3 静かに軋むふたり
朝は、昨日と同じ光を持っていた。
トーストの焼ける香り。バターが溶ける音。
だけど、彼女の笑顔はどこか少し薄く、輪郭の滲んだものになっていた。
「……ありがとう。おいしい」
その言葉に嘘はなかったと思う。
でもその奥に、“もう少しで壊れてしまいそうな静けさ”があった。
彼女は相変わらず可愛く、やわらかく、健気で。
だけど僕の視線を避けるように、少しうつむいていた。
ふと、彼女が自室に戻ったあと、テーブルの上に残されたものに気づいた。
それは、使いかけのリップクリーム。
——いつのまにか、彼女は外見を整え始めていた。
誰かに“見られること”を、もう一度意識し始めているような気がした。
僕は、ふと焦った。
彼女が“自分以外の世界”へ手を伸ばしはじめたことに。
でも、それは本来、僕が望んでいたことだったはずなのに。
◇◇◇
夜。
二人の間の空気は、ゆっくりと重たくなっていた。
会話はある。でもそこには、かつての無垢なぬくもりがない。
彼女は笑う。いつもと同じように。
だけどその笑顔は、どこか“演技”のように感じられた。
「ねえ、今日さ、外に出てみたの。ちょっとだけ……公園まで」
「そうなんだ」
本当は、驚いていた。
彼女が、ひとりで外に出たこと。
だけど僕の返答は、それだけだった。
「うん。日差しが、ちょっと眩しかったけど……風が気持ちよかった」
彼女はうつむきながら、コップを揺らす。
氷が当たって、静かにカランと鳴る。
その音が、部屋の空気をさらに冷やした。
「……どうして、そんな顔するの?」
彼女がぽつりと、言った。
僕は思わず顔を上げたが、何も答えられなかった。
その視線の奥には、確かに僕の“嫉妬”があったのだ。
彼女が、自分以外の場所に居場所を見つけはじめている。
それが嬉しい反面、手のひらから何かが滑り落ちるような不安があった。
「……あなたはさ、わたしに“自由”になってほしいって言ってたよね。
でも、いざそうなろうとしたら、遠ざかってるのは、あなたのほうだよ」
その言葉に、胸の中で何かが軋んだ。
「私ね、今すごく怖いの。
あなたがいつか、“もう守らなくてもいい”って言って、
わたしから去ってしまう日が来るんじゃないかって……」
——ああ、なんて矛盾だろう。
僕は、彼女が依存から抜け出すことを願っていたはずなのに。
今はその“成長”が、僕を孤独にするのが怖い。
彼女も、同じだった。
愛されたい。でも、依存したくない。
自由になりたい。でも、ひとりにはなりたくない。
ふたりの心は、どこまでも似ていて、だからこそ擦れ違っていた。
「……君が怖いときは、僕が隣にいる。
でも僕が怖いとき、君はどうしてくれる?」
その問いは、思わず漏れた本音だった。
彼女は一瞬だけ目を見開いて、そして、初めて——悲しげに、微笑んだ。
「ごめんね。……わたし、それ、考えたことなかった」
◇◇◇
その夜、僕は眠れなかった。
彼女の気配を、壁越しに感じながら、何もできないまま、ただ静かに、目を閉じるふりをしていた。
◇◇◇
そして、次の夜——
僕が寝室のドアを開けると、そこに彼女が立っていた。
視線はまっすぐ、けれど、いつもの無垢さが何か欠けている気がした。
「……今度は、わたしがあなたを所有する番だよ」
その声は、甘く静かで、けれど確かな熱を帯びていた。
僕は、その言葉の意味をまだ完全には理解していなかった。
ただ、今までのどの夜よりも、空気が深く、重く、そして美しかった。
——すべてが、変わりはじめていた。