(16)『地下生活者の記録』
(16)『地下生活者の記録』
㈠
我々、民間のものは、次元の異なるものに、圧倒されるだろう。政府はまた、民間の姿勢に、圧倒されるだろう。しかしこれは、どちら側に自分が居るか、という単なる立場の問題なのである。地下から見て思う、地上のいざこざ、である。
ただ、問題は解決すれば良いというものではない。寧ろ、混沌に形式を付けるのだから、ーこれはつまり、どういう理念を支持するか、ということだがー、問題がいつの世もあるのは、当然のことなのである、自然のことなのである。
㈡
人間は、ニュースなどを見て、よくも人殺しなどするよなあ、と軽蔑の念を抱くが、もしも街のはずれを歩いていて、ピストルを構えた人間に狙われたとしたら、近くにあった斧で、その相手を自己防衛のために殺すだろう。
これを客観的に見て、いくら正当防衛だとしても、その確証が得られない以上、殺人犯とされ、人間は、ニュースなどを見て、よくも人殺しなどするよなあ、、になるのである。問題の当事者は、常に客観的視座に置かれてしまう、という訳なのだ。
㈢
つまり、こういうことを、地上を見て、地下生活者の記録として、残していくべきなのだ、という話なのであって、事の重大は、その記録の筆跡にでも、その筆跡の力にでも見てくれ給え、ということなので、あるから、記録とは、何ものにも代えがたいという信念から、俺は記録している。
そうした、地下生活者の記録は、奇跡の墓地のために、云わば、地獄落ちせんがために、粛々と生きることの重要性を説いている。しかもその記録が、もしも、無意識が入っていたら、それこそ、その記録は、神の領域になるだろう、つまり、無意識の記録、ということだ。




