『錬金の書』第1章第1節 平穏な田舎町
太陽が東の空から顔を覗かせ、朝靄が町の上に広がっていた。ラトビレッジは、森に囲まれた小さな田舎町だ。人口わずか千人足らずの、のんびりとした世捨て離れた場所である。
この日も、町の人々は朝早くから活気付いていた。農家の主人は朝餉を済ませるなり、野良仕事に精を出していた。家主は庭を掃き、杖をついた老人は公園でひなたぼっこを楽しむ。大人たちの顔は無表情だが、子供たちの発する元気な声が町全体に活力を与えていた。
「おはよう、ジョンさん。朝から元気だねえ」一人の農夫が通りすがりの老人に声をかけた。
「ふふん、若い者に任せとけば体は動かねえが、精神だけは若いでな」老人は杖をつきながら答えた。
「そうですな。お元気でなによりです。今日は何をされるんですか?」
「今日はな、公園でちょっと本を読もうと思ってな。昔の冒険話じゃ。若い頃を思い出すと、心が若返るんじゃ」
農家の主人は朝餉を済ませるなり、野良仕事に精を出していた。
「おい、息子よ。早く畑を耕さんか」父親が息子に声をかける。
「はいはい、そこを任せとけって」子どもは機嫌悪そうに答えた。
「そんなに機嫌悪くするな。しっかりやれば、終わった後にご馳走が待ってるからな」
「ご馳走?どんな?」
「母さんが特製のアップルパイを作ってくれるそうだぞ」
「本当!?それなら頑張る!」
家主は庭を掃き、杖をついた老人は公園でひなたぼっこを楽しむ。大人たちの顔は無表情だが、子供たちの発する元気な声が町全体に活力を与えていた。
「ねえねえ、かくれんぼするよ!」「うん!おばさんのお店になろうね」
幾人かの子どもたちが公園で遊んでいる。
「ぼくは探す役がいい!」「じゃあ、私が隠れるね!」
「よーし、もういいかーい?」「まだだよー!」
町の一角に佇む、木造の二階建ての家がある。その軒先からは、まだ薄暗い空を見上げる少年の姿が見える。リライ・ベルフォールと呼ばれるその少年は、風と共に運ばれてくるおだやかな鳥の声に耳を傾けていた。
「おはよう、リライ。今日も元気だね」
柔らかな声がリライの耳に届く。背後を振り返ると、そこには金髪の少女がいた。エリナ・グレースハートと呼ばれる、リライの幼なじみである。
リライは朗らかな表情で答えた。「おはよう、エリナ。君も元気そうだね」
エリナは目を細めて微笑みかけ、リライの傍らに立った。少し身長の低いリライより、一回りほど年上の彼女は、すらっとした手入れの行き届いた長い金髪が特徴的な美人だ。
「今日は早起きだね、リライ。何か特別な予定でもあるの?」
「いや、特にないんだ。ただ、なんとなく早く目が覚めてしまって。それで、ちょっと外の空気を吸いに出てきただけさ」
エリナは笑いながらリライの肩を軽く叩いた。「そんなことだろうと思った。いつも本を読んでばかりで、体を動かすことが少ないからね」
リライは苦笑しながら答えた。「まあ、それも一理あるね。でも、本を読むのも楽しいんだ。いろんな世界が広がっていて、まるで冒険しているみたいでさ」
エリナはリライの家からこうして度々遊びに来るのだが、それもそのはずだった。二人は町ではおなじみの幼なじみ同士で、子供の頃からの付き合いである。
「また今日も、変わらない朝だね」エリナは町の朝風景に目を向けながら、ひと言つぶやいた。
リライはエリナに続いて町を見渡す。本当に、ここラトビレッジは日々変わらぬ景色が広がっている。
「そうだねえ。でもこの平和な景色、いつまでも続いてほしいものだ」リライが穏やかに答える。
「私もそう思う。この町が好きなの」エリナが頷いた。
しかし、リライには最近、町に違和感を覚えていた。心の奥底で、何かが足りないような思いがあった。そう、この変わらぬ町の日常に、少し物足りなさを感じているのだ。
「リライ、なんだか最近、元気がないみたい。何か悩んでいるの?」
リライは一瞬戸惑ったが、すぐに微笑んで答えた。「いや、別に悩んでいるわけじゃないんだ。ただ、なんだろう…何かが足りないような気がしてね」
エリナは心配そうに彼を見つめた。「何かが足りないって、どういうこと?」
リライは少し考えてから答えた。「うーん、具体的にはわからないけど、毎日同じことの繰り返しで、なんだか退屈なんだ。もっと新しいことに挑戦してみたいって思うんだよ」
「新しいことって、例えば?」
「例えば…そうだな、冒険とか?未知の場所を探検したり、新しい発見をしたり、そんな感じかな」
エリナは目を輝かせてリライの話に耳を傾けた。「それは素敵だわ!でも、どうやって冒険に出るつもり?」
リライは肩をすくめて笑った。「まだ具体的な計画はないけど、いつかきっと冒険に出るんだ。そのために、もっと知識を身につけておきたいと思ってる」
「じゃあ、一緒に冒険に出ようよ!私もリライと一緒に新しいことを経験してみたい」
「本当に?それは嬉しいよ、エリナ。君と一緒なら、どんな冒険でも楽しめそうだ」
二人は顔を見合わせて笑い合った。
そんなリライの様子を横目に、エリナは心配そうな表情を見せた。
「リライ、朝からぼんやりして。どうかしたの?」
「えっ、な、なんでもないよ。元気だよ」リライは気づかれていたことにむっとして応対した。
しかしエリナの洞察は鋭かった。
「うーん、嘘はダメだわ。あんたの顔を見ているとその気持ちが分かるもの」エリナが片手を腰に当てながら言った。
リライは頬を膨らませ、少しエリナに不機嫌な素振りを見せた。そんな幼馴染の態度にエリナは小さく吹き出し、リライの頭をそっと撫でた。
「まあいいわ。言いたくなかったらそれでいいのよ。でもね、リライ」
「なに?」
「普通の人間には、分からないことって多いものなのよ」
エリナの言葉に、リライはぴくりと動いた。あの言葉は、彼の心の奥底にある違和感を的確に突いているように感じたからだ。
「ほら見てごらん、あの空を。自由に舞う鳥たちを」エリナが青空を指差した。
リライも頭を上げると、白い雲を背景に鳥の群れが優雅に飛んでいる姿が目に入った。
「きっとあの鳥たちには、この町の景色が地に足をつけた我々とは違う意味で映っているのでしょう」
エリナの言葉に、リライは考え込んでしまった。町に違和感を抱いているのは、自分が普通ではないから? では一体自分は何を求めているのだろうか。
その横顔を見つめながら、エリナは小さく鼻を鳴らした。
「あんまり深く考えすぎても仕方ないわ。いつかは自分が追い求めるものが見つかるはずよ」
そう言ってエリナはリライの手を優しく握り締めた。
「ありがと、エリナ。そうだね、待っていれば――」
だがその言葉は、突然の出来事に遮られた。
頭上から突風が吹き荒れ、ふたりは上を見上げる。そこに巨大な影が迫っていた。
「うわぁっ!」「きゃっ!」
リライとエリナは驚いて手を離し合い、うずくまるしかなかった。
大きな影はリライたちの頭上を通り過ぎていった。そしてゆっくりと視界に入った姿は、まさに想像を絶するものだった。
「な、なんてモノだ!!!」
リライはおどおどしながらも見とれたまま、その姿に魅入られていた。竜のような巨躯が、四肢から煙をあげながら、その雄姿を現していたのだ。
「リライ、あれは一体...」エリナが震える声で尋ねた。
「竜、かもしれない。でも本当にあんなデカイ生き物がいるわけがない」
やがて巨大な生物は、森の向こうへと飛び立って行った。だがリライの心には、興味の渦が巻き起こっていた。