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まじめ騎士は悪役令嬢を更正したい

作者: 羽生真魚

「ソフィア嬢! 危ないではないか!」

 階段から数段落ちたアイリーンを抱き抱え、ウィルがこちらを見上げている。

 学院の生徒達が何事かと周りに集まってきた。


「その女が勝手にふらついて踏み外しただけです」

 いや、本当にそうなんだけど。この群衆の中でそうだと思っているのは、アイリーンと私の二人だけだろうということは間違いない。

「あ、私が踏み外しただけなんです」

 アイリーンが、ストロベリーブロンドの髪から弱々しげにウィルを見上げ、彼の手をそっと押さえた。


 私はこの場面をうっすらと知っていた。

 アイリーンは私に声高に罵られ、階段下に突き落とされたところを、ウィルに助けられるのだ。

 いつの頃からか、学院で起こる出来事や自分の行く末が、やたらと目の大きいイラスト画がフラッシュバックして見えるようになっていた。

 この出来事をきっかけに、まじめで女っ気のないウィルとアイリーンの交流が始まることも、なぜだか知っていた。


「馬鹿馬鹿しくってやっていられませんわ」

 そう言って、靴音も高くこの場を立ち去る。

 皇太子から婚約破棄を言い渡されるであろう卒業パーティーまであと半年。

 皇太子が愛するアイリーンを虐めるヒステリックな婚約者でいるのもあと少しだ。

 昔は、このろくでもない運命を改善できないか色々策を練ったものだが、運命の強制力は凄まじく、最近はもうすっかり諦めて、早く時が過ぎないかと願うばかりだ。


 立ち去る私などもう視界になさそうなウィルは、アイリーンに怪我がないか心配げに話しかけている。

 誰にでも優しいウィル。

 私の初恋の人。


 おそらく最後にアイリーンが選ぶのは、ウィルではなく、皇太子のエドワードなのだろうが、心は穏やかでない。

 みんながアイリーンに恋をするのだ。

 ウィルももれなく、アイリーンに恋するのだ。

 早く全てを終わらせ、学院など卒業してしまいたい。


 皇太子妃の地位を失う未来も、家を勘当される未来も色々受け入れているつもりだが、今日は少し堪える。

 少し赤みを帯びてきた空の中、馬車に乗り込むと、夕暮れまで草原でウィルと一緒に遊んでいた子供時代をふと思い出した。


   ◇


 アイリーンを医務室まで連れて行き、特に怪我などはない事を確認したウィルは、今日こそはソフィアに行って聞かせないと、と気を荒立たせて公爵家に帰宅した。

 元々父が公爵家の警護を担っており、家族自体も公爵家の敷地で暮らしていたので、ソフィアとは身分は違うが、子供の頃よく遊んでいた。


 あの日からだと思う。ソフィアが変わってしまったのは。

 十歳くらいだったと思うが、婚約者のエドワード王子と仲良くなれないソフィアはよく僕に愚痴をこぼしていた。

「エドワード王子なんて嫌い。ソフィアはウィルが好き」

 そのような事を確か言われたのだ。

 僕もソフィアが大好きだったから、手を取り、頬に口付けた。


 それを見た公爵家ご夫妻と僕の父は激怒し、僕を鞭打った。

 背中の痛みも相当なものだった気がするが、横でソフィアが「ごめんなさい。もうやめて」と泣き叫ぶ声が今も鮮明に残っている。


 あれ以来ソフィアはもちろん僕との距離を置いた。

 そして気がつけば、ヒステリックで弱い者いじめ。お妃教育などまじめに受けず、散財と男遊びの激しい誰からも嫌われる公女になっていた。

 

 応接間に向かうと、ソフィアがソファーで本を読んでいた。

「失礼します」

 入り口で一礼して、ソフィアの側に向かう。

「アイリーン嬢は、特に怪我などはありませんでした」

 報告しても、ソフィアは一瞬こちらを見ただけで、「そう」と本に目を戻してしまう。

「ソフィア様、確かにエドワード殿下のアイリーン嬢への好意はあからさまで、気分を害すると思いますが、暴力はいけません」

 このままでは、エドワード殿下のソフィアへの評価が下がるばかりだ。

 危険だ。もし、婚約破棄にでもなったら、お厳しい公爵家ご夫妻がソフィアにどのような仕打ちをするのか考えただけでも肝が冷える。


 ソフィアは少し考えると、全然関係のない事を言ってきた。

「アイリーン嬢は可憐で可愛らしいわね」

 いや、今はアイリーン嬢がどうのこうのではなく、ソフィアの奇行をどうにか止めたいのだ。

「確かに彼女はとても可愛らしい女性ですが、そうではなく……」

 そこまで言って、ソフィアが怒っているような強い目線をこちらに向けたので、言葉を詰まらせた。

「それなら、ウィルがエドワード王子からアイリーン嬢を奪ってよ」

「は?」

 僕に一体何を頼んでいるんだ?

「あんな下位貴族の娘、ウィルのような平民の方がお似合いよ」

 ソフィアの口汚い言葉に怒りが込み上げてくる。

 なんでそんな事を言われなくてはいけないのだ?

 僕の身分がソフィアに到底ふさわしくない事は分かっている。生まれなんて、どんなに努力しても覆すことはできない。

 いや、身分どうのこうのの話に腹が立つのではない。僕の恋愛に口を出すソフィアが許せない。

「もし、僕がアイリーン嬢とお付き合いできたら、大人しく淑女として振る舞っていただけますか?」

 売り言葉に買い言葉で、碌でもない言葉がこぼれ出た。

「ふっ。やれるものならやってみなさいよ」

 そう言って、彼女は本をサイドテーブルに置くと、怒った様子で部屋を出ていった。


 泣きたいような怒りが込み上げてくる。

 僕はただ、あなたに平穏に幸せに暮らしてほしいだけなのに。


 あの日から全てがうまくいかない。

 一体どこで何を踏み外してしまったのだろう……


   ◇


 ウィルに当たり散らしてしまってから約一ヶ月後、ソフィアは剣術大会が開かれている競技場の観覧席で、決勝戦を見ていた。

 決勝の舞台には、白の略式の鎧を身につけるエドワード王子と、黒の鎧に黒髪が映えるウィルが構え、今まさに試合が開始されようとしている。

 

「やっぱりこの試合って、エドワード殿下とウィル様がアイリーン嬢をかけて戦うのかしら?」

「私もあんな二人に争われたーい」

 遠くの席でキャッキャとはしゃぐ女子生徒の声がここまで聞こえる。

 

 ウィルに勝って欲しいのか、負けて欲しいのか、どちらなのかよく分からない。

 いやもう、ウィルが勝とうが負けようが、私は負けなのである。

 それならウィルが優勝し、騎士団への足がかりを確実なものにする方が喜ばしいのかもしれない。

 

 試合は、積極的に攻めるエドワード王子の剣をウィルが上手くかわし、激しい剣撃の音が響き渡っていた。

 ウィルの剣は凄いのだ。

 平民でありながらこの王立学校に入学できたのも、飛び抜けた剣の腕を買われてのことだ。

 昔から、ウィルの練習風景をこっそり覗いては、その勇姿に見とれていた。

 いったいあと何回、この姿を見ることができるだろうか。

 

 エドワード王子の深い踏み込みの一撃を力を流すように避けると、ウィルはカウンターでエドワード王子の喉元に向かって剣を突き刺し、喉元を覆うカバーの前でピタリと止めた。

「そこまでっ」

 審判が試合を止め、ウィルの勝ちが決まった。

 エドワード王子は悔しそうに顔を歪めたが、ウィルの肩に手を置き、勝利を讃えた。

 勝利したウィルは硬い顔をしていたが、競技場にごく近い観覧席からアイリーンが笑顔で手を振ると、ニコリと手を上げた。

 

 しくりと胸が痛む。

 ああ、そうだ。ウィルがアイリーンを射止めたら、大人しくすると約束したのだ。

 もう色々なことが、どうでもいい。

 私のことなど小指のかけらも好きではない皇太子の嫁になろうが、ならなかろうが。

 

 観覧席を立ち、歓声がまだ続く競技場を一人(あと)にする。

 明日からは、アイリーンいじめも中止だ。

 元々いじめたくていじめていた訳でもない。ヒステリーな行動にはエネルギーがいるのだ。

 卒業まであと五ヶ月か?

 家を勘当され、平民に身を落とすビジョンは未だ鮮明に見える。

 色々と準備を進めなくては……

 

 ソフィアは青白い顔でふらふらと、王都の街へ歩いて行った。

 

   ◇

 

「ブラボー!」

 多くの観客がスタンディングオベーションで、演奏を褒め称えている。

 オーケストラの前では、ソリストとしてバイオリンを奏でた青年が、優美にお辞儀をしている。

 

 彼パトリックは、街角で演奏しているのを見つけ、その音色に惚れ込んでここまで育てあげた逸材なのだ。

 パトロンとして、生活費、譜面、練習室やコンサートの開催など随分とお金をつぎ込んできた。

 世間では私の情夫なのではなどと、あらぬ噂もまことしやかに囁かれていることは知っているが、この演奏を聴いたら、皆その実力に黙らざるを得ないだろう。

 

 この後のパーティーでは、芸術方面の大御所であるウィンザー伯爵にパトリックを引き合わせる手筈だ。

 ここまできたら私がパトロンである必要もない。

 ウィンザー伯爵と繋がれば、より大きな舞台での公演も実現できるだろう。

 卒業までに間に合ってよかった。

 

 パーティー会場に行くと、色々な貴族や音楽関係者、記者などが煌びやかなシャンデリアの元、歓談に花を咲かせていた。

 ふと目を向けると、正装したウィルとアイリーンも参加している。

 音楽など大して興味はなかったくせに。

 ああ、アイリーン嬢が好きなのだろうか?

 もう勝手にしてくれ。と、このパーティーの主役であるパトリックの元に向かう。

 

「パトリック、素晴らしかったわ」

「ソフィア様。ありがとうございます。本当にあなたのおかげです」

 真っ直ぐな金髪を後ろに一つに結えたパトリックが、左手を握り、口付けた。

「あなたの奏でる世界に浸るのが、何よりも幸せなの」

 本当にそう思う。

 嫌なことばかりの世界でも、音楽はどんな時でも一瞬にして心を別世界に連れて行ってくれる。

「ウィンザー伯爵に紹介するわ」

 パトリックをウィンザー伯爵にところに連れて行くと、演奏をかなり気に入った伯爵は、早速次の公演についてパトリックに色々と提案している。

 順風満帆だ。

 才能ある者が羽ばたいて行くのが眩しい。

 

 大きな役目を終えたと少しほっとし、会場の喧騒を離れ、パトリックとバルコニーで静かに庭園を見ながらしばし休む。

 バルコニーに飲み物を運んで来てくれた給仕に礼をいい、パトリックと笑顔でグラスを合わせた。

 

 剣術大会以来、学院ですっかり大人しくなった私は、最近エドワード王子とも少し仲を取り戻しつつある。

 もし、婚約破棄されず、勘当もされなかったら、またパトリックの演奏を聞きに来ることもできるだろうか。

 そんなことを考えていたら、頭がものすごくふわふわしてきた。

 会場から聞こえる音楽が、遠くに響いて聞こえる。

 なんだか楽しい。

 間近で笑いかけるパトリックに誘われ、庭園の方に歩いて行く。

 

 パトリックは、庭園の生垣の影に立ち止まると、じっとこちらを見た。

「ソフィア様、ずっとお慕いしていました」

 唇に柔らかいものが重なる。

 ん? これはダメなんじゃないだろうか?

 思考がぼんやりと浮かぶが、流れに逆らえない。

「ソフィア様……」

 口付けが深くなっていく。

 なんで私は、こんなことをしてるんだ?

 ぼぉっと、ウィルの笑顔が頭に浮かぶ。

 パトリックが首元に唇を移し、ドレスの後ろのホックを外した。

 パトリックを押し返そうとするが、力が入らない。

 これはまずい……

 でも、思考がふわふわとまとまらない。

 バルコニーで飲んだ、甘さの強い酒のことを思い出す。

 あれか……

 

「何をしている!」

 低く鋭い声を急にかけられ、びくりとする。

 パトリックが白い正装のウィルに肩を掴まれ、後方に引き剥がされた。

「あ……私は……」

 少し正気を取り戻したパトリックが顔を青くする。

 

「ソフィア!」

 ウィルに両肩を掴まれた。

 厳しく強張らせるその顔を見て、なぜだか一気に安心感に包まれる。

「ウィル。私、何か変なの」

「くそっ」

 ウィルははだけていたドレスを元に戻すと、一気に体を抱きかかえ、早足で馬車の待つ車止めに向かって歩き出した。

 

 ウィルの胸に顔を埋めながら、その体温に頬を寄せる。

 ウィルは絶対的に優しい。

 世間の誰もが嫌うような私でも、ちゃんと守ってくれる。

 

 ウィルが好きだ。

 私は皇太子の婚約者だし、いずれ悪行から家を追い出される運命だろうけど。

 ウィルの腕の中で守られている今だけは、ウィルの優しさを独り占めしていたい。

 

 馬車の中でウィルの膝に頭を預けると、優しい手が髪を撫でてくれた。

 こんなに近くでウィルに触れるのは、子供の頃以来だろうか。

 馬車がもっとゆっくり走ってくれればいいのにと、ソフィアは幸せな子供時代を思い出しながら目を瞑った。

 

   ◇

 

 ウィルは絢爛豪華な卒業パーティーで、壁際で一人グラスを傾けていた。

 広間の前方では、エドワード王子の横にアイリーンが仲睦まじく寄り添っている。

 バイオリン弾きの青年との醜聞はぎりぎり水際で防げたが、ソフィアは学院でのヒステリックで攻撃的な奇行を再開した。

 あの日、アイリーン嬢が止めるのを振り切って、バルコニーに向かうソフィアを追いかけたのがいけなかったのだろうか……

 

 エドワード王子が皆の歓談を止め、ソフィアを一人、前に呼び出している。

 もう、嫌な予感しかしない。

 ソフィアが傷付けられる。

 そして僕は、それを止めることができない。

 

「皆も知ってのことと思うが、アイリーン嬢に対するソフィア嬢の悪質ないじめは目に余るものがある」

 エドワード王子がよく通る声をホールに響かせる。

「未来の皇太子妃にあるまじき品性だ」

 周りの貴族たちが、期待を込めて王子の次の言葉を待っている。

「学院を卒業するというこの節目の日に、ソフィア嬢との婚約を破棄することを宣言する」

 

 しんと静まり返ったホールでソフィアは深々とエドワード王子に首を垂れた。

「長きにわたり、ご迷惑をおかけしました」

 くっきりとした声でそう答えたソフィアは、目線を下げたままホールの出口に向かった。

 今までの奇行と打って変わって取り乱さないソフィアに、王子とアイリーンはぽかんとその姿を見送っている。

 

 ホールを出て行くソフィアに声をかけようとしたが、「来るな」と言わんばかりの強い目線で拒絶された。

 意外にも、一人去っていく彼女に悲壮感は感じられない。

 ただ風のように、存在を遠く感じる。

 

 結局僕は、彼女の役に立つことはできなかった。

 世間の全ての人がソフィアを嫌っても、僕だけは、僕だけが、彼女のことを大切にすることができるという自信があった。

 ぼろぼろの彼女だったら、僕を頼ってくれるとでも思ったのだろうか。

 愚かな……

 

 卒業パーティーでの婚約破棄は直ちに公爵家にも伝わり、公爵家ご夫妻は激怒した。

 その次の日、ソフィアは屋敷から忽然と姿を消していた。

 

   ◇

 

 ソフィアが煙のように姿を消してからもう半年が経った。

 あれから公爵家は、ソフィアの行方を探そうともしない。

 エドワード殿下はアイリーン嬢と婚約し、彼女を目に入れても痛くないほどの溺愛ぶりだと噂に聞く。


 僕も騎士団に入り、新人として厳しい訓練の日々が続いている。

 週に一回の休みの日は、ソフィアを探して王都中を歩き回っているが、全くといって良いほど手がかりが掴めない。

 もう王都にはいないのだろうか?

 この世にいないなんて、そんなことは絶対に考えたくない。


 王都の地図を広げ、東の端の区域の人の集まりそうなところに目星をつける。

 この区域は城から随分離れ、王都でありながらここまでくるのに馬が必要であった。

 幾分涼しくなった夕暮れの空の下、仕事終わりの人々が楽しげに明かりの灯る店に入っていく。


 随分腹も空いた。

 美味しそうな匂いが漏れ出る食堂に吸い寄せられるように入ると、こざっぱりした温かみのある店内では、すでに数組の客が食事にありついていた。


 カウンターに座ると、愛想の良さそうな中年の女性が注文を取りに来た。

 お店のおすすめを聞いて、おすすめ通りに玉ねぎが丸ごと入っているというスープと、鶏の揚げ物を頼んだ。

 あまり待たされずに出てきたスープは、体に染み渡る優しい味で、カサカサしている心を温かくしてくれた。

 しばらくして肉料理を運んできてくれた女性に聞いてみる。

「この辺りに、二十歳くらいで緑がかった青い目のブロンドの女性はいないでしょうか」

「何、お兄さん。一目惚した女の子でもを探しているのかい?」

 女性が茶化してくるが、感じの悪い人ではないので、そのようなものだと濁す。

「ソフィーちゃんの目の色は不思議な青色だったわね。ブロンド……だったかしら」

 その名前に、鼓動が速くなる。

「その方はどこに……」

「店長〜 ちょっときてもらえますか?」

 女性が厨房に声をかけると、三角巾を被ったソフィアが手を拭きながらカウンターに出てきた。

「ウィル……」

 ソフィアが困ったような顔をして固まっている。

 席を立ち、こちらに寄ってこない彼女のところまで近づく。

「ずっと探していたんだ」

「ごめんなさい。でも、大丈夫。お店も軌道に乗ってきたし」

 そう言う彼女は、学院にいた頃よりも肌艶が良い。


 店の扉の鈴を鳴らして、二人の客が入ってきた。

 そちらに目をやるソフィアに、

「お店が終わるまで待っているから」

 と言って、席に戻る。


「ソフィーちゃんは人気だから、頑張れよぉ、兄ちゃん」

 隣の席のガタイのよいおじさんに背中を叩かれる。

 やっと掴んだ彼女の存在に、気が抜ける。

 せっかくの美味しい食事もなかなか進まない。


 酒を飲みつつ待っていると、隣の席のおじさんと気付いたら話込んでいた。

 彼曰く、この店は王都の中心近くにある美味しいと評判の食堂の二号店らしい。

 ソフィアはもう何年も本店の手伝いをしていて、最近新しい店舗を任されたという。


 彼女はずっと前から、準備していたのだ。

 なぜ?

 婚約破棄になることを見据えていたのか?

 どうして、僕に何も言ってくれなかったんだ。


 公爵家時代の縁は、全て切るつもりで準備していたのか?

 この僕も切り捨てるつもりだったのか。

 せっかく会えた嬉しい気持ちも、もやもやとした雲で覆われていく。


 最後の客が帰り、清掃を終えた従業員がニコニコとこちらを見つつ、扉を出ていった。

「待たせちゃったわね」

 ソフィアが、お茶を前に出してくれた。


 お茶には手を伸ばさず、隣に座るソフィアの手を握る。

「なんで、何も言ってくれなかったんだ」

 ソフィアは困った顔で少し考え込んだ。

「未来が見えているなんて言ったら、ますます頭がおかしくなったって思うでしょ」

「僕は……君が何を言い出そうとも、全部受け入れられる」

 こちらをみるソフィアの目がじわりと歪んだ。


「もう、僕の前からいなくならないで。絶対に」

 ソフィアの後頭部に手を添え、ゆっくりと口付ける。

 もう二度と手放さない。

 この手につかんで、片時も離れない。


 ソフィアが優しく口付けに応えてくれると、涙が溢れてきて、その肩を強く抱きしめた。

 全く格好がつかない。

 でもいいのだ。

 子供の頃離した手を、もう一度掴むことができたのだ。


 王都の外れの食堂の明かりを落とした店内では、夜が更けるまでずっと二人の影が重なって、けっして離れることはなかった。



 fin.





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