1 ぬくもりと朝の儀式
「おはよう、ございます……」
囁くような声が、薄明かりのなかに滲んだ。
少女はまだ夢の輪郭を纏ったまま、僕の視界に現れる。
小さな手には枕を抱え、瞼は半分も開いていない。
頬はほんのりと紅潮し、寝癖で跳ねた髪が朝の空気に溶けている。
まるで“眠そう”という言葉が形を持って歩いているような、そんな存在が、ソファへとふわりと沈み込む。
「……本当、眠そうだね」
僕の口から零れた言葉に、彼女はかすかに微笑んだ気がした。
二人で暮らし始めて、まだ十日と少し。
この穏やかな朝も、まだ新しい。
だが彼女はすでにこの部屋に馴染み、家具の一部のように収まっている。
僕はキッチンに立ち、振り向きもせずに問いかける。
「パンとご飯、どっち?」
返ってきたのは、またもや遅れて響く蚊の鳴くような声。
「ぱん……ばたー……あまいやつ……」
僕はトースターに食パンを差し込み、冷蔵庫からバターを取り出し、レンジで溶かす。
香ばしい香りが部屋に漂い始めると、カウンター越しに視線を感じた。
彼女はうずうずと身体を揺らしながら、まだ目を閉じたまま、鼻先だけが動いている。
「いいにおい……」
そう呟いた顔には、どこか子どものような純粋な歓喜が浮かんでいて。
だがその裏に、得体の知れない甘やかな毒のようなものを感じた。
——この美しさが、他人の目に触れたらと思うと、どうしようもなく恐ろしくなる。
トーストが焼き上がる音がして、僕はきつね色の表面に、とろとろになったバターをナイフで優しく塗り広げる。
「ほら、出来たよ」
渡すと、彼女は嬉しそうにぱくりと齧る。
小さく開いた口元から湯気のように幸せが溢れて、それが部屋の温度を少しだけ上げる気がした。
僕はふと思いつき、口を開いた。
「……そろそろ、君の部屋を作ろうと思う」
彼女はパンをくわえたまま、きょとんとした顔でこちらを見つめる。
疑問符が浮かんでいるのが、まるで漫画のようにはっきりとわかる。
「自分の空間、欲しいでしょ?」
「……わかんない……」
僕は笑ってしまいそうになるけれど、続けた。
「いや、ごめん。僕が、欲しいんだ」
——たまにはひとりになりたいというだけなのに、それを言葉にすることが、なぜこんなにも難しいのか。
けれど彼女は、パンを齧ったまま、こくこくと素直に頷いた。
「わかったー……でも寝るのはいっしょだよね……?」
その言葉に、僕は一瞬だけ目を伏せた。
そう、最初だけだと思っていた。
安心させるため、心を和らげるため——ただ、それだけだったはずなのに。
——なのに、どうして彼女の寝息が、こんなにも心を揺らすんだろう。
そして、どうしてあの柔らかい体温が、頭から離れないのだろう。




