感じの扱いを受けていたのだろう。だけど今は現代だ。霊的な力はほとんど信じられていない。俺は信じてるけどね。
ありすは言っていた。「また救えなかった」と。以前にも同じ経験をしたのだろう。救える命があるのにそれを救えない。判っているのに止められない。なんというか悲しい。でもそれは仕方ない。ありすも言っていたけど見知らぬ人間がいきなり「あなたこっちに来ると死にます」と言っても普通は信じないだろう。人は根拠がないとなかなか信じない。逆に言えば信じさせる何かがあればいいのだ。ありすは俺の背景を知っていた。お告げにはその人間の背景を捉える力もあるみたいだからそれを使えばいい。まずは人を信じさせるためにその証拠を見せる。そうすればきっと今よりも信じる人間は増えるだろう。
とはいえ難しい問題だと思う。異能の力は信じられていないしいくら証拠に近いものを見せても信じてもらえるかは未知数だ。ありすは今回の件でショックを受けているだろうか?青白い顔をしていたしきっと塞ぎ込んでしまっているかもしれない。明日また連絡してみよう。俺はありすの力になりたい。何しろ時間だけは有り余るほどあるのだから。
翌日。昨日の夜は遅かったから起きるのが昼過ぎになってしまったけど俺は在宅勤務の文筆業だから特に問題はない。この辺は在宅勤務の特権と言えるだろう。俺がベッドからムクッと起き出すとお腹を空かせたよち丸が俺のそばに寄って来る。朝ご飯あげなくちゃね。キッチンへ行きペットフードをよち丸のお椀に乗せるとその音だけでよち丸の尻尾フリフリは全開だ。「待て」「よし」その言葉を聞くとよち丸は減量明けのボディビルダーのように一気にご飯を食べ始める。よほどお腹が空いていたのだろう。ごめんよ。
よち丸があっという間にご飯を食べ終わり俺はそのお椀をシンクで洗う。そのついでにお湯を沸かしてコーヒーを淹れる。普段はあまりコーヒーを飲まないけどこんな気分の日はカフェインが必要だ。やる気を出さなくてはならない。コーヒーを一口飲み俺はラインでありすにメッセージを送る。
『今日会える?』
すぐに既読が付く。
そして返信が来る。
『いいけど、どこで?』
『溝の口駅近辺の適当なカフェで』
『判った。時間は任せる。あたし暇人だから』
すぐに約束できた。今午後一時だから二時に溝の口駅の改札前で待ち合わせする。昨日会って今日も会う、なんだか恋人ができたみたいだ。まぁそんな関係ではないのだけど。
待ち合わせの十分前に改札前に到着し俺はありすを待つ。冬も近づき日中でも寒くなってきた。俺は厚手の黒色のパーカに色落ち加工がされたデニムを合わせる。周りにはコートを着ている人もいる。夏はあんなに暑いのにこうして毎年冬もやって来る。夏と冬を足して二で割れば年間通してちょうどいい気候になるかもしれない。まぁそんなことを考えても意味はないのだけど。
しばらく待っているとありすがやって来る。彼女はコートを着ている。ブラウンのトレンチコートにブラックのスキニーパンツだ。足元は今日はスニーカーではなくヒールを合わせナチュラルメイクをしている。茶色の髪の毛が晩秋の風をまといしなやかに揺れている。
「待った?」
とありす。
俺は「いや、そんなに待ってない」と答える。
昨日も同じような会話をしたような気がするな。俺たちは溝の口駅のそばにあるマルイの中のカフェに行きそこで話し合うことに。俺は少しでも彼女の力になりたい。何しろ彼女は俺の死という暗黒の運命を変えてくれたのだからその恩返しがしたい。
「それで話って何?」
「いや、昨日のことでショックを受けていると思って」
「まぁ確かにショックだけど仕方ないよ。あたしの言うことなんて信じる方が少ないんだから。あたしは確かに力があるかもしれないけど中身はただの精神障害者だから」
「お告げは突然来るの?」
「うん、突然。ワッと聞こえるの。今は聞こえないけど」
「いつお告げが来るのか判らないとそれはそれで困るね」
「そうかな?またかって思うだけだけど。どうせ救えないって嫌な気持ちになることも多いし」
「お告げは対象者が離れていても判るの?そばにいない人のことでお告げが来るかって意味」
「それはあるよ。但し一度会ったことのある人限定だけど。過去に遠く離れた知っている人に関してのお告げがあったの」
「そう、じゃあお告げはどのくらいの頻度で来るの?」
「う〜ん、どうだろう。それこそ色々だよ。二日連続ってこともあるし数ヶ月何もない時もある。でも最近は一ヶ月に二、三回くらいはあるかな。今はそれで落ち着いている感じ」
「お告げは生死に関わるものが多いの?」
「そういう訳じゃないかな。転んで怪我をするとかそのくらいの軽さの時もあるけど」
「俺の時は死ぬっているお告げだったんだよね?」
「うん、よち丸君を助けなければ壮はあの後トラックに轢かれて死んでいたはずよ」
それはゾッとする話だし、事実トラックは俺が自転車を止めた多摩川河川敷の駐輪スペースに突っ込んだのだ。
「ねぇ」俺は言う。「お告げが来てから実際にそのお告げ通りになるまでの時間はどのくらいなの?ええとお告げが来て一時間以内に事が起こるとかそう言う意味」
「それはよく判らない。ただお告げが来るとその対象者がピンチってこととどうやったらそこから抜け出せるかが判るの。どのくらいの時間で実際に事が起こるかはあたしには判らないかな」
「そう、今度お告げが来たら教えてくれないかな?俺はありすの力になりたい」
「あたしの力に?壮も暇人ね。なんのメリットもないのに。たとえお告げの力を使って人を救っても誰も褒めてくれないのよ。偶然だって片付けられる」
「それは違うよ。少なくとも俺は感謝しているしありすの力を信じているから」
「ありがと。そんな風に言ってもらったのは初めてかな」
ありすはニコッと微笑んだ。その笑みは晩年のオードリーヘプバーンのように少し哀愁じみたところがあったけど可愛らしい。
彼女は頼んだ抹茶オレを飲み干すとふんと嘆息し途端目を閉じた。
「来た」とありす。それを受け俺は「来たってお告げが?」「うん」「誰?このカフェの人間?」「ううん、壮なの」「俺?もしかして死ぬの?」「うん。お告げはそう言っているわ」「具体的には?」「上を見て。大きなシャンデリアがあるでしょ?あれが壮の頭に直撃して頭蓋骨を骨折した結果死ぬの」「本当に?だとしたら不味い。どうしたらいい?」俺はそう言う。するとありすはすっくと立ち上がり俺の手を引いて今いた場所を離れる。数秒の間があった後つい先ほどまでいた俺の席に天井から落下した大きなシャンデリアが直撃した。このカフェの天井は高さがあり落下した大きなシャンデリアは凶悪な凶器となり席の上で粉々に砕ける。もしありすが俺を移動させなかったら俺は落下したシャンデリアの餌食になり本当に死んでいたかもしれない。「何とか回避したわね」とありす。それを受け俺は「そうみたいだね」「よかったわ。あたしのこと信じてくれてありがとう」「半信半疑だったわけじゃないけどこれではっきりしたよ。君の力は本物だよ。ねぇ何度も同じ人に対するお告げが来ることってあるの?」「あるよ。うんとねこれはちょっと前の話なんだけどあたしの言うことを聞いて不幸なルートから脱却した人がいたの。後日その人のことでまたお告げが来てもう一回アドバイスしたの。でもその時は言うことを聞いてくれなくてその人は不幸になった。今はどうなっているか判らないけど」「不幸になったか…。何か引っかかるんだよな」「引っかかるって何が?」ありすはそう言うとため息をついた。白い肌が釣り上げられたばかりのイカのように見える。
俺が考えを巡らしているとカフェの店員が慌ててやって来て何度も謝ってくれる。そして粉々になったシャンデリアの破片を綺麗に片付ける。そのあとカフェは臨時閉店となり今度使えるクーポン券を渡された俺たちはそのカフェを後にして溝の口駅の近くの広場へ向かう。
さて俺が気になっている問題はただ一つ。それはお告げを聞いて対象となる人間の未来を変えてもいいのかという問題だ。よくSF小説なんかで「親殺しのパラドックス」という問題が登場する。これは簡単に説明するとタイムトラベルができるようになって過去に戻ったとしてその戻った過去で自分の親を殺してしまうと自分が生まれなくなってしまうのでタイムトラベルをすることができない。しかし、自分が存在しなければ両親は殺されず自分が生まれてタイムトラベルをして両親殺しをすることになり論理的に矛盾してしまうという問題のことだ。まぁ実際にタイムトラベルできないから確かめようがないのだけどタイムトラベルというのは初めから大きな矛盾があるのだ。さてここで話を元に戻そう。俺はありすの予言で未来を変えた。本当は死んでしまうという暗黒のルートからそれを回避するルートに進んだのだ。だけど本当の俺は死んでしまうはずだったからどこかで未来に対する歪みが生じるのではないか?俺はそんな風に考えている。
さっきありすは予言により未来を変え一時的に不幸を回避した人間が次の予言は信じず結局不幸になったという話をした。これは不幸になる未来を変え一時的に不幸なルートから脱したのだけど本来は不幸になるはずだったからその帳尻を合わせようとして再び不幸なルートが生まれたということにはならないか?この仮説が正しければどう足掻いても結局は不幸になる。ただ今はありすがいるからお告げを聞いてそれを回避できる。けれどありすがいなければどう動いていいのか判らず不幸の道を一直線に進んで行く。つまり未来はあらかじめ決まっていてそこから抜け出すことはできないという意味だ。
ありすのお告げでは俺が死ぬという話だった。となるとこの先いくらピンチを回避したとしても俺は必ず二十六歳で死ぬ運命なのかもしれない。いや待て。そもそも運命なんてあるのだろうか?仮にあったとしても運命は自分で切り拓くものだろ。仮に運命が決まっているのだとしたらそれはそれでつまらない。人は未来が判らないから生きていける。わずかな可能性を信じてやっていけるのだ。それがもう既に決まったレールの上を歩いているだけなのだとすると意志が挫けてしまう。
「もしかすると俺は二十六歳で死ぬ運命なのかもしれない」
俺は力なく言う。そして今考えた仮説をありすに説明する。ありすは黙って聞いていたけど時折ハッとしたような顔をしている。どこか心当たりがあるようだ。
「壮は死んでしまうの?」
「判らない。今言ったのはあくまで俺の考えた仮説だよ。だけど合っているような気もする」
「どうしたらいいの?」
「仮に二十六歳で死ぬという運命が決まっているとするとどう足掻いたとしても結局俺は死んでしまうのかもしれない。けど回避できる何かがあるのかもしれない。もちろん、それが何なのかは判らないのだけど」
「何かってなんだろう?」
「人が生きていくために必要な何かかもしれない。人にパワーを与える何かかもしれない。それが運命に打ち勝つ強いエネルギーを生み出すのかもしれない」
「ねぇ、あたしに宿っている力ってなんなの?運命に逆らうために与えられた力じゃないの?結局運命には逆らえないの?」
「まだ仮説の段階だよ。だけど今度また俺に関するお告げが来たら教えてくれないかな。もしもまた俺にお告げがあるのだとすると俺の考えが正しい可能性が高いから」
「うん、判った」
このあとしばらくはお告げはなかった。とりあえず一安心だけどまだ油断はできない。お告げがいつ来るのかはありすにも判らないみたいだ。最初にお告げがあってから数ヶ月はお告げがなかったけど最近になって頻繁にお告げがある。お告げは完全なランダムで発生するみたいだけどやはり俺は二十六歳で死ぬ運命なのか?結局何もないままあっさり死んでしまうのか?本当に死ぬかもしれない。それは嫌だな。まだ二十六歳なのに。だけどまだ俺の運命が決まったわけじゃない。何があったとしてもやはり運命は変えられるはずだ。そう信じたいし事実俺はありすのお告げの力で何度か運命を変えた。それは事実だから運命を変える手段はどこかに隠されているはずだ。それさえ判れば俺はきっと救われる。しかしそれが一体なんなのか皆目見当もつかない。
今まで特に何かあった人生ではなかった。中高とサッカーをしてきたけど決して優秀な選手じゃなかったし強豪校にいたわけじゃないから大会でいい成績を残したわけじゃない。大学は一応出たけど誰でも入れるような大学だし一生懸命勉強したわけじゃない。社会人になってからも普通の会社に行ってある日突然辞めてフィリピンに語学留学して帰って来てニートになってそれからWEBライターを始めて。浮き沈みは多少あるけどどこまでも平坦だ。大きな悲しみや絶望がない代わりに心を揺さぶるような強烈な喜びを体験したわけじゃない。WEBライターは普通の職業ではないかもしれないけど収入は多くないし至って平凡な人生を送っている。まだまだこれからなのに。
人の運命は決まっているのだろうか?人は皆あらかじめ決まったレールの上を歩いているだけなのだろうか?成功する人間は努力とか運とかそんなこと関係なく運命で決まっていたから成功したのだろうか?そして堕落し不幸の淵を彷徨っている人間も自分が悪いのではなく初めからそんな風に決まっていたとすると。いやそれはない。運命というのは切り拓ける。成功するためにはやはり努力が必要だし努力なしに成功する人間はいないだろう。人知れず流した汗や涙の結晶が成功という形で身を結ぶのだ。俺はWEBライターをしているけど人が読みやすいように色々調べて判りやすい文章を書いてそうやって必死になって努力したのだ。そのおかげで俺の記事は多くの人に読んでもらえるようになりその結果少ないながらも生活できるだけの収入につながったのだ。もちろん全ての人間が成功するわけじゃない。志半ばで敗れる人間だって多いだろう。けど夢を追った時間というのはかけがえのない貴重な体験だしたとえ運命を切り拓こうとして途中でダメになってしまっても切り拓くために使った力はきっとどこかで自分の役に立つ。夢は裏切ることがあっても努力は必ず糧となる。
その日の夜ありすからラインでメッセージが来た。
『今日家を出ないで』
『お告げが来たの?』
『うん。出たら事故に遭う。頭を強く打って即死してしまうから絶対に出ちゃダメ』
『判った。気をつける』
その日、俺は家の外に出なかった。ありすが以前言っていたけど一度顔見知りになると遠く離れていてもお告げでピンチを感知できるみたいだ。俺に対するお告げが立て続けにある。これはやはり俺にあるはずだった二十六歳で死ぬという運命が津波のように襲って来ている証拠なのかもしれない。このままだと俺はいずれ死んでしまう。何か手を考えないとダメだ。とは言っても何か手があるわけではない。何しろ相手は超能力に近い。生身の俺がなんとかなるレベルではないのかもしれない。運命に逆らうためには何が必要か?そもそも運命に逆らえるのだろうか?何もかもよく判らない。
翌日。俺はありすに連絡を取って再び溝の口駅の広場で会い今後の方針を考え始める。俺の考えた仮説が当たりつつあるからだ。何か手を打たないと俺は死ぬかもしれない。これまでの俺に関するお告げは全てを俺が死ぬという内容だった。つまり俺は本当に二十六歳で死ぬ運命なのかもしれない。
「今日はお告げは来てないけど、前回前々回と立て続けにあったのは事実。壮の言っていることは正しいのかもしれない」
とありすは言った。
それを受け俺は答える。
「うん、どの道俺は二十六歳で死ぬ運命なのかもしれないね。今はありすがいるからいいけど君に届くお告げがずっと聞こえる保証はない。そうなった時俺は死んでしまう」
「今はあたしの言うことを聞いて。そうすれば最悪の事態は避けられるから」
「そうだね。今のところそれしか対策がない。でもお告げが聞こえなくなるケースはあるのかな?」
「それは判んない。突然聞こえるのがお告げだから。でも突然聞こえるってことは突然聞こえなくなる可能性もないわけじゃないと思うけど」
「そうなったらおしまいだね。でも仕方ない」
「仕方ないって諦めるの?」
「そういうわけじゃないけど。それとお告げの対象者って全くのランダムなのかな?」
「どういう意味?」
「う〜ん、お告げの力が通じない人がいるのかってことだよ。なんて言えばいいのかな。たとえばその人はピンチなんだけどありすには感知できないっていうかそういう意味」
「判んない。でもピンチだけどお告げが聞こえないケースはあるのかもしれない。あんまり考えたことなかったけど」
「君のお告げの力はまだ何か秘密があるのかもしれない。ピンチだけどお告げが聞こえない人間がいるかもしれないし、運命に逆らうために必要な力が隠されているのかもしれないし」
「運命か…ねぇ壮、運命って信じる?」
「運命はあるかもしれないけど自分で変えられる類のものだと思う。そうじゃなきゃつまらないし」
「あたしって不幸になる運命なのかな?」
「なんでそんなこと言うの?」
「いやなんとなく」
ありすの顔が途端寂しそうな感じになる。この子はこの子で何か重大な問題があるのかもしれない。
「何かあるの?」
「ほら、あたしって精神障害者でしょ。それにあたしの家はお母さんが早くに亡くなってお父さんが育ててくれたんだけどあたしが病気になってからお父さんが足を切断する事故に遭ったの。それで車椅子になってそのまま働けなくなってしまったのよ。リハビリすれば車椅子なしでも大丈夫になるみたいなんだけどお父さんやる気なくしてしまって車椅子のままなの。あたしも病気の関係でなかなか働けないしね。それで今も十分不幸だけどこれからもっと不幸になるのかなって思って」
「統合失調症だっけ?調べたけど百人に一人罹る病気なんでしょ?ならありふれているじゃないか。その病気を患ったって普通に生きている人間はたくさんいるよ」
「でもあたしはダメかも」
「大丈夫だよ」
とは言ったものの全く根拠はない。人はいつどうなるか判らない。朝元気よく家を出た人間が夕方事故に遭って亡くなるケースだってあるのだから。
運命の帳尻合わせ。俺は今回の件を勝手にそう名づけた。運命はどうしても俺を殺したらしい。けど俺も抗えるうちは抗ってみせる。よち丸だっているのだからここで死ぬわけにはいかない。それにまだ結婚だってしていないし両親よりも早く死ぬなんてそんな親不孝はできない。
「病気になってお父さんが事故に遭ってから不幸になったんだよね?」
と俺。
するとありすはつぶらな瞳をパチパチとさせ
「うん、そうだけど」
「お父さんに関するお告げは聞かなかったの?」
「聞かなかったかな。言われてみれば不可解ね。あたしのお父さんは事故に遭い足を失うという不幸になったのにあたしはそれを感知できなかった。お告げの力が通じない人間もいるのかもしれないわ。壮の言う通り」
ありすに宿った不思議なお告げの力。しかしこの異能の力にはまだ何か秘密があるみたいだ。それを解明できれば俺の二十六歳で死ぬという運命からも抜け出せるかもしれない。
ありすと出会い俺はピンチはあったものの死という運命を変え続けた。けれど突然俺の人生は傾き始める。ここ数日ありすのお告げで死ぬという最悪の事態を避けていたのだけどありすが調子を崩し少しの間入院することになってしまったのだ。統合失調症という病はゆっくりと回復していく。風邪のように薬を飲んだから二、三日で治るような病気ではない。ありすが統合失調症を発症したのはいつなのか詳しくは知らないけどよくなったり悪くなったりを繰り返しながら螺旋階段を登るようにゆっくりと回復していくのだろう。
ありすが入院する前日ラインでメッセージが来た。ここしばらくお告げが来ていないのだけどありすが入院するのは精神科の閉鎖病棟で入院中は電子機器の持ち込みができないらしいのだ。つまりありすがお告げを感じ取ってもそれを俺に伝える手段がないかもしれない。入院期間はどのくらいになるか判らないけど精神科の入院は大体三ヶ月が一つの区切りと言われているようで仮に三ヶ月入院するのだとするとその間彼女と連絡が取れない可能性が高い。お告げが来る可能性が高いのに。またさらに不幸なのは精神科の閉鎖病棟へ入院するとなると面会が家族しかできないらしいのだ。つまり会いにも行けない。ますます事態は悪くなる。
ラインのメッセージを受け取ったのは午後二時。ならばこれから会いにも行けるだろう。俺は最後に会いたいとメッセージを送り返答を待つ。ありすからの返事はなかなか来ない。夕方五時を少し過ぎたくらいにようやく既読が付きメッセージが返って来る。
『今からあたしの家に来れる?住所教えるから』
『判った。すぐに行くよ』
ありすは家に来て欲しいらしい。女の子の家に行くのは大学の時付き合った彼女以来だけどなんというか華々しいような気持ちはしなかった。メッセージの文面にはどこか切羽詰まったようなところがあり苦しみの様子が垣間見える気がしたのだ。俺はジャケットを羽織りありすが教えてくれた彼女の家まで向かう。
ありすの家は溝の口駅からバスで十分ほどのところにある住宅街の中にあった。一軒家ではなくかなり古びた市営住宅だ。五階建ての市営住宅の三階にありすの家はある。ここでありすは父親と二人で暮らしているみたいだ。インターフォンを鳴らすとすぐにありすが出て来て俺を迎え入れてくれる。ただ化粧はしておらず髪の毛はざっくりとポニーテールにしてまとめている。おまけに部屋着姿で調子が悪いらしくぐったりとしている。
「ごめんね、急に呼び出して」
「大丈夫、それよりありすは大丈夫なの?」
「あんまりよくないかも。薬は一応飲んでいるんだけど症状が再発したみたいで」
「そう、それでどうしたの?」
「うん、色々あるんだけど、まずは入院中にお告げが来た時の伝え方とかその辺の話をしようと思って。あのね、病院には公衆電話があってそれを使えば一応連絡は取れると思う」
「そう、それなら最悪の事態は避けられるかもしれないね」
「壮の携帯の番号は聞いているから、もし仮にお告げが来たらたとえ深夜であっても絶対に連絡するからね」
「ありがとう。俺は大丈夫だよ。それより自分のことを考えなよ」
「でも壮に悪いことが起きたら」
「その時はその時さ。なんとかなるよ。だから気にしないで」
とは言ったものの俺は死刑囚のような気分だった。もしかすると本当に死ぬかもしれないのだからあまり元気ではいられない。けどここはありすの体調の方が大切だ。
「あとね、実はお願いがあるの」
「お願い?」
「うん、お父さんのこと」
「何かあったの?」
「何かあったわけじゃないんだけど事故で足を怪我して車椅子になってからお酒に溺れるようになって家でよくお酒を飲んで飲みつぶれることがあるの。それに車椅子だから自分で買い物に行ったりするのも難しそうだし。あたしがいる時はなんとかなったんだけど入院中はそうはいかない。だからここに様子を見に来て欲しいの。一応担当のケースワーカーがいて、ホームヘルプのサービスとかも頼んだけど四六時中その人が面倒見れるわけじゃないし。何かあった時のために担当のケースワーカーの連絡先を教えておくし、お金は少し置いていくからそれで食料とかも買って欲しいの。やっぱり一応あたしの唯一の肉親だし大切な人だから放って置けないの」
「判った。それは任せて。それで今お父さんは?」
「まだ寝てる。昼夜逆転してるから多分起きるのは夜中だと思う。ごめんね。こんなこと頼めるの壮しかいなくて。あたし病気が長く続いているから学校とかあんまり行ったことなくて友達とか小さい頃はいたんだけど今はいないんだ。一応親戚はいるんだけど遠く離れているからお父さんのことも頼めないし」
「大丈夫、君が入院している間お父さんの様子を見に来るよ。ただお父さんと会って話がしたい。いきなり様子を見に来たら驚くと思うし。今起こせるかな?」
「やってみる。ちょっと待ってて」
しばらく待っていると中から眠そうな初老の男性が車椅子に乗って現れた。ボサボサの寝癖の頭はところどころ白髪が混じり痩せ型で見るからに不健康そうな顔をしている。着古し毛玉が出来たグレーのスウェット上下を着て無精髭を蓄えている。
「お父さん、こちら久村さん。あたしの友達」
とありすが言う。
するとありすの父親は
「ありすが友達を連れて来るなんて小学生の時以来じゃないかな。いやどうも初めまして」
酒浸りということで荒々しい性格を予想していたけどそうではないようだ。どこかこう穏やかな雰囲気がある。俺が再び会釈をするとありすが再び言った。
「お父さん、あたしが入院している時は久村さんが様子を見に来てくれるから。迷惑かけちゃダメだよ」
「そうですか。ご迷惑おかけして申し訳ありません。驚くかもしれませんが、立ち話も疲れるでしょうからどうぞ中に入ってください」
ありすの父親に導かれて俺は部屋の中に入って行く。そこで驚愕の光景を目の当たりにする。ありすの家は雑多を通り過ぎてゴミ屋敷のような有様であった。これでは車椅子で動くのだって大変だろう。確かに玄関に入った時微かに異臭を感じたのだけど部屋の中に入ると強烈な悪臭を感じる。
「驚いたでしょ?」とありす。「これがあたしの家、ほとんどゴミ屋敷なの。お父さん、ものがなかなか捨てられなくて」
それを受け俺は答える。
「驚いたっていうか。まぁびっくり。片付けた方がいいのかな?」
「無理だよ。ここまで汚れると片付ける気が起きない」
確かに部屋は少し掃除をしたくらいでは回復しないだろう。しかしこんな劣悪な環境の中で暮らすのもまた問題があるような気がする。俺とありすの様子を見ていた父親は物で溢れた机の上にあった缶ビールを飲み始めた。
「久村さんと言いましたか」と父親。彼の目はトロんとしている。今にも眠ってしまいそうだ。「私はもうダメですよ。びっくりしたでしょ?いわゆるアル中というやつなんですわ。酒がないとダメです。やっていけません」
「ありすさんは入院するんですよ、お父さんがしっかりしないと」
「そうなんですが私にはもう力が残っておらんのです。もうダメです」
父親はすっかり悲観的になっている。事故で足を失い仕事も上手くいかないという理由もあるのだろうけどこの人はあまり真っ当ではない。どこか病的な印象を覚える。もちろんアルコール中毒は立派な病気なんだろうけど。
「お父さん、あたしが入院している間あんまりお酒飲んじゃダメだよ。お金だって無限じゃないんだから」
ありすが言うと父親はスッと目を閉じ、そして
「あい、わかりました。気をつけます」
それから父親は車椅子をキコキコ引きながら再び奥の部屋に消えて行く。
父親が消え俺とありすは汚れ切った部屋の中で二人立ち尽くす。
「お父さんが言った通りあたしたちはもうダメかも。あたしは入退院を繰り返しているしお父さんは車椅子でお酒がないとダメだし。お金は全くないわけじゃないけど生活保護なの。あたしが働かなくちゃならないけど病気で上手く働けなくて」
ありすはそう言うと肩をガックリと落とした。こんなにも絶望の淵にいる人間がお告げの力を使って人を救おうとしている。それはすごい力だと思う。
「ありす。君はすごいよ」と俺は言う。するとありすは驚いた瞳を向けながら「どうして?全然すごくないよ」「君はこんなギリギリの状態なのに人の役に立とうとしているじゃないか」「あたしね。十五歳の時に統合失調症になってそれからお父さんが事故に遭って失業してさらにお金も無くなって不幸になったの。だけどこんなギリギリの状態にいるからこそ人を救いたかった。そうすることで社会とつながりを持ちたかったの。それにねいやらしい話なんだけど困っている人を助ければいつかそれが自分にも跳ね返って来てあたしたちも幸せな日常を送れるようになるのかなって思ったの」「ねぇ俺思うんだけど働くだけが全てじゃないよ。要は人の役に立てるか?これに尽きると思う」「どういうこと?」「つまりさ人が生きていく理由というのは人の役に立てるか否かってことだと思う。だからさたとえ働いていなくても人の役に立っているのならそれは素晴らしいことなんだ。ありすはすごいよ。俺は人の役に立ったことをしているかっていうとあまり自信ないし。でも君は俺を救ってくれたし今度は俺が君を救う番だよ。お父さんのことは安心して任せてくれ。君はちゃんと入院してしっかり病気をよくしてきてほしい」「ありがとう。ホントに…」そうありすは呟くとつぶらな瞳から一筋の涙を流した。どこまでも人の味がする熱い涙だった。
翌日ありすは入院した。ありすが入院したのは精神科の病院で溝口から少し離れた場所にあり前述の通り閉鎖病棟に入院してしまったから家族以外の面会はできない。つまり俺は会いにいけない。閉鎖病棟は電子機器が持ち込めないらしいけど公衆電話はあるみたいだからそれを使えば俺に連絡するのは可能だ。まだ諦めるのは早いしどんな状況であっても解決策っていうものはあるはずだ。けど今の問題はそれじゃない。俺はありすを救いたいのだ。ありすが人の役に立つことで世界と繋がりを持ったように俺もありすの役に立つことで彼女を救いたいと感じたのだ。
午前中はブログの執筆をしてお昼過ぎによち丸にご飯をあげてその後ありすの父親に会いに行く。昨日会った感じでは日常的に酒浸りになっているようだったから少しでも会う頻度を上げないと生活が成り立たないと感じる。ありすの家のインターフォンを押しても中から反応がない。こんなこともあるかもしれないと事前にありすから自宅の鍵を預かっている。その鍵を使って俺は部屋の中に入る。室内は悪臭で満ちている。まずはこの家をなんとかしないとダメだ。
父親は着古したグレーのスウェット姿で汚れ切った寝室で眠っていた。布団は万年床になっていてシーツが黒く汚れている。ずっと洗っていないのだろう。眠っている顔はどこか穏やかだったけど顔色はあまりよくない。お酒をずっと飲んでいるからかなり肝臓にも負担がかかっているのだろう。昼ごはんがまだの可能性が高いし俺もまだ食べていないからとりあえず昼ごはんにするか。こんな汚い部屋で食べるのは嫌だったが仕方ない。一旦コンビニへ行き二人分の弁当とお茶を買って再びありすの家に戻る。父親は相変わらず寝ていたけど俺が彼の肩を揺すってみると酒臭い息を吐きながらようやく深い眠りから覚めた。
「久村さんですか。どうもすみません」
「お父さん、ご飯買ってきましたから一緒に食べましょう」
「ありがとうございます」
俺と父親はコンビニ弁当を食べ始める。彼の好みが判らなかったのでとりあえず幕の内弁当を買ってくる。
「お父さん、この部屋を掃除しませんか?」
と俺は言ってみる。
すると父親は
「もう無理ですよ。こんなに汚れるとね、もう片付ける気が起きません」
「でもこんな部屋にずっといるのは体にもよくないですよ。誰か来た時困りませんか?」
「最初はこんな汚い家を見せるのは嫌だったんですが、今はそんなことどうでもよくなりましたよ。もうヤケクソってやつです」
「俺がなんとかしますから、家をキレイにしましょう。そうすればありすさんも喜びます」
「君はどうしてそんなに親切なんですか?」
「さぁ、俺にも判りません。でも放っておけないんです。ありすさんはこんな劣悪な環境にいたのにそれに負けずに人を救おうとしていた。だから俺はそんな彼女を救いたい。お父さんだってずっとこのままじゃダメだと思っているんでしょ」
「私はもうダメです。事故で両足が義足になって自在に動かせませんし働けません。それに酒も止められませんし」
「病院に行きましょう。そうすればアルコール中毒だって治ります。足だってリハビリすれば車椅子なしでも動かせるようになります」
「無理ですよ。放っておいて下さい。もうダメなんです」
「ありすさんがこのまま不幸になってもいいんですか?ありすさんはお父さんに立ち直ってもらいたいんですよ」
「だからもうダメなんですよ。何かも遅い。このまま死んでいくしかないんです」
「そんなことないです。人はいつだってやり直せますよ」
「君はまだ若いからそんなことが言えるんです」
「お父さん、あなたはありすさんの力を知っていますか?」
俺の言葉を聞き父親は驚いた表情を浮かべる。
「ありすの力」父親は言う。「それはなんです?」
「人の未来を予知する力です。彼女はお告げと呼んでいます」
「知っているんですね。私も昔ありすに聞きました。でも冗談でしょう?人にはそんな力はない」
「それがあるんですよ。俺はその力でありすさんに救われました」
「救われた?」
「そうです。ただこれから俺は死ぬかもしれないんです。たとえそうなったとしても俺はあなたたちを救いたい。人が生きる意味というのは如何に人の役に立てるかということだと思うから」
俺はそう言うと俺の身に迫る不幸な末路の仮説を説明した。父親は最初は不貞腐れたような表情を浮かべていたけど徐々に真剣な顔になり「ありすの力だ正しいとすると不可解なことがあります」と言う。それを受け俺は答える。「不可解なことってなんです?」「ありすに人の未来を予知し不幸を回避する力があるのならなぜ私を救わなかったんです?身近な身内の未来を予知しないで見知らぬ人間の未来ばかり予知して救おうとする意味が判りません」確かに父親の言っていることは間違っていない。俺も以前同じことを考えた。同時に彼の言葉を聞いて改めてありすの力の矛盾に気づく。「多分ありすさんはお父さんに関するお告げは聞かなかったんじゃ」それを聞き父親は「いやそれはない。ありすは昔言っていました。不幸になりそうな人間の未来が判ると。なら私の事故だって予知できたはずなんです。なのにありすは私を救わなかった。ありすに力なんてありませんよ。病人の戯言です」「まだありすさんの能力には隠された秘密があるのかもしれないです」「隠された秘密ってなんです?」「それは判りません。でもお告げの対象となる人物とそうでない人物がいるのは確かみたいです。たぶんですけどお父さんだからお告げを感じ取れなかったんです」「相手が私だから能力が使えないと言うことですか?」「その可能性はあります。ただどうやってお告げが対象者を判断するのか判りません。それにありすさんだって本当はお父さんを救いたいはずなんです。だから俺がお手伝いします。とりあえず病院に行って足のリハビリをしてそれからお酒をやめましょう。それと部屋の片付けをしましょう。俺がなんとかしますから」「久村君。君を信頼してもいいのかね?」「俺に残された時間はあまり多くないかもしれない。だから俺が自由に動ける間になんとかしたいんです」「ありがとう。君はいい人なんだね。こんなに人にもっと早く出会いたかった」父親は涙を流す。ありすと同じで熱い色をした涙だった。
翌日から俺は素早く動く。俺に残されている時間はあまり多くないのかもしれない。だけど生きた証として最後に人の役に立ちたい。俺はその一心でありす親子を救う決心をする。ここで彼らを見捨てたら死んでも死に切れないからだ。大きなゴミ袋を買ってゴミ屋敷と化したありすの家を掃除する。とにかく綺麗にするのが目的だから床に散乱しているゴミは全てゴミ袋に片っ端から入れて捨てる。家全体がゴミ屋敷と化しているので家をまるまる全て掃除するのに一日かかってしまう。だがやり切る。大きなゴミ袋が二十袋以上になってしまうけどありすのマンションの敷地内には大きなゴミ置き場があってそこに全てのゴミを捨てられた。全てのゴミ袋を出し終えると今度は部屋の床や壁の掃除だ。とは言っても今日はもう遅い。やるのは明日にしよう。
「だいぶ片づけましたね」
と俺は言う。
すると父親は
「ありがとう。本当に」
「明日は床や壁の掃除をします。その次はお父さんが病院に行って治療を受ける番ですからね」
「病院か。確かにこのまま酒を飲み続けるのはよくないな。それに足のリハビリだってしないとならない」
「今日はもうお酒を飲んじゃダメですよ。掃除で疲れたと思いますから早めに寝てください」
父親は黄ばんだ歯を見せてにっこりと笑った。やはりありすの父親だ。笑った顔はどことなくありすに似ている。ふとありすと思い出す。お告げは来たのだろうか?だけど一つ言えるのは俺はまだ確かに生きているということだ。最後の最後まで足掻き俺はありすの役に立ちたい。
翌日も朝早くからありすに家に行き今度は床や壁の掃除をする。雑巾を大量に買いそれで汚れ切った床や壁を綺麗にしていく。何度も拭いていくと段々床や壁が本来の色を取り戻していく。キッチンのシンクもどろどろになって異臭を放っていたけどそれも綺麗にする。今日も大体一日をかけて彼らの家を掃除していく。およそ二日かけてようやく彼らの家は元通りに近い感じになる。異臭も消えたし布団のシーツを取り替え万年床だった布団はベランダに干した。あとは父親を医者に連れて行くだけだ。
ありす一家は生活保護世帯だ。生活保護を受けていると基本的なやりとりは福祉事務所のケースワーカーを通じて行う。俺は事前にありすに担当ケースワーカーの名前と電話番号を聞いていたからまずはそこに電話する。生活保護になると基本的に医療費は無料になるのだけど医療券を発行してもらう必要があるのでケースワーカーに事情を説明して申請の手続きをする。俺はありすの父親と共に溝の口駅の近くの高津区役所の中にある福祉事務所まで行きそこで担当のケースワーカーから医療券を発行してもらう。
次はこの医療券持って病院に行くだけだ。ネットを使い溝口近辺でアルコール依存症の治療をやっている病院と足のリハビリをしている病院を探し出し俺が買って来たジャケットとスラックスを穿いてもらいそこに向かう。俺とありすの父親は他人同士だけど一応俺がついて行く。病院は心療内科でアルコール依存症の治療をやっていてそれが終わったら足のリハビリの病院に行く。あとはこれらに父親が通い治療やリハビリを進めて行くだけだ。
「月に一回医療券を発行してもらう必要がありますから、その時は役所に行ってください。担当のケースワーカー判りますよね?」
と俺は父親に聞く。
彼は目を細め名前を思い出そうとしている。
「大丈夫だと思う。いろいろありがとうございます。助かりました」
「判らないことがあれば俺か担当のケースワーカーに聞いてください。俺も判る範囲で答えますから」
「ありがとう、久村君」
父親は立ち直りつつある。よかったここまで手助けできた。俺は心地いい達成感を覚えながら家路に就く。家まであと少しというところの交差点で俺は青信号を渡っていた。周りに注意を払っていなかったと言ったらそれまでだけど俺は赤信号を無視して突っ込んで来た乗用車にギリギリまで気づかなかった。ただ気づいた瞬間には全て遅かった。腹部に鉛のような衝撃を感じたと思ったら俺の意識は吹っ飛んでいった。
ここはどこ?判らない。目を覚ますと俺は真っ白な空間の中にいた。あれ?何をしていたんだっけ?記憶が曖昧だ。靄がかかっているような感じ。確かありすの家に行って帰って来たはずなんだけど。いやまだ帰っていなかったはずだ。そうだ。交差点を渡っている時に車にぶつかったんだよ。そうかやはり不幸が起きた。運命には逆らえなかったんだな。ありすはお告げを聞いたのだろうか?一応連絡できるはずだった。つまりありすはお告げを感じ取りそれを俺に伝えられたはずなのだ。なのに彼女はそれをしなかった。これは不可解だ。ただ、お告げが来てから実際に事が起こるまでの時間というのはありすには判らないみたいだ。だからお告げを感じ取ったのが深夜で電話できなかった可能性もあるにはあるけどありすは正義感が強いからどんな状況であっても必ず俺に電話して来るはずだし彼女も何があっても必ず電話すると言っていた。けれどそれをしなかったとなると彼女はお告げを聞かなかったのではないか?父親のケースと同じで俺もお告げの対象者から外れてしまったのか?一体なぜ??何もかも不可解だけど今はそんなことを考えている場合じゃない。何しろよく判らない世界に飛ばされてしまったのだから。
ってことは俺は死んだのか?この真っ白な世界は天国?それとも地獄?地獄ならあまり地獄って感じがしないけど。そもそも死後の世界ってあったんだなぁ。いやまだ死んだと決まったわけじゃない。俺は真っ白な世界を一人歩き始める。とりあえず誰かいればいいんだけど今のところ誰かいる気配がない。白い空間を歩いて行くと遠くの方に微かに光が見えた。とりあえずあそこに行ってみよう。誰かいるかもしれない。光の正体は小さな小屋の灯りだった。掘建小屋というやつだ。トビラはあるけど窓はない。多分六畳くらいの大きさだろう。だからものすごく小さい。トビラをノックしてみる。…無反応。誰もいないだろうか?試しにドアノブを捻ってみる。鍵はかかっていない。キィと音を上げドアが開く。
「誰かいますか?」
俺はそう言い小屋の中に入って行く。小屋の中には意外な人物というか犬がいる。その犬はよち丸だ。コロコロとした子犬のよち丸がよちよちと俺のそばに歩いて来る。
「よち丸、どうしてここに?」
犬に話しかけても無意味であるとは判っていたけど犬だって人間の言葉が理解できるはずだ。芸だってするし散歩やご飯という言葉には敏感に反応する。
「壮!」
「え?」
今誰が俺の名前を呼んだ?今ここには俺とよち丸しかいない。俺は何も言っていないから残るのはよち丸だけだ。よち丸が喋ったのか?変声期前の少年のような声で。
「よち丸?」「そうだ。僕はよち丸だ。君は僕を救ってくれたからその恩を返しに来た」「俺を救いに?何がどうなってる?」「壮は事故に遭い意識不明の重体に陥った。もう三ヶ月経ったけど未だ重体だ。このままでは死ぬ。だから僕がどうすれば助かるか君に教えに来たんだ。それが僕の恩返しだよ」「俺死ぬの?」「まだ死んでない。だけど今のままだと死ぬ」「どうすれば助かるの?」「愛だ」「あい?」「そう。LOVE愛する思いが力を与える。運命に抗うためには愛の力が必要だ」「愛って言ったって俺は結婚してるわけでもないし子供だっていないよ。いるのはよち丸だけだ。まぁ実家に戻れば両親はいるけど」「一人忘れてるだろ?」「一人?」「そうだ。知らないとは言わせないぞ」
俺の周りの世界は本当に狭い。ブログ記事を書いて生計を立てているくらいだから会社に行っているわけじゃない。つまり同僚だっていないし上司だっていない。一人で全て完結する仕事だ。となると俺の周りにいる人間は限られている。
「ありすのこと?」と俺は言う。俺の周りの人間で俺と関係のある人間はただ一人だ。そう。ありすしかいない。「その通り。ありすは君を愛している」「冗談でしょ。会ってからそんなに日が経ってないよ。それにいつ彼女が好きになるルートが生まれたんだよ?」「壮。君はありすを認めありすのお告げを聞いて救うという生き方を肯定した。理由はそれだけで十分だ。ありすは認められたかったんだ」「なんでよち丸がありすが俺が好きだって判るんだよ」「犬は勘がいいんだよ。壮が病院に運ばれ入院してから僕はありすと何度か会ったんだ。彼女は自分が退院してから毎日君の元へ通ったんだよ。それで判った。愛するという気持ちが溢れている。愛は無償だ。自分のために全てを捧げてもいい思う。それが愛だ」「そうかもしれないけど」「ありすが君を愛しているという確固たる理由がある」「理由って具体的には?」「お告げの力だ」「お告げの?」「そうだ。お告げの力は愛する人間には使えないんだ」「そうか。だから父親の未来は見えなかったんだ」「ありすが父親を愛してるのなら能力は使えない。そして壮を愛し始めたから彼女は君の未来が見えなくなったんだ。ありすが入院中君に関するお告げを聞かなかったのはそういう背景がある」「そんなバカな。愛すると能力が消えるってこと?」「その通り。恋は盲目って言葉があるけど愛も盲目なんだ。そしてそれが人を愛するってことなんだよ」
何もかもわけが判らない。ありすが俺を愛してる?そんなことあるのか?確かに俺はありすに感謝し彼女を認めた。ありすの生き方を肯定したかもしれないけどそれだけだ。そんな些細な理由だけで愛するという高尚なレベルまで達するのだろうか?
しかし愛するという力が俺の切羽詰まった状況を変えるらしい。愛というのはそれだけ大きな力を内包しているのだろう。ただ具体的に何をしたらいんだろう?いや待て。それ以上に俺はありすをどう思っているんだろう。確かに可愛い顔立ちをしているし優しい人だと思うけど。好きか嫌いで言えば間違いなく好きになるんだろう。恋愛感情で俺はありすが好きなんだろうか?会ってからまだそんなに日も経っていないからなかなか自分に正直になれない。いや、正直になるんだ。多分好きなんだろう。でなければここまで協力しない。愛し始めたから彼女を救いたいと思ったのだ。
「なぁよち丸。愛の力が運命を切り拓くっていうのは判ったけど具体的にはどうしたらいいのさ?」
と俺。
するとよち丸は
「愛の力が高まれば壮は助かる。壮とありす、二人の愛が壮をここから救い出してくれる。ありすの愛を受け取るには壮自身が正直になり彼女の愛に応えなければならない。愛の力が運命を変えるんだ。君だってありすを愛しているはずだよ。だから彼女を救おうと思ったんだ。それは君がありすを愛している印でもあるし愛の力の証でもある」
「具体的に愛するってどうやって表現すればいいの?愛してるって囁くわけ?ここにありすはいないのに」
「壮。君は既に愛の種を蒔いている。後はその花を咲かせればいい」
「愛の花?」
「そうだ。君はありす親子を救っただろう?彼らの家を綺麗にし父親を病院に連れて行っただろう?」
「どうしてそれをよち丸が知ってるの?」
「ありすが教えてくれた。彼女に会った時、彼女は独り言のように君への感謝を呟いたんだ。だから僕も感じ取ったんだよ。君がありす親子を救ったことが愛の花の種なんだ。父親は回復の兆しを見せありすも退院し綺麗になった部屋に戻って来た。つまり彼らは再生の道を進み始めている。そしてその道を作ったのは他でもない壮自身だ」
「それが愛の花の種ってこと?」
「うん、その通り。種は巻かれている。後は如何に花を咲かせるかだ」
そんなこと言われてもその方法が判らない。俺は必死に考える。ここは生と死の間。ここから解放されないと俺は死んでしまうみたいだし相当ピンチに陥っている。
「壮、愛っていうのは単に人を好きになるって意味じゃない。その人の全てを受け入れるってことだ」
とよち丸。
俺は答える。
「ありすを受け入れるか。それはできると思うけど。問題はどうやってそれを彼女に伝えればいいかだ」
「祈るんだ」
愛は祈りだっていう有名なフレーズから始まる小説はあるけど確かにそれは一理あるのかもしれない。そしてその人の幸せを祈るってことも愛の形なんだろう。
俺はありすに幸せになってほしい。統合失調症という精神疾患を患いお告げを聞きながら人を救おうとしたありす。自分は不幸のどん底にいるのにそれでも人を救おうとしたありす。それだけ強い人間なんだ。人は困難に相対した時本当の顔が浮かんでくる。困難を抱えてもそれを跳ね返す力がある人間は本当に強い人間なんだろう。ありすは強い。何度も俺を救ってくれたから今後は俺が彼女を救いたいと思った。ありすの役に立ち彼女を困難から救ってあげたい。そのためには俺は俺を犠牲にしてもいいって思ったんだ。
そうか。それが愛ってことなんだ。その人の幸せを祈り無償で相手を気遣う。愛と恋は似ているようで全く違う。恋はどこか自分よがりだ。恋に恋するというけれど恋は自分のことしか考えていない。こんな人がいい。こんな風になってほしい。こうあってほしい。それは全て自分の気持ちだ。相手のことを全く考えていない。愛はその人の立場に立つ。そしてその人の幸せを一緒に考える。自分を犠牲にしてもいいから幸せになってほしいと願う。親が子供を愛するというのはそういうことなんだろう。同時に愛する力が運命に逆らえるのだ。
俺は自分が死ぬという未来が迫っていると判っていながらありす親子を救うために躍起になった。そこに見返りは望んでいない。そう。愛は見返りを望んではならないんだ。見返りなんて望んだらそれは愛ではなくなる。単なる自分勝手な欲望に堕ちてしまう。
ありす。俺は君に幸せになってほしい。君が俺を救ってくれたように俺も君を救いたい。願うよ。君の幸せを。
「壮!」
突然劈くような声が聞こえた。
それは他でもないありすの声だ。この真っ白な空間の全てに染み渡っていくような大きな大きな大きな声だった。
「ありす。どこにいるの?」
「そっちへ行っちゃダメ」
「そっち?なんのこと」
「急いで戻って」
いつの間にかここにいたはずのよち丸がいなくなっている。そしていつの間にか小屋ではなく真っ白な空間の中にいる。同時に真っ白な空間がブラックホールに吸い込まれるように黒い世界へと変わり始める。なんとなくだけどこのままじゃまずいような気がする。ここにいちゃダメだ。逃げないと。
「壮!戻って」
ありすの言葉を胸に俺は必死に白い空間に縋り付く。だが黒い世界はすぐそこまで迫っている。ブラックホールは光の速さでも抜け出せないと聞くけど走らなくちゃ。光より速く。もっと急いで逃げないと。ありすの声が聞こえなくなる。彼女はどこにいる?多分ここにはいない。彼女はきっとここではない世界から俺を応援してくれている。ありすはどこまでも優しい。人の役に立つために自分を犠牲にできる。犠牲?愛は犠牲に上に成り立つと考えたけど本当なのかな?誰かが犠牲になって成し遂げた愛があってもいいけどそれって少し寂しいというか切ない。自己犠牲の愛もそれは一つの形も知れないけど俺はもっと別の形で愛を表現したい。俺も半ば自分を犠牲にしてしまったところはあるけどやっぱり生きたい。生に縋りたい。そしてもう一度ありすに会いたい。ここでありすとお別れになってしまったらやっぱり寂しいそれはとても辛い。
「ありす!」俺は叫ぶ。すると再びありすの声が聞こえる。声が小さくなる。「あたし壮にもう一度会いたい」「俺も会いたい。俺は君に幸せになってほしい」「なら戻って。壮が死んじゃったらあたし不幸になる。せっかく救ったのにまた救えなかったって塞ぎ込んじゃう。だから戻って。絶対に」「でもどうしたら?」「愛の力。思いの強さが運命を変えるの。生きる執念を見せて。あたしを幸せにしてくれるならその強さを見せて」
俺が死んだらありは今よりもっと不幸になる。もうありすをこれ以上不幸にさせたくない。なら絶対にここで死ねない。生きるっていうのはそれだけで素晴らしいことなんだ。この世界には自分から死を選ぶ人間もいるけれどそれは絶対に間違っている。生き地獄という言葉も確かにあるかもしれない。でも死んでしまったら全てが終わる。生きていればどこかで何かに繋がる。そのか細い蜘蛛の糸のような線を伝うのは難しいかもしれない。でもそのか細い糸がどこかで幸せに繋がっていることだってあるだろう。
この世界は九九パーセントが辛いかもしれない。それでも残りの一パーセントは幸せなんだ。たった一パーセントの幸せが九九パーセントの不幸を帳消しにする。それだけ幸せには強い力があるのだ。同時にその幸せの鍵を握るのはやはり愛なのだ。人を愛するという心なのだ。人を愛することができるのはやはり人だ。俺はありすを信じているしもう一度会いたい。これが愛なのかは判らないけど俺は彼女に不幸になってほしくない。
そうだ。愛っていうのは単に人を好きになるってことだけじゃないんだ。愛っていうのはその人を幸せを願うこと。その人の幸せを願う延長線上に愛という感情がある。俺のありすに対する愛の形は彼女の幸せを願うことだから俺は絶対に死ねない。
「うわぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっぁぁぁぁぁぁぁっぁあっぁぁぁぁぁぁぁっぁあっぁぁぁぁぁっぁぁぁっぁぁあぁっぁぁぁぁっぁぁぁぁっぁぁっぁぁぁぁぁっぁぁぁぁぁっぁあっぁぁっぁぁぁっぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっぁぁぁぁぁぁぁっぁあっぁぁぁぁぁぁぁっぁあっぁぁぁぁぁっぁぁぁっぁぁあぁっぁぁぁぁっぁぁぁぁっぁぁっぁぁぁぁぁっぁぁぁぁぁっぁあっぁぁっぁぁぁっぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっぁぁぁぁぁぁぁっぁあっぁぁぁぁぁぁぁっぁあっぁぁぁぁぁっぁぁぁっぁぁあぁっぁぁぁぁっぁぁぁぁっぁぁっぁぁぁぁぁっぁぁぁぁぁっぁあっぁぁっぁぁぁっぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっぁぁぁぁぁぁぁっぁあっぁぁぁぁぁぁぁっぁあっぁぁぁぁぁっぁぁぁっぁぁあぁっぁぁぁぁっぁぁぁぁっぁぁっぁぁぁぁぁっぁぁぁぁぁっぁあっぁぁっぁぁぁっぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっぁぁぁぁぁぁぁっぁあっぁぁぁぁぁぁぁっぁあっぁぁぁぁぁっぁぁぁっぁぁあぁっぁぁぁぁっぁぁぁぁっぁぁっぁぁぁぁぁっぁぁぁぁぁっぁあっぁぁっぁぁぁっぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっぁぁぁぁぁぁぁっぁあっぁぁぁぁぁぁぁっぁあっぁぁぁぁぁっぁぁぁっぁぁあぁっぁぁぁぁっぁぁぁぁっぁぁっぁぁぁぁぁっぁぁぁぁぁっぁあっぁぁっぁぁぁっぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっぁぁぁぁぁぁぁっぁあっぁぁぁぁぁぁぁっぁあっぁぁぁぁぁっぁぁぁっぁぁあぁっぁぁぁぁっぁぁぁぁっぁぁっぁぁぁぁぁっぁぁぁぁぁっぁあっぁぁっぁぁぁっぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっぁぁぁぁぁぁぁっぁあっぁぁぁぁぁぁぁっぁあっぁぁぁぁぁっぁぁぁっぁぁあぁっぁぁぁぁっぁぁぁぁっぁぁっぁぁぁぁぁっぁぁぁぁぁっぁあっぁぁっぁぁぁっぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっぁぁぁぁぁぁぁっぁあっぁぁぁぁぁぁぁっぁあっぁぁぁぁぁっぁぁぁっぁぁあぁっぁぁぁぁっぁぁぁぁっぁぁっぁぁぁぁぁっぁぁぁぁぁっぁあっぁぁっぁぁぁっぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっぁぁぁぁぁぁぁっぁあっぁぁぁぁぁぁぁっぁあっぁぁぁぁぁっぁぁぁっぁぁあぁっぁぁぁぁっぁぁぁぁっぁぁっぁぁぁぁぁっぁぁぁぁぁっぁあっぁぁっぁぁぁっぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっぁぁぁぁぁぁぁっぁあっぁぁぁぁぁぁぁっぁあっぁぁぁぁぁっぁぁぁっぁぁあぁっぁぁぁぁっぁぁぁぁっぁぁっぁぁぁぁぁっぁぁぁぁぁっぁあっぁぁっぁぁぁっぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっぁぁぁぁぁぁぁっぁあっぁぁぁぁぁぁぁっぁあっぁぁぁぁぁっぁぁぁっぁぁあぁっぁぁぁぁっぁぁぁぁっぁぁっぁぁぁぁぁっぁぁぁぁぁっぁあっぁぁっぁぁぁっぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっぁぁぁぁぁぁぁっぁあっぁぁぁぁぁぁぁっぁあっぁぁぁぁぁっぁぁぁっぁぁあぁっぁぁぁぁっぁぁぁぁっぁぁっぁぁぁぁぁっぁぁぁぁぁっぁあっぁぁっぁぁぁっぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっぁぁぁぁぁぁぁっぁあっぁぁぁぁぁぁぁっぁあっぁぁぁぁぁっぁぁぁっぁぁあぁっぁぁぁぁっぁぁぁぁっぁぁっぁぁぁぁぁっぁぁぁぁぁっぁあっぁあっぁぁっぁぁぁっぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっぁぁぁぁぁぁぁっぁあっぁぁぁぁぁぁぁっぁあっぁぁぁぁぁっぁぁぁっぁぁあぁっぁぁぁぁっぁぁぁぁっぁぁっぁぁぁぁぁっぁぁぁぁぁっぁあっぁぁっぁぁぁっぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ」
俺は長い長い長い雄叫びを上げる。死ねない。戻るんだ元いた世界に。そしてありすを幸せにする。それが俺のありすに対する愛の形であり誠実な気持ちだから。
「愛してる」
どこからかありすの声が聞こえる。再び声が大きくなる。
俺も愛してる。この言葉を面と向かって君に言うまで俺は死ねない。
次の瞬間黒い世界が白い靄に包まれて消えていく。この黒い何かがブラックホールなら今度生まれた白い靄はホワイトホールだ。現世につながるワームホール。俺は白い靄に飛び込んで行く。そこに躊躇はなかった。必ず生きるという強い決意とありすを愛するという確かな気持ちだけがあった。
目が覚めた時俺は病院のベッドの上にいた。点滴で繋がれた腕、包帯でぐるぐるの足。痛みはないけど動かない。目を開いた時俺のベッドのそばには両親とありすの姿があった。俺はゆっくりと声を出す。
「生きているのか?俺」
両親は俺の手を握りしめてくれた。母親は泣いている。そのそばでありすも泣いていた。誰かのために涙を流せるって素晴らしいことだな。俺は幸せ者だ。俺のためにこれだけ泣いてくれる人間がいるのだから。どれだけ社会的な地位を得たとしても死んだ時に誰も泣いてくれなかったらそれはとても寂しい。たとえ拙い人生であってもたった一人でもいいから泣いてくれる人間がいた方がそっちの方が幸せだ。何億倍も人らしい。だけど死という運命を打ち破り俺はこの世界に戻った来たんだ。
「壮」
とありすの声が聞こえた。
俺は答える。
「ありす。俺は不幸じゃないよ。君がいるから。夢の中で君の声を聞いたような気がする。君はいつでも俺を救ってくれた。何度目か判らないけどまた救ってくれたんだ。君は俺の命の恩人だよ。ありがとう」
「また救えないって思った。お告げが来なかったから大丈夫だと思ってたのに。入院中、壮に電話してみたらお母さんが出て事故のことを教えてくれたの。お母さん、壮が入院してから壮の家に泊まってよち丸君の世話をしながら毎日お見舞いに来てたんだよ。それであたしも退院したらすぐに壮の元に行ったの。そしたら壮は意識不明で。もうダメかと思った。あたしお告げが聞こえなくなったら何もできないのに。でもね、ある日お母さんがよち丸君を連れて来てくれたの。それでよち丸君に会ったら彼の言葉が聞こえたの。壮がピンチってこととどうすれば助かるのかを教えてくれたのよ。それで何度も壮が助かるように念じたの。そしたら壮の声が聞こえて…」
「そうだったんだ。俺の運命は確かに変わったよ。死ぬという運命を愛というパワーで変えたんだよ。もうお告げの力はいらない。やっぱり運命は自分で切り拓くものなんだ。今回だって俺は死ぬ運命だったのかもしれない。でもさ、こうして戻って来れたし大怪我もしたけれど俺は幸せだよ。不幸なんかじゃない。君がいるから俺は幸せになったんだ。そして同じくらい君にも幸せになって欲しい。俺は君の幸せを心から願うよ」
俺はありすの幸せを心から願う。ありすには幸せになって欲しいから。そしてそれが俺のありすに対する愛の証だ。愛の花は不幸のどん底でも咲き誇る。愛というのは大きな大きな大きな力があるのだ。その力は強大な運命に抗えるほど大きな大きな大きな力なのだ。愛の力で俺は運命を変えたしこの世界に戻って来られた。これからもありすへの愛を貫こう。もちろん俺は不器用だから愛を上手く表現できない。できる気がしない。でもさ人を愛するっていうのはそんなに難しいことじゃない。不器用な人間にだってできるしそして少し不器用なくらいがきっといい塩梅なのかもしれないんだよね。
〈了〉