5 パンの匂い
朝。
いつもより少しだけ遅く起きた僕は、台所から漂う香ばしい匂いに誘われるように、リビングへ向かった。
バターの匂い。
トーストの焦げ目の匂い。
それは、毎朝繰り返されてきたはずの香りだった。
けれど、キッチンに立っていたのは、彼女だった。
「おはよう。……焼いてみたよ、わたしが」
ふわりと笑ったその顔には、いつもの“頼るような”気配はなく、どこか誇らしげな自立があった。
「……意外。料理できたんだ?」
「ううん、できないよ。……でも、やってみたかっただけ」
バターは少し焦げていたし、パンの片面は焼けすぎていた。
でもその匂いは、どこか懐かしくて、心にじんと染み込んできた。
二人で並んでソファに腰を下ろす。
その座り方も、いつのまにか自然になっていた。
彼女は足を揃え、パンをちぎっては口に運ぶ。
小さな咀嚼音が部屋に響き、僕もそれに続いた。
沈黙が続く。でも、重くない。
言葉がなくても、心が満たされている感覚があった。
やがて、彼女がふと視線をこちらに向けた。
「ねえ。昨日、わたし“あなたのものになってほしい”って言ったでしょ?」
僕は頷く。
「でもね、それ、ちょっと違ったかもって思ったの」
「……違った?」
「うん。あれは“あなたを所有したかった”んじゃなくて、
“あなたに居場所を渡したかった”んだと思う。
——わたしの中に、あなたの場所を作るっていう意味で」
その言葉に、胸がじんと熱くなった。
彼女は、最初は誰かに“所有される”ことで存在しようとしていた。
でも今は、自分の意思で、誰かの居場所を作れるようになった。
それが、自分の“番”だったと。
「わたしの番は、もう終わり。
これからは、交代制にしよう?」
「交代制?」
「うん。今日はあなたが、わたしを守って。
明日はわたしが、あなたを守る。
どっちかが倒れても、片方が立ってればいい。
そうやって、二人でずっとやっていけたらって」
その提案は、あまりにも不器用で、あまりにも優しくて——
僕は笑って、涙がこぼれそうになるのを必死にこらえた。
彼女はその涙に気づいて、何も言わず、そっと僕の手を取った。
——温かかった。
言葉よりも先に、指先が、心に触れていた。
「ねえ、これからも一緒にいてもいい?」
「……ずっといてくれ」
小さく頷く彼女の笑顔が、朝の光に溶けて、柔らかく滲んだ。
どちらが所有しているでもなく、
どちらが依存しているでもない。
ただ、ふたりでつくったひとつの輪郭の中で、
僕らは同じ温度で呼吸していた。
——今日もまた、パンの焼ける匂いとともに、
“ふたりの朝”が始まった。