108話 感情の正体
「あっ! サロン……!」
この声を聞き、ポーラが話しかけてきた。
「サロンがどうされましたか?」
どれだけアーネスト様で頭を埋め尽くされていたというのか。サロンを途中で抜けたのに、戻らなかったなんて、絶対に良くない状況だということだけは分かる。そう思っていたところ、ポーラが御者から手紙を預かっていると言い、その手紙を渡してきた。
その手紙を受け取り開けて内容を見ると、アーネスト様の字でこう書かれていた。
『体調不良で帰ったと伝えておくから安心してくれ』
走り書きのような字であったが、きちんとフォローしてくれていることが分かり、アーネスト様の抜かりなさにある種の感動すら覚えた。しかし、任せきりではなく、きちんと私自身で対処しなければいけないことである。そのため、すぐに帰宅したことについての謝りの手紙を書くことにした。
「今から手紙を書くから届けてちょうだい」
そう伝え、急いで主催者のサラ王女に手紙を書いた。そして、すぐに手紙を届けてもらった。
「はあ、今日はどれだけ心臓を使うのかしら……」
今日のことを思い返しても、アーネスト様のことしかもう考えられない。昔から私に対する想いを抱えていたというアーネスト様の告白は、衝撃的だった。
そして、この今まで知らなかったこの事実を知るとともに、こんなにも私のことを愛してくれていたのかと、そのことにも衝撃を受けた。
「私本当にどうしたら良いの……?」
思い出すだけで勝手に赤面し、ベッドの上で身悶えるが、気がまぎれることは一切ない。
――明日、セレーネ様に会いに行って、この気持ちをどうにか紛らわせてみましょう。
そう自分に言い聞かせ、その日は何とか浅い睡眠だけはとることができた。そして、次の日になり、さっそくセレーネ様の家へと向かった。
「リディア様、来てくださったのね! 嬉しいわ! さあ、どうぞ入ってください!」
今日は刺繍をしましょうか、2人でやったらきっとすぐに終わりますよと言いながら、部屋へと案内してくれる。
私はセレーネ様に促され部屋に入り、心を無にして、孤児院の所有物であることを証明するための刺繍作業を一緒にした。セレーネ様は表立った行動はしないものの、慈善事業に積極的に協力してくれることをきっかけに知り合った、いわば親友と言える唯一の令嬢だ。
「セレーネ様は早いのに、いつもとても丁寧に作業されますね」
そう言うと、朗らかに彼女は笑う。
「ありがとうございます、リディア様。わたしはこれくらいしかできる事がありませんから、そう言ってもらえると燃えてきます。ですが、リディア様の刺繍も非常に綺麗ですよ」
「嬉しい! ありがとうございます。こうして刺繍をしているときだけは、いつも集中して無心になれるんです」
そう答えると、彼女は唐突に核心を突いてきた。
「無心になりたいことでもあったのですか?」
その言葉に動揺し、針が指に刺さった。
「やっ! リディア様! 驚かせたのね、ごめんなさい! 止血しないと!」
セレーネ様はアワアワと慌てながらも的確な作業で、私の指を止血した。針は深く刺さっていなかったため、その血はすぐに止まった。
「大丈夫ですよ、セレーネ様。もう血は止まりましたから」
「良かったです……! 今までこんなこと無かったのに、リディア様本当に何かあったのですか?」
心配そうに見つめてくる子猫のような目を見て、親友であるセレーネ様には打ち明けることにした。
「実は……」
すべてのことではないが、ざっくりと概要を説明し終えた私にセレーネ様ははっきりと言った。
「リディア様は、慎重な性格が相まって、恋愛的な意味で好きになってはいけないと、無理やり理由を作り出しているみたいですね」
「理由を作り出す……ですか?」
「はい」
正直、この言葉には耳が痛くなった。
――セレーネ様はどうしてこうもいつも核心を突いてくるのかしら?
でも、慎重なうえ優柔不断で面倒くさい性格の私には、セレーネ様の言葉がきっと必要だわ。
「ロジェリオ様のことがあったから、期間的な問題で誰かを好きになるなんていけないと思っているんですよね?」
「それはあると思います」
そういうと、セレーネ様は自身の思いを語り出した。
「考えてください。大好きで大好きで心の底から愛していて、しかも互いに愛し合っているのに、その人と泣く泣く別れることになりました。こういう場合においては、すぐに別の誰かを好きになった人に対して、ちょっとどうかなと、わたしは思ってしまいます」
――たしかに、それは私もそう思う。
だからこそ、他の誰かにすぐに誰かを好きになるなんてと思われるのが怖いという気持ちもある。
貴族だからこそ守るべきだけど、私ってつくづく体裁ばかり気にしているのね。
臆病で自己防衛本能が働き、つい自己嫌悪に陥りそうになる。しかし、セレーネ様は続けた。
「ですが! ロジェリオ様はそうではありませんよね? 愛しているのに別れさせられたという訳でもないです。そうでしょう?」
「はい」
そう答えると、少し微笑みながらセレーネ様は語った。
「ですよね。だったら、逆にロジェリオ様のような対比があったからこそ、より好きになってしまうという状況も有り得るとは思いませんか? あの人はこうだったけど、この人はそんな酷いことはしない。むしろこんな風に接してくれるとか……」
そう言われ、ついアーネスト様のことを思い出す。私は確実に、ここ最近のアーネスト様を、ロジェリオと比較していた自覚がある。そして、確実にアーネスト様の方が、私に対して真摯な態度をとってくれたと強く感じていた。
そんな私にセレーネ様は続ける。
「わたしたちは貴族ですし、リディア様の場合は1度スキャンダルになってしまったから、なおさら体裁を気にするという気持ちはよく分かります。ですが、結局好きになって結婚するのであれば、期間のことばかり考えているとその分一緒に居られなくてもったいないです」
セレーネ様の言葉に、確かにそうだと強く思った。
「自分の気持ちに素直になってみても良いんじゃないんですか? 期間の問題があるからと恋愛的な意味で好きという選択肢を除外するのは違うような気がします。その選択肢も含めた上で判断したら、その結果やっぱり友達だったということも分かるはずですから」
そう言うと、セレーネ様は私の手に手を重ねた。
「アリスとは正反対で、リディア様は難しく複雑に考えすぎてしまいますね。それはリディア様の良さではありますが、この件に関しては、アリスまではいかなくとも、少しポジティブに考えてみても良いんではないでしょうか?」
その言葉に、胸がスッと軽くなった。本当にそうしても良いのかと思いながらセレーネ様を見つめると、彼女は自虐的に笑い言った。
「って、わたしが言えることじゃないですよね。全部わたしの愛読書の受け売りですし……ごめんなさい」
「いえ、とても……考えさせられました。私、改めて考え直してみようと思います。セレーネ様、本当にありがとう」
そう言うと、セレーネ様はにっこりと可愛らしい笑顔で笑った。
「リディア様が笑顔だと私も嬉しいです。わたしはリディア様応援隊ですから!」
こうして、セレーネ様のアドバイスを胸に、帰宅した。そして夜になってベッドに入り、今日のセレーネ様との会話について改めて振り返った。
――自分の気持ちに素直になる、か……。
こう考えてはダメだという理由を、無意識の内に無理やり作っているのではないかとセレーネ様に指摘された。実際に、その通りだと思い当たる節がある。だからこそ、今回の件に関しては心の中の葛藤がいつもの悩み事の比ではなかった。
「あぁ、こんな時に相談できるのがアーネスト様なのに、よりによってそのアーネスト様が悩みの種になる日が来るだなんて……」
そう独り言つと、自然とアーネスト様が思い浮かぶ。
――こんなにも好きって気持ちが伝わるほどに、誰かから想われたことがあったかしら……。
それに、こんなにも家族以外の人から愛されていると感じたことは無かったわ……。
『好きって言葉だけじゃ足りない。俺はリディのことを愛している。この気持ちが変わることはない』
ふとアーネスト様に言われた言葉を思い出した。それにより、一気に恥ずかしさが込み上げてくる。しかも、不思議と嫌な気持ちにはならないからこそ、よりその感情が加速する。
布団をガバッと顔まで覆うように被り、1人で身悶えるしかない。もうそうなってしまえば、頭の中は完全にアーネスト様に占領されてしまう。
あの健気な眼差しに赤らんだ頬。切ない表情の中、震える彼の長いまつげ。風が吹くたび揺れるウェーブの髪に、ふわっと香るアーネスト様の香り。
彼の低くて落ちつく優しい声や、時に見せる熱のこもった切ない掠れた声。抱き締められた時の感触と彼から伝う温もり。
そして何より、嘘じゃないと伝わる彼の心からの想い。
思い出しただけでも、勝手に鼓動が早くなり、もうどうにかなってしまいそうだ。仰向けでベッドに身を預けていたが、恥ずかしさのあまりうつぶせになって、枕を頭から被った。
そんなことをしたところで、この気持ちが収まるということがあるはずはなく身体が火照ってくるような感覚になる。それと同時に、枕で耳を塞いでいるからか、ドッドッドッドッといつもよりだいぶ速い心臓の音が聞こえてくる。
――ロジェリオの時には、こんな想いしたこと無かったわ……。
あのときとは確実に違うこの想い……。
「もしかして、これが本当の恋……なの?」
誰かに感情の名前について指摘されたわけでない。
私は今この瞬間、とうとう自身自身で感情の正体に気付いたのだった。