一 玄奘三蔵、独り国禁を破り天竺を目指す
先ずはこの話の主人公、玄奘三蔵について簡潔にまとめる。
時は隋朝の末期、乱世の気運高まりつつあった頃の話。
陳留に陳慧という高潔な人が居た。
陳慧には四人の子がおり、いずれも英雄俊傑の相を有し、中でも四男の褘、字を玄奘という子は、幼き頃より秀でた才能を持ち齢8歳にして孝経に理解を示し、仏門に帰依すると瞬く間に経・律・論の三蔵に精通してしまい、28歳の若さで最早国内で得られるものが無くなってしまった。
後の世に玄奘三蔵、又は三蔵法師として広く知られるようになるのが彼である。
世は唐の太宗、李世民の治政となって間もない貞観3年、玄奘は仏教の原典を天竺に学びにゆきたいと、留学の許可を願い出るが、まだ整わぬ国内事情もあり、色良い返事は貰えなかった。
大概の者はここで諦めるところではあるが、何せ玄奘、生半な知識欲ではなく既に国内のありとあらゆる経典を読み尽くし、あまつさえ暇だからと少林寺の武芸書まで諳んじるほどの変態ぶりなので、当然我慢ならない。
「行くなと言われれば余計に行きたくなるというもの。私は一人ででも天竺に至り原典を紐解き悟りを拓くのだ。」
最早何を言っているのか分からないが、決めるとなんの躊躇いもなく行動に移すのが天才の掴みきれないところであり、
荷駄をまとめると誰の制止も聞かずに一人旅に出てしまった。
初めは西方へのガイドとして胡人を1人雇いはしたが、先の行路の困難さと国禁を犯しての他国行に恐れをなして帰りたいというので、玄奘も自らの強行軍に付き合わせるのを忍びなく思い、すんなり帰してしまった。
以後は玄奘ただ独り、砂漠を西へ西へと進むこととなる。
はてさて、今後如何なる艱難辛苦が訪れるやら、長大な求道の旅は始まったばかり。