2 優しさに滲んだ毒
それは、ほんの小さな違和感だった。
夜、寝室に戻ると、空気の温度が微かに違っていた。
電気は消えているはずなのに、ベッドサイドのスタンドが灯っている。
薄明かりの中、彼女がシーツの上に座っていた。
膝を抱えて、こちらを見上げている。
その瞳は、何かを決意したように静かだった。
「……待ってた」
その声に、僕の呼吸が一瞬止まった。
彼女は裸足のまま、するりと立ち上がり、ベッドの上を歩いて近づいてくる。
シーツがわずかに擦れる音。甘い空気が、夜の肌を撫でる。
「今日は、わたしの番……でしょ?」
僕は一歩、後ずさる。
だが彼女の手が、僕の服の裾を掴んだ。
「ずっと、考えてたの。わたしがあなたにしてあげられること……
それって、こういうことだと思った」
視線を下げれば、震える指が、僕のシャツのボタンに触れている。
「ねえ、お願い……嫌なら、嫌って言って」
その声は、懇願でも、誘惑でもなかった。
まるで、切実な祈りのようだった。
——“嫌”と言えば、彼女は崩れてしまう気がした。
だが、“受け入れた”瞬間、自分の中の一線が消えるとも思った。
僕は震える声で、問い返す。
「……どうして、そんなことを……?」
彼女は俯き、目元を髪で隠す。
「だって……あなたは優しすぎて、
私に触れようともしない。
でも、私は、いつかあなたがいなくなる気がして——
だから、わたしの全部を、あげたいの。
そうしたら、あなたはここにいてくれるんじゃないかって……」
その言葉が、僕の胸に鋭く突き刺さる。
「でも……そんなの、違うよ」
ようやくの思いで、彼女の手を取って引き離す。
「君の身体をもらったからって、僕がここにい続ける保証なんてどこにもない。
それは、君が差し出す“証明”じゃなくて、“取引”になってしまう。
君は、そんなふうにして、自分の存在を証明しなくていいんだ」
彼女は固まったように動かない。
手のひらは冷たく、力は抜けていた。
「……じゃあ、わたし、どうすればよかったの?」
その声は、小さくて、壊れそうで。
けれど僕は、答えを持たなかった。
自分が何者であるか、自分にどんな価値があるのか。
それを探し続けてきた彼女に、僕はただ「今のままでいい」としか言えない。
だがそれが、彼女にとってどれほど無力な言葉に聞こえるかも、分かっていた。
「わたし……いま、すごく惨めだよ……」
ぽたりと、涙が落ちる音がした。
その夜、僕は彼女を抱かなかった。
けれど、彼女の泣き疲れた身体を、朝まで腕の中に留めた。
——そしてそのぬくもりが、
いつしか僕自身の依存になりかけていることに、
この時の僕は、まだ気づいていなかった。