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飼い犬は黙して語らず

作者: ねむていぞう



     一


 R製薬会社の会議室には異様な雰囲気が漂っていた。

 広報部の大川部長は、その禿げ上がった額に大粒の汗を滲ませながら、懸命に新商品の特徴を訴えていたスタッフの説明を聞いている。そして一通り話が終わると、それまで固く閉ざしていた口を開いた。

「このシャンプーは成分はもとより、コスパ面でも他社製品を大きく突き放すものだと自負しております。どうか貴殿方のお力でより多くの顧客を獲得して頂きたい」

 そこまで力説すると、手にしたハンカチで額の汗を拭き取り、「何かご質問はありますか」と結んだ。

 場は一瞬静まり返った。誰もが口を閉ざしている。その場の雰囲気を素早く察知してか、隣に座っていたクリエイティブ・ディレクターの岡田さんに私に目配せをした。仕方なく私は先ほどから気になっていた事を口にしたのである。

「この成分表に記載されている化学物質ですが……」

「それが何か?」

「この成分は主にフロアグリーティングなどの洗剤に使われるものなのではないでしょうか」

「ハハハ。そうか、それが発癌性物質だと君は言いたいんだね。こういう日用品の仕事は初めてかね」

「はい」

「今どき化学物質が使われていない商品なんて探し出すことすら難しいんですよ。それに使われてるのはごく僅かだ。問題はない。そんなことはあまり気にする必要はありませんよ。他に何かありますか」

 大川部長の確信めいた言葉を聞いて、私は何も言えなくなってしまった。

「何もなければ新商品のオリエンテーションはこれで終わりたいと思います。素晴らしい広告を期待してますよ」

 そう言うと大川部長は憮然とした表情で会議室を出て行った。



     二


 その日、R製薬会社では新商品のデビュー広告へ向けてのオリエンテーションが開かれた。

 広告は三社競合となるプレゼンである。クリエイティブ・ディレクターの岡田さんはこのプレゼンを絶対に勝ち取るんだと息巻いていたが、大川部長の機嫌を逆撫でするような私の発言に肝を冷やしたようだ。

「くれぐれも慎重に頼むよ」

 と、どことなく弱腰になっている。

 新商品の成分に化学物質が使われていることは納得できる。確かに大川部長が言うように、今どきの日用品にはこうした物質が重宝されていることは知っていた。歯磨き粉、シャンプー、デオドラント、数え上げればきりがない。

 ただ、大川部長が新商品の成分が使われているにも拘わらず、絶対の自信を持つその根拠が私は知りたかった。そのことに関して別に非難する気など更々ない。

 私が化学物質に目を向けたのは友人からの入れ知恵からだった。彼は日用品を主に販売するあるネットワークビジネスにどっぷりと浸かり、私にも強くそれを薦める。

「日本の政府は化学物質に関して疎いんだ。危険な発癌性物質でもその規制は緩い。だからそうした物質を使わない日用品を選ばないと安全は手に入らないんだよ」

 そう力説して日本で主に日用品に使われている化学物質のリストを私に手渡した。R製薬会社の新商品に配合されている化学物質の名もそのリストに入っていた。

 彼の話の節々にはビジネスを臭わせる言葉が強く感じられた。ネットワークビジネスで大成した話はよく耳にすることがある。おそらく彼も人の健康を真剣に考えているような話をしているが、心の奥ではそうした勝ち組を視野に入れているのだろう。こうしたビジネスには私はまったく興味がなかった。

 ただ、彼の話の中に気になるところがある。それは化学物質は人の皮膚を簡単に通過して、血管に入り体中に駆け巡ると言うのである。僅かな量の化学物質でも、それを使い続けることで体内に蓄積される。これが原因と思われる症状も多数報告されていると言うのだ。

「母親の胎内から取り出された赤ん坊が、本来あるべき皮膚がなかったという事例がある。その原因は解き明かされてはいないけれど、母親がそれまでの人生で体の中に蓄積してきた化学物質にその原因がないという確証はないんだよ」

 話が随分と飛躍していると思ったが、彼のこの話が妙に私の頭に巣くってしまったのは、私の妻が妊娠していたからだろう。

 化学物質、妊娠、赤ん坊……。それらの言葉が私の頭の中で渦巻いていた。



     三


 R製薬会社の新商品であるシャンプーのデビュー広告は、競合プレゼンを勝ち取り、私たちの仕事となった。

 デビュー広告は新聞広告十五段を始め、女性誌タイアップ広告、そしてテレビコマーシャルにまで及ぶ。そのすべてのコピーに私が携わることになる。

 この大役を私が最初に報告したのは妻だった。今の仕事に就いてから新聞広告や雑誌広告は数多くこなしてきた。が、これほどまでに大掛かりな仕事は初めての経験である。特にテレビコマーシャルなどはやったことがない。不安はあるが、それ以上にやる気もある。

 生まれてくる子のためにも頑張らなければならない。

「広告が出たら、私、自慢しちゃおうかな。これ、主人が書いたのって」

 妻も喜んでいた。そして私が持ち帰った新商品のシャンプーを手に取り、「試してもいい?」と言う。

「ああ、感想が聞きたいな」

 新商品のシャンプーにはまだ名がない。ただ無機質な記号が書かれたラベルが貼ってあるだけだ。まずはそのネーミングから考えなければならない。

「さあ、忙しくなるぞ」

 不思議と心は穏やかだった。


 三流大学を卒業して今の広告代理店へ入ったとき、最初に配属されたのは産業広告を主に制作する部署だった。そこで広告のいろはを教えてくれたのが岡田さんである。そのころ岡田さんはまだクリエイティブ・ディレクターという肩書きではなく、コピーセクションのチーフだった。

「キャッチフレーズなんて誰でも書けるんだよ。一つのコンセプトに対して三百くらい書けばいい。このときは落書きでいいんだ。とにかく三百本書く。その中にはこれだというものも一つくらいはあるもんだ。それを見つけ出すのがプロのコピーライターだよ」

 この岡田さんに教えられた通りに私はこれまで仕事をこなしてきた。そして、岡田さんが一般広告の部署に移り、そこでクリエイティブ・ディレクターになったとき、私をその部署のチーフコピーライターとして配属させた。

「今回の仕事はおまえにとって一般広告でのデビューになる。絶対に成功させような」

 岡田さんは私にとってコピーの恩師である。その恩師がそこまで言ってくれるのだから失敗は許されない。

 私はデスクに向かい、新製品のネーミング案を思い浮かぶだけ大学ノートに書いていった。



     四


 試行錯誤の末、新製品のネーミングはどうにか決まった。この案が決まるまでには大川部長との間にかなりの打ち合わせが行われたが、最終的には私が最初に出した案が採用されることとなった。

 ネーミングが決まればいよいよ新聞広告による告知である。企画会議では実に様々な案が出された。新聞広告が掲載されるのがちょうど七月の初旬であったから、海を感じさせる方向からの案が多かった。さらにターゲットは二十代から三十代の女性ということで、広告のビジュアルとしては若い女性をモデルとして起用しようということに意見がまとまった。

 誰もいない夏の浜辺に若い女性が一人佇む。美しく長い髪が潮風に靡く……。

 これがデビュー広告のビジュアル案である。さて、これにつけるキャッチフレーズを考え出さなければならない。

 夏、海、若い女性、美しい髪……。これらのキーワードからキャッチフレーズを練る。私はいつものように大学ノートを広げ、そこに思い付く限りの言葉を書いて行った。

 岡田さんが言うように、この広告が私の一般広告での初仕事になる。そう思うと自然に力が入る。広告業界の中には一般広告の仕事をしたいというクリエイターは多い。広くメディアで活躍しているようなクリエイターは、その殆んどが一般広告で世間に知られるようになった。

 ただ、私はそうした願望はあまり持ち合わせていない。確かに産業広告のように工場で使われる精密化機械を特定のエンジニアへ向けて広告を発信するよりは、一般の人々に広告する方が華やかさはあるだろう。が、もともと私はこの仕事で名を成す気はなかった。就職時期にたまたま目についた求人が今の広告代理店だったから安易な気持ちで入社しただけだった。そこで岡田さんに出会い、広告に興味を持つようになったのだ。

 しかし、今回の仕事をするにあたって私の考えには変化が見え始めた。妻の妊娠で欲が出てきたのだ。できることならば生まれてくる子供に自分の仕事を見せたいという思いが心のどこかに芽生え始めた。これは自分でも意外なことだった。

 広告などというものは、真にそれを求める人へ向けて商品、或いはサービスを効率良く訴求することであり、その制作者が前に出ることではない。

「クリエイターなんてものはな、あくまでも影の存在でいいんだよ。コピーライターが書いたキャッチフレーズがどんなに話題になろうが、それが紙に印刷されて人の目に曝された後はお払い箱さ。でもな、それでいいんだよ。俺たちは流行作家じゃないんだから」

 岡田さんは酔うといつもこんなことを口走った。

 同感である。私も広告に対する思いは岡田さんと同じだ。産業広告に携わって十年、私は常に自身の名声よりもコピーライターの使命を重視してきたつもりてある。

 だが、ここに来てその気持ちが揺らいできたのは否めない。


 気かつくと鉛筆の動きが止まっている。大学ノートに連ねたまとまりのない言葉が目に入る。しかし、世に名作と謳われるキャッチフレーズは、こんなところから生まれるものなのかもしれない。

 私は気を取り直してノートに向かった。



     五


 新聞広告の入稿日が迫っていた。既にコピーは完成し、あとは最終的な手直しをするだけだ。

 そんなときに或事件か勃発した。

 地方にある石鹸製造工場で起きた化学物質による事故である。現場の作業員が誤って原料となる化学物質を体に浴びてしまった。作業員の皮膚は広範囲に渡り爛れてしまい重体だという。

 この事故はテレビのニュース番組や新聞の記事に大きく取り上げられ、週刊誌にも特集か組まれた。

 報道を受け、岡田さんと私は早速R製薬会社の広報部に呼び出された。

 既に会議室では大川部長が苦々しい表情をして私たちを待っていた。

「いや、困ったことになったよ」

 大川部長は開口一番にこう切り出した。「もう知っていることと思いますが、例の化学物質による事故の件で今日はお集まり願いました。あの事故の報道がかなり世間を騒がせまして、我が社のホームページには既存の商品は安全なのかという問い合わせが殺到してる状態なんです」

「あの取り上げられ方はひどいものですね。日用品はすべて危険だと言ってるようなものです。新商品の市場導入のこの時期に大変なことになりました」

 すかさず岡田さんは相槌を打った。

「本当ですよ。何を今更という感じです」大川部長は顔には笑みわ浮かべているが、内心では腹が煮えくり返っているのが分かる。そして、「それで、貴社に頼みたいのは、どうにか我が社の製品が安全であるということを言葉で表情してもらいたいのですよ」と、本題に移った。

「分かりました。で、どのくらいのトーンでいきますか?」

 岡田さんは既に乗り気である。そう言ったあとに横目で私を見た。

「そうですね、ダイレクトに安全だという言葉は使いたくないですな。少し距離をとって訴えたい」

 大川部長と岡田さんの視線は私に向けられた。さも、できるか、と言いたげに。

「できれば製品の安全性を裏付けるような資料なりがあれば良いのですが」

 やっとのことで私は切り出した。すると大川部長の表情が強ばるのがありありと分かった。

「そんなものはありませんよ」ここでしばし考える素振りを見せ、「ああ、あなたにはまだ私たちの意向が理解できていないようですね」と、低い声で話した。それから掌で禿げ上がった額を押さえながら物静かな声で語り始めた。

「いいですか。化学物質が安全でないことは私たちは百も承知です。これが人の体にもたらす害は明らかだ。しかし、私たちは何もボランティアで商売をしてるわけじゃない。物を売るからには利益を考えなければならないんですよ。あなたたちにいったいどのくらいの予算が割り当てられてると思ってるんですか。そのお金を捻出するためにも、安価な化学物質を使って商品製造の費用を極力抑えなければならないんですよ」

 そしてこう結んだ。

「何度も言うように、化学物質と言ってもほんの僅かだ。有害になる心配はない筈です」



     六


 R製薬会社からの帰り道、私も岡田さんも無口だった。岡田さんは始終苦い顔をしている。やはり先程の私の発言が原因なのだろう。

 駅に入り、それぞれ別のホームへ向かうときに岡田さんは私の肩に手を置き、

「まあ、兎に角やるしかないだろう」

 と、言って少しだけ笑顔を見せた。

 家に帰ると妻が頭にタオルを巻きながら玄関まで出てきた。

「お帰りなさい。今日は早かったのね」

「ああ、作業は家でやるから会議のあと直帰したんだ」

「そうそう、あのシャンプーなかなか良かったよ。泡立ちがとっても良くて洗いやすかった」

「あれを使ったのか」

「うん。ボトルも使いやすかったな」

 言い知れぬ不安と怒りが私の中で込み上げてきた。私はすぐさまバスルームへ行き、ラックに並べられたボトルのうち、R製薬会社の新商品を取り、そのギャップを開けて中の液体をすべて排水溝に流した。

「どうしたの?」

 怯えながら妻が言う。しかし私はそれには答えずに無言で自室へ入った。

 デスクに向かい大学ノートを開く。が、何も書く言葉が思い付かない。

 確かに考え過ぎなのかもしれない。化学物質が人体に悪影響を及ぼすとは言っても、シャンプーなどに配合されている量は微々たるものである。それが本当に害になるのであれば、それらをこれまで使い続けてきた自分たちにも少なからず影響が出ていてもいい筈だ。別に気に止める必要などないのかもしれない。

 ただ……、先程妻の洗い髪を目にしたとき、咄嗟に友人が話していたことが頭の中に甦ったのだ。そう、皮膚のない赤ん坊の話である。それを考えたらついあんな行動に出てしまった。

 私は冷静さを取り戻すために部屋の窓を開けて煙草に火を点けた。

 空を見上げると悔しいほど丸みを帯びた月が目に入った。



     七


「例のコピーはどうだ。上手く書けそうか?」

 出社すると岡田さんが待ち構えて、私の顔を見るなりそう言った。コピーはまだ書けていない。

 浮かない私の表情を見るなり、岡田さんはすべてを悟ったようだった。私の肩に軽く手を置いて笑顔になる。

「今回のコピーは新聞広告や雑誌広告の隅の方に小さな級数で付け加えるだけだから、そんなに気張らなくてもいいんじゃないか。まあ、内容は少し難しいと思うが、おまえなら大丈夫だ」

 そう言って立ち去った。

 大川部長はこの件について、

「言葉は少なくていい。製品が安全であるというニュアンスが伝わればそれでいいんですよ。コピーライターならお手のものでしょ」

 そう語っていた。

 もしもこのシャンプーが有害であるならば、私はこのコピーを書くことで多くの人々を危険に晒すことになる。そんなことは断じてあり得ない、そういう気持ちが心のどこかにはある。しかし、生まれてくる子のことを思うと不安は雪のように積もるのだ。だが、大川部長の求めるようなコピーを、今は書く以外に取るべき道はない。

 私は再び大学ノートに向かい鉛筆を走らせた。

『当社製品は配合された成分にいたるまで、徹底した検査のもとに生産されたものです。必ずやご満足いただけるものと確信しております』

 そこまで書いて鉛筆を置いた。それから深い溜め息のあと、何だか肩の荷が降りた気がした。

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