吸血者の時刻
世界を橙色に染めていた夕日が地平線の彼方に沈み、夜の帳が降りてきた。薄闇は僅かの間に濃厚な真闇へと変わり、あらゆる物を深い暗色で満たしていく。
天高くに星の瞬きが見えないのは、厚い雲が夜空を覆っているからだ。月の姿も包み隠し、自然の明かりは何処にも無い。
闇に支配された都市の一角に、諸々の電車が行き交う大鉄橋がある。市街地からも外れ、地方への往来に利用される路線だった。線路自体は立派な物。しかしその下方部、鉄橋を支える柱が群を成して連なる場所は、昼間でも日の光が当たらず、陰鬱とした気配に包まれている。
特に何がある訳でもなく、だだっ広い空洞のような鉄橋下には、滅多に訪れる者がいない。素行不良な若者達の溜まり場にも、改造車による暴走行為に酔いしれる集団の集会場にも、社会不適格者の住居にも、危険人物達がイカガワシイ物品を交換する場所にも利用されてはいない。
人目を避けたがる者達ですら近寄らない場所。其処には、近寄り難い何かがあった。それが何であるかは誰にも判らないが、人は無意識に其処を避けている。まして月も星も隠れてしまう暗黒の夜なら、尚更に訪れる者はいない。
にも関わらず、この夜は来訪者の姿があった。それも二人。
天井に相当する鉄橋を遥か頭上に見上げ、大きさも形も統一性を欠いた砂利が、地上部には無数に敷き詰められている。その簡素でゴツゴツした足場の上に立ち、二つの人影は相対していた。
「ねぇ、お嬢さん。こんな夜更けに、こんな所で何をしてるのかしら?」
闇の中に浮かぶ影の一つが、囀るように喋る。滑らかな声質をした、女性の声だった。
「別に……散歩よ」
それに向き合うもう一方の影が素っ気無く答える。張りがあり、よく通る声。こちらも女性のものだ。
二つの影は対峙したまま動かない。深い闇に身を落とす故、視界が利かないのとは違う。互いに相手の出方を窺う、警戒の姿勢であるからだ。
両者は暗色の世界を挟んで睨み合う。互いの素性について探り合うでも、目的について深く言及するでもない。そんな事は語らずとも、感じ取っている風である。
闇に隠れて見えない筈の瞳を互いが見据えていた時、彼方で音が響いた。遠方で何かが光り、それは鉄橋を震わす鳴動と共に近付いてくる。
轟音が鉄橋を叩き、支柱を伝って砂利道に振動を与えた。方々に散らばる小石の群が擦れ合い、ぶつかり合って、小さな音の盛大なオーケストラを始める。尤も、全てが乱雑に配された不協和音の大合唱でしかなかったが。
その内に光は、睨み合う二者の頭上近くへ迫ってきた。丸い二つの光、鉄橋を渡る電車のライトが線路の端から漏れ、二人の姿を照らし出す。
一人は栗色の髪をセミロングにしたOL風の女性。藍色の上着とスカートを着て、赤いハイヒールを履いている。年齢は20代後半、平均的な身長と平凡な顔立ち、これといった特徴のない女性だった。
だが一点だけ常人とは異なる部分がある。眼だ。黒い切れ長の双眸は、猫科のそれを思わせる縦長の瞳孔をしている。更に異様な程の鋭さを持ち、餌を前にした野獣のように爛々と輝いていた。
「散歩、と言ったわねぇ。この辺りは危険よぉ? 特にこんな月の無い夜はね」
その女性が口を開き、言葉を吐き出す。妙に粘ついた、絡みつくような声音は、先より一段低められていた。それと同時に口から赤い舌が伸び、唇をゆっくり舐めていく。
「そう、危険なの……どうしてかしら?」
もう一つの影から、やや抑揚を欠く質問が飛んだ。その言葉が紡がれる最中、電車のライトが彼女の姿も照らし上げる。
人工の灯が闇を払い現れたのは、薄手のジャケットを着込み、艶やかな光沢を放つ黒塗りのタイトスカートを穿いた、褐色の肌を持つ女性だった。
豊かな紫の髪は腰にまで届き、ややつり上がった青瞳の奥で、確固たる意志を具現した光が輝きを放っている。鼻梁は真っ直ぐ通り、顔の造作は極めて秀麗。何処かのモデルかとも思えるスタイルを誇り、しなやかさと美しさを具えた全貌には、そこはかとない凛々しさが宿っていた。
年齢は20代前半、身長は160cm強。スカートから覗く長く細い脚にはレザーブーツを履き、天与の美貌湛える顔へ不敵の色を宿している。
「ふふふ、貴女がそれを聞くの? 狩人さん」
OL風の女性は紫髪の女性へ薄く笑いかけた。全てを承知しているという、底知れない笑みである。その笑顔の下で口を開き、鋭すぎる犬歯を覗かせた。
二人の姿を照らした後、電車は彼女等の存在になど気付かぬまま鉄橋の上を走り抜けていく。重量物が線路を踏み叩く一定の音が頭上を通っていく時、OL風の女性は鋭利な犬歯――牙を剥き出しにして、紫髪の女性へと飛び掛った。
「私みたいな吸血種がいるからよォ! 知ってるでしょォ!」
砂利を蹴り、高く跳躍するOL。眼は異常なまでにギラつき、口腔の上下に伸びた四本の牙が、対面女性の首筋を狙う。しかし女性は逃げる事をせず、襲い来るOLを正面から迎え撃った。
闇の中で尚鈍く光る牙が眼前に迫った時、女性は右手五指を握り込んで拳を作ると、腰溜めに構えたそれを正面から一気に打ち込む。風を裂く迅速な一撃はOLを真正面から捉え、その顔面へ強烈なパンチを叩き込んだ。
肉付きの浅い細腕が繰り出したとは思えない見事なストレート。それはOLの顔面中心に激突するや、その体ごと後方10数m先へ吹き飛ばす。OLは首を仰け反らせて宙を飛んだ。
だが、砂利の上に背中から叩きつけられる前に空中で姿勢を戻し、OLは両足から地面に降りる。それと同時に踵を踏み込み、体に掛かった衝撃を殺して直立した。
「あ〜あァ、いいパンチくれるじゃないよォ。お陰で私の鼻が逝っちゃったわ」
砂利の上に立つOLは顔の中心、鼻の部分を摩りながら言葉を零す。その鼻は奇妙に曲がり、完全に折れていた。しかしOLは鼻孔から垂れる血を手の甲で拭うだけで、然して痛がっている風はない。
「ふふふ、流石に簡単には吸わせてくれないわねェ。けど、まァいいわ。たま〜に、運動もしないといけないしねェ。付き合ってくれるんでしょォ、狩人さァん?」
OLは口唇を不気味な形に歪め、底意地の悪い笑顔を浮かべる。次の瞬間、両手の指に光る爪が突如として長くなり、刃物めいた輝きを発した。
「きゃっはァ!」
調子の外れた奇声を上げて、OLが駆け出す。踏み出す度に足下の小石が砕け、小さな石片を撒き散らした。あっという間にOLは女性の正面まで駆け込み、彼女の胸部を狙って右腕を薙ぐ。
対する女性は反射的に一歩退がり、紙一重でこれをかわした。だが続け様にOLが左手を繰り出す。それは女性の顔面を狙う攻撃だった。女性は首を退いてこれも避けるが、OLの鋭い鉤詰めは、逃げ遅れた彼女の前髪を数本切り裂いていく。
「あっハ! いい体捌きじゃなイ。だけど避けてばっかりじゃ、ツマラナイわよォ!」
左腕が流れきった直後、また右腕が襲いきた。女性は目を細めもう一歩退いたが、電光の如き腕撃は標的を逃がさない。その軌道は女性の首をなぞるように狙っており、長く伸びた爪が血を求めるように妖しく光る。
回避が不可能だと察した女性は咄嗟に左腕を上げ、己が肉を使って爪の脅威から急所を庇った。OLの五爪は突如軌道上に現れた女性の左腕、その前腕部を抉り、皮膚と血管を裂いて虚空に弧を描く。
「あ〜、惜しイ」
裂かれた女性の腕を見ながら、OLは口の端を吊り上げた。獰猛な笑みを浮かべ、傷口から流れ出る赤い血に舌なめずりする。女性はその顔に鋭い視線を射込むと、予備動作なしに右脚を高位置に繰り出した。見事な脚線美を誇る長脚は振られた木刀のように空を滑り、OLの脇腹にハイキックを見舞う。
女性が確かな手応えを感じると同時に、OLの体は横側へ『く』の字に折れ曲がり、そのまま横方へ吹き飛んでいった。一拍の間を置いてOLは近くの支柱に激突、そこで動きが止まる。
「同じように裂かれてみたら? けっこう痛いわよ」
青い瞳に氷点下以下の冷徹な光を湛え、女性は温かみ零の冷めた言葉を、支柱に幾らか減り込んでいるOLへと吐き付けた。その間にも裂けた左腕からは血が溢れ、砂利の上へと滴り落ちる。
「く、くくく……今度のは効いたわねェ。肋骨が二、三本折れたみたイ。あハ、内臓に折れた骨が刺さってるわよォ」
OLは脇腹を押さえながら、再び砂利の上に立った。ただその表情は、気の違った狂人のように歪み、ケタケタと気味の悪い笑い声を零している。
「いた〜イ。いた〜いでぇース。早く治さなきャ」
「安心していいわ。直ぐ楽にしてあげるから」
首を横に曲げ、舌を垂らして笑うOLに、女性は無感情に言い渡した。言いながら左手の五指を握り、解き、握り、解きを繰り返す。そうする事で傷口から止め処なく垂れ続ける血が、指の一本一本へ伝わっていった。
「あハ、ほんト? じゃァ、早速治しましょうよォ。あんたの血を吸えバ、こぉ〜んな傷直ぐに戻るからさァ!」
叫ぶと共にOLは砂利を蹴り空中へ舞う。次いで支柱を後足で蹴り飛ばし、勢いをつけて女性の許まで一気に向かった。急速に接近してくるOLを両瞳に映したまま、女性は左腕を握り込む。するとその手に付着している血が輝き出し、女性の左腕は肘窩より下が一瞬の内に分厚い両刃の巨刃へと変容した。
「なぁッ!? 血恢!」
それを見たOLが両目を見開き、驚愕の声を上げる。驚きの言葉が終わるのと同じタイミングで、OLと女性は交差した。その刹那、女性は巨刃と化した左腕を素早く振り払い、OLの両爪を切り落とす。
OLが女性の脇を過ぎって膝から砂利に降りるのと、女性の左腕が再度光に包まれ元に戻るのは同時だった。その半瞬後、OLの左脇腹から右肩にかけて一線が走り、次には肉を裂けて鮮血が噴き出す。
「あ、ああああぁぁア!」
飛沫を上げて砂利へ降り注ぐ己の血を見ながら、OLは絶叫を上げた。両手で傷口を押さえようとするが、到底塞ぐ事は叶わない。血は次から次へと際限なく噴き続け、本人の足元に赤い血溜まりを作っていく。
信じられないという顔で自分の姿を、夥しい血に汚れた姿を見遣っている為に、OLは半狂乱に陥っていた。だから気付かない。己の背後、直ぐ傍に立った女性の存在に。
OLの後からその様子を無感動に見下ろしていた女性は、次の瞬間、桜色の唇を開いて牙を剥き出し、OLの首筋に噛み付いた。
「あぎィ! ぎぎ、ギィヤァァアアアァァアアッ!」
OLの口を突いて出たのは、先程よりも甲高い、調子っ外れの盛大な叫び。OLは両腕を激しく痙攣させ、白目を剥いて叫び続けた。
「ぎぃ、ぎぎぎぎ……ぎざま、に、にに、ニンゲンじゃ、ないぃぃ!」
叫びながらも濁った声で、OLは言葉を吐き始める。苦痛と苦悶の入り混じった狂乱の音を言語の形に変え、強引に叫び出した。
「ぞ、うが……ぎざま、ど、どど、れ、られ……同族殺しだなァァァァ! わだじだじ、の、ぢをずう、もの……ぎぎギ」
そこまで言ってOLの言葉は唐突に止む。痙攣も止まり、血液の噴出も止んだ。するとOLの体は瞬く間に灰と化し、砂利の上に流れ落ちる。その上へ、OLの着ていた衣服はゆっくりと舞い降りていった。
OLの形が影も形も無くなった後、女性は傾けていた顔を上げ、口の周りに付いた血を拭う。
「あんた達が人の生血を必要とするように、私にはあんた達の血が必要なの。あんたは運が無かったわね。吸血鬼を喰らう吸血鬼、この私に目を付けられたんだから」
長い髪を掻き上げながら、先刻までOLだった灰を一瞥して女性は独りごちた。その後はもう灰に目を向けず、闇の奥へと歩き出す。
女性の姿が完全に暗黒の内へ消えた後には、赤黒い血溜まりと、大量の灰、OLの服だけが残された。




