七 猪悟能、三蔵一行に加わる
さて、玄奘らが吐蕃の商家を訪ねてみると、それはもう見事な繁盛ぶり。しかし、良くみてみれば一番働いているのは件の妖怪ではないか。
「三蔵様、何か話違うのではありませんか?」
悟空がボヤく。
「人の業というものなのでしょうかね。悲しき事実です。まあまずはご主人のお話を聞いてみましょう」
結局のところ、主人の話を聞いても悟空は首を捻るばかり、玄奘はニコニコと聞き流すだけの何の益もない話であった。一旦商家を出た後、宿に入って悟空が嘆息する。
「要するに妖怪だからダメだってことでしょ?俺からしたらあの主人のが悪人に見えますがね」
「まあ、ある意味そんな人の世の業から彼(妖怪)を救い出すことが救世となるのではないですか」
この坊さん怒らすと俺でも死ぬかもしれんなと、悟空は内心そう思った。
「ただ、あの妖怪、腕は立ちますよ。俺とどっこいどっこいじゃないですかね」
玄奘がピクンと反応する。
「おや、孫行者がそこまで他を評価するのは珍しいですね。拙僧には何度も挑んできたのに」
「まさか人の身で妖仙ぶちのめす相手がいるって、どこの世界の人が信じますかっての!」
「まあ、そんな事もありますよ」
ねえよ!本当に計り知れん坊様だ。
「さて、策としては色々思いつきますが、実際のところ婿殿の話も聞いておきたいところですねぇ」
あ、この顔知ってる。曹操が有能な家臣見つけた時の顔だ。
「例えば、俺が小さな姿に変化して婿殿の話を聞いて来るとか、どうですかね?」
「お任せしましょう。では、このような話を持ちかけてください」
玄奘の指令を受け、悟空は変化の術で目立たない姿となり、婿殿の元へ向かった。
「猪悟能どの、猪悟能どの」
「おや、お主先ほど店を覗きにきていた猿の妖仙ではないか。落ちぶれた私の姿を笑いにきたのか?」
卑屈だなぁ
「お前、ここの主人から排除されようとしてるぞ」
「知ってるさ。ただまあ、その辺の妖怪や武人程度じゃ俺を倒せないだろうけど。取経者の弟子になれって観音菩薩と約束してるから、取経者さえ見つかれば出ていくんだけどね」
あれえ?
「えと、あれ?じゃあ奥方は?」
「この人私に手を出さないんですよ。観音様との約束の話も伺っています」
「どっひゃあ!」
突然の声に悟空といえども驚いた。
猪悟能以外いないと思っていたが、実は気配を消して妻もそこにいたのである。
「私、こちらの末娘、翠蘭と申します。そなたと先ほどうちに見えていた方、徳の高いお坊様とお見受けいたしましたが、悟能の約束の取経者様なのですか?」
ご都合主義もここまで来ると嫌味だなクソッタレ。
「色々調子狂うなあ。奥方は猪悟能どのへの愛情とかは全くなしで、いってえ!」
翠蘭に殴られる悟空。この世界の人間はどうして妖仙にダメージ与えられるんだよう。しかも涙目の美少女とかメンタルにも来るぜ。
「私はこの人を心の底から愛しています」
「ああ、全てを受け入れてくれるこの高貴な妻を愛さない夫など居るものであろうか!」
あー、ぷらとにっくとかいうやつね、へーへー。
しばらくがっぷり四つに抱き合った夫婦を眺めた後、悟空から切り出す。
「そこまで覚悟が決まってんなら話は早い。三蔵様からお預かりした策をお伝えいたします」
何か調子狂うなぁ、俺ひょっとして悪役だっけ?つうかラブラブなん見せられてすっかり毒気抜かれちまったぜ、などなど、ぶつぶつぼやきながら使者が去ると、夫婦は正対して佇まいを整えた。
「翠蘭殿、短い間でしたが、貴女との生活は私にとってかけがえのない充実した日々でした。流浪の身を拾っていただき、ありがとうございました」
頭を下げる猪悟能に翠蘭はコロコロと笑いかける。
「何を仰いますの、わたくしに言い寄る男は数あれど、貴方ほどの愛情を持った方は在りませんでした。わたくしは真実の愛を貴方から頂きました。これ以上を望むは強欲というものです」
別れの水盃を交わす二人。堂々として清廉、神々しくもある二人であった。
一方、宿に戻った悟空は飲むしかない。
「良いなあ、俺も愛してくれる奥さんとか欲しい」
「仏門とて妻帯を禁じているわけでもありません(註:玄奘は大乗仏教の僧なので出家の妻帯は出来ませんが、ここはちょっとユルくしてます)し、ああ、そうだ、カーマ・スートラについてお話しいたしましょうか」
悟空、第二部あたりで魂が抜ける。
翌朝、小用で出かけると店を出る猪悟能。店の主人と頷き合い、後を追う2人の刺客。
住民らが見ていたのはそこまでで、以後は一通の便りで主人には妖怪は退治た事の報告が届いた。それ以来、吐蕃で豚の妖怪の姿を見たものはない。
で、その一行。
玄奘三蔵に礼を尽くす猪悟能の姿がある。
「猪悟能、三蔵様に付き従い、天竺までお供仕ります。」
「よろしくお願いしますよ」
「ところで、これから修行ですし、今まで禁欲した分、これからは好きなもん腹一杯食いたいんですがね?」
「おや、聞くに猪どのは五葷三厭を摂らぬようここまで精進されたようですが?」
意味深なにっこり
「あー、ダメっすね」
「心意気は充分です。今後はその八戒を採らぬ戒めとして猪八戒と名乗りなさい。無茶をしなければ構いませんが、腹一杯は仏道には即しませんね」
意気揚々と旅路を進む2人の後を、寝不足で目を真っ赤に腫らした悟空がトボトボと続く。カーマ・スートラって良い子は検索しちゃダメよ。