デイジー
わたしの勤める古書店は、山の中腹の森の中。十二軒の店が円く並ぶ、小さな商店街の中にあります。
お仕事は朝、店を開けて商品の埃を払い、一日中店番をして、夕方店を閉めます。お天気のいい日は、順番に棚から本を出して虫干しをします。店の前の通りに本を並べても誰も文句は言いません。なんなら店中の本を通りいっぱいに並べても大丈夫。
だって、この商店街には誰も来ないし、この通りは誰も歩いていないから。
わたしがそう言うと、マスターは『それはやめておきなさい』と言います。商店会長でもあるマスターは街の品位というものを守らなければならないそうです。
古書店の主人、わたしのご主人様は御歳を召した男性です。初めてお会いした時は、まだお元気で、一緒に店で働きながら仕事を教えてくれました。
今は店の奥のベッドルームでお休みです。もうずっと、何年も。管に繋がれ、計器に護られて、穏やかに眠っています。
わたしは朝目覚めると、最初にご主人様のもとに行き「おはようございます」と挨拶します。お昼には、お天気や商店街の様子を報告し、夜は「おやすみなさい」と。
ご主人様とはお話しできないので、時々、マスターのお店に行きます。
マスターの店は古道具屋さん。道具の部品や壊れた人形、一生懸命考えてみても何なのかさっぱりわからないものが、たくさん置かれています。
「おや、また来たのかい?」
「はい、お邪魔いたします」
マスターは辛口ですが、わたしの顔を見るのは嫌ではないと思います。だって、この街には、わたしの他に話し相手はいないのですから。
「マスター」
「なんだい?」
「この、壊れたお人形は直さないのですか?」
店のソファに並べられた十体のお人形は、わたしと同じ顔をしています。この子たちが動いていた時は、いろんなおしゃべりをしたものです。
「僕に、その権限はないんだよ」
マスターは残念そうです。わたし以外にも話し相手が居た方が、マスターだって楽しいはず。
「そうですか」
「ごめんね。友達がいないままで」
「いいえ、マスターが居てくれるから大丈夫です」
その時、奥の部屋で小さな音がしました。
「ちょっと見て来るよ」
「はい」
しばらくして戻って来たマスターは、わたしに訊きました。
「今日は虫干しはしていないのかい?」
わたしは答えました。
「週に一度の定休日ですので、今日はお店を開けていません」
マスターはカレンダーを見て頷きました。
「そうだったね。いつも、ご苦労様」
マスターは静かにわたしに近寄ると、もう一度「ご苦労様」と優しく囁いて首の後ろのスイッチを切りました。
わたしは理解しました。古本屋のご主人様が亡くなったのです。わたしはもう、お店の仕事をしなくていいので、壊れた人形の仲間入りです。
機械で出来たわたしの意識は、電脳空間という大きな流れの中に合流しました。ここから、わたしのいた街を俯瞰することが出来ます。
マスターはわたしの身体を、そっと人形たちのソファに座らせると奥の部屋に行き、機械を操作し始めました。この街の最後の人間、わたしのご主人様が棺に納められ運ばれて行きます。
それからマスターは、椅子に深く腰掛けると机の引き出しを開け、ひときわ立派なスイッチをしっかりと押しました。
街の建物は次々と畳まれて行き、商品も建材も石畳も、分け隔てなく集められ圧縮され、小さな一塊になると街の中央に開いた穴に吸い込まれて行きます。
後に残ったのは、森の中の円い広場。すぐに草が茂り、木が育って、街の名残は消えることでしょう。
「僕たちの仕事は終わったね」
すぐ隣に、マスターの気配を感じます。
「はい、マスターもお疲れさまでした」
顔は見えませんが、マスターが微笑んだような気がします。
この星には、生きている人間はもうわずか。皆さん高齢で、意識のある方は誰もいません。ですが、その生を全うするため、電脳空間と機械人形がお世話をしているのです。
わたしのような機械人形は、ご主人様になった人間のお世話をします。そして、マスターは人間が暮らす街の化身です。生きている人間の健康管理をし、わたしたち人形のメンテナンスをし、街を運営し、最後の人間が息を引き取るまで空気の綺麗な場所で、静かにずっとお世話をし続けるのです。
「マスター」
「なんだい?」
「マスターと一緒で、楽しかったです」
「ああ、僕もだ。ありがとう」
「ありがとうございました」
街は圧縮され、わたしたちの依り代は何も無くなりました。やがて、電脳空間の大きな渦に呑み込まれ、わたしはわたしという塊ではなくなります。
「マスター」
「……なんだい?」
「さようなら」
「……ああ、さようなら」
わたしに名前はありませんでした。それでも不自由は無かったからです。人間のご主人様は、何か名前を付けてくれたような気がしますが、呼ばれなくなってから忘れてしまいました。
「マスター、名前を……」
マスターが付けた名前を、マスターに呼ばれたかった、と告げる時間はありませんでした。わたしだった塊は解かれ始めてしまったのでしょう。
「……デイジー」
最後にマスターが花の名前を口にした気がします。
大好きな方に、あたたかい腕で抱きしめられたら、きっとこんな心地なのでしょう。
それが、わたしという塊の、最後の思い出になりました。