プロローグ
DayX XX:XX ~Side by 濃紺の髪の青年~
もしもあの日に戻れたなら――今度こそ僕は、「彼女」を救うことが出来るだろうか?
あの頃とは違う今なら。
抗う力を得た今なら。
覚悟を決めた今なら。
巨牙を跳ね返し、あの怪物から「彼女」を助けることが出来るはず。そうに違いない。
でも、わかっている。
水源から流れ出した水は、二度と水源に戻ることはない。
過去をやり直すことは出来やしない。
「彼女」は二度と、太陽の様に眩しい笑顔を見せてはくれないんだって。
*
塗装されたばかりのベンチに座る、濃紺の髪をした少年。「彼女」に格好をつけたくて、お小遣いをほぼ全て費やした歳不相応なお洒落な被服。お母さんからこっそり拝借したバックには、今日一日分の思い出をたくさん詰め込んで。彼は何処か落ち着かない様子で、手持ち無沙汰に黄昏の空を眺めていた。
暮れゆく空に情緒を感じるほど、少年の心はませてはいなかった。その視線は青白い光が常に溢れ出す、空に走る亀裂に奪われていた。
天の亀裂。そこから溢れ出した大量のマナが、人間の世界を一変させた。
だから人々は皆、天の亀裂を嫌っている。空にあの亀裂が走ることがなければ、大勢の命が喪われることはなかったのだから。文明のレベルが後退することもなかったのだから。
けれど少年は、天の亀裂に別の関心を抱いていた――亀裂の先には、何も存在しないのだろうか?天の亀裂に関する研究は日夜続けられているが、その謎は未だ解消されていない。もしかしたら後数年で答えがわかるかもしれないし、永遠に謎のままなのかもしれない。
決して手が届くはずがない空。少年は「それでも」と彼方へ手を伸ばす。既にかなりの時間が経過していた。
「彼女」はまだだろうか?しかし、焦っても仕方がないことを少年は理解していた。女の子のお花摘みを、男の子は待っていることしか出来ないのだから。
けれど……不穏な空気に気が付くべきだった。何か行動を起こすべきだった。
後から臍を噛んでも手遅れなのだから。
突如辺り一帯に轟いた、爆発音にも似た地響き。
少年はドキリとして、その音のした方へと視線を向けると――都市を守る防壁に、ぽっかりと穴が空いていた。
都市の防壁は高さ40メートルを超える。防壁は都市を囲うように屹立しているのだから、全体で見ればその穴はほんの些細なものであったのかもしれない。
でもそれは森を見て木を見ないようなもの。離れた場所からでも確かに見える大きさ。無理矢理こじ開けられて出来たような歪な形。穴が空いた原因は明らかであった。
少年が取るべき行動は一つしかなかった。今すぐその場から全力で逃げだす――?違う。壁の近くにいる彼女を助けに行く。ただそれだけだった。
それは決して正義感と呼べるものではなかった。「彼女」を失いたくないという思いが、少年を突き動かした。
少年は一目散に駆け出した。壁の崩落した場所で、彼女が無事にいることを願って。
ろくに筋肉がついていない細い脚。不格好なまま腕を振り上げ駆け抜けていく。
そうして辿り着いた少年の瞳に映ったのは――筆舌に尽くしがたい絶望の苑であった。
ほんの数時間前、少年と「彼女」はその場所、牧場型のテーマパークを観光していた。都市化が進んだセントラルエリアでは味わえない様な緑の風景、噎せ返るような草いきれが新鮮だった。放牧されている牛や羊たちと触れあって、搾りたての牛乳を二人で飲んで。最後に今日と言う日を忘れないようにって、記念品も買って。
一緒に歩いた。
一緒に笑った。
一緒に楽しんだ。
一生忘れることがない思い出の地となるはずだったそこは、今やこの世の地獄に変わり果てた。
瓦礫に埋もれた人。
呆然と立ちすくむ人。
悲鳴、絶叫をあげる人。
聞こえる音は、耳を塞ぎたくなるような絶望の調べ。
そして死屍累々の山に立つ異形の存在が一匹。王様の髭の様な荘厳なる金色の鬣、血の雫が滴る巨大な牙。まるで獅子の様な姿をしたマナの怪異が、けたたましく咆哮した。
こんな事態は有り得ないはずであった。都市を守る防壁は人類の叡智の結晶。
都市の防壁がある限り、マナの怪異が都市に侵入することはない。お母さんからそう教わった。学校でもそう習った。みんな口を揃ってそう言っていたのに。
たった一匹のマナの怪異が、その常識を覆した。
獅子が強靱な足で山を蹴り飛ばすと、着地点で砂埃が起きた。そして次から次へと逃げ遅れた人々へと襲いかかり、その胴体を巨牙で食い千切る。理性を失うことで圧倒的な力を手に入れた獅子にとって、人間の脆弱な身体を一撃で破壊することなど造作もなかったのだろう。
けれど――そんな獅子に、たった一人で挑みかかった「少女」がいた。
「彼女」はあの頃から既に異能の扱いに長けていた。彼女が虚空に右手を翳し、じっと気を溜めると――その手のひらに、無色透明な氷のナイフが紡がれていく。それは氷彫刻の様に繊細で、かつ獲物を仕留めるために極めて鋭利。
「彼女」は左手を使い獅子の足元へと狙いを定め、凍てつく息吹を解き放つ。そして身動きが取れなくなった獅子の急所目掛けて、何度も何度も氷のナイフを投擲する。
しかし――獅子はそれを、痛みとして認識しなかったようだ。
獅子が受けに甘んじたのはほんの数十秒。怯んだ様子もなく獅子は再び咆哮し、雄叫びと共に「彼女」目掛けて突進を始めた。
肩で息をするぐらいに、少年の呼吸は乱れきっていた。けれど少年に、一息ついている暇などありはしなかった。
「彼女」の元へと少年は急ぐ。
果たしてどうやって獅子を止めるのか?
少年は適合者ではなかった。異能も武器もないのに、獅子を止められるはずがない。
でも、それでも……諦めるなんてことは出来やしなかった。ただ「彼女」を救いたい。
僕は「彼女」の名を叫んだ――「シア!」。
ひとりぼっちだった僕に出来た最初の友達。
僕の孤独を溶かし、世界を切り拓いてくれた恩人。
いつも元気で健気で、正義感の強い女の子。
そして……僕が初めて恋をした少女。
きっといつまでも。ずっと彼女と一緒にいたかった。
彼女の夢を隣で支えたい。それが僕の夢だった。
けれど僕の目の前で、シアは――怪物の巨牙に貫かれた。
吹き飛ばされた彼女を抱きかかえ、僕は彼女の名前を何度も何度も繰り返す。腹部から滔々と溢れ出す血を止めようとしても、決して止まってはくれない。
次第に彼女が冷たくなっていく。肌の色が失われていく。
そして彼女は……最期に僕の名前を優しく呼んで、ゆっくりと目を閉じた。
嘘だ。
嘘だ。
嘘だ。
こんなの悪い夢なんだ。
彼女が死んだ。それを頭では直ぐに理解していた。
けれど心はその事実を拒絶する。
嫌だ。
嫌だ。
嫌だ。
目の前には瞑目した彼女がいるのに、必死に視界から入る情報を否定する。
これはきっと悪い夢なんだ。
だから、お願いだから……誰か、早くこの悪夢から起こして。
でも、やがて僕は現実に飲み込まれた。
彼女の死を受け容れ始めたことで、僕の双眸に透明な泉が出来た。そして堰を切った様に涙が零れ、彼女の頬を濡らしていく。
彼女はもう二度と目を覚まさない。
彼女はもう二度と微笑んではくれない。
彼女はもう二度と――「ルキ」と呼んではくれない。
酷く苦しかった。まともに呼吸なんて出来なかった。まるで真綿で首を締め上げられているような感覚だった。
どうして彼女が死ななければならなかったのか。どうして彼女と別れを告げる日が、こんな唐突に訪れてしまったのか。
その答えは――目の前にあった。
獅子、このマナの怪異が出現しなければ、彼女が死ぬことはなかったんだ。
ふと、涙が乾き始めていることに気が付いた。
悲しみという薪がくべられることで、獅子への憎しみの焔がより一層激しく燃え上がる。
それは決して比喩ではなく。
自分さえも焦がす紅色の焔が黄昏の風に揺蕩う。
焔の内側から獅子が悶え苦しむ姿が見える。
その日――僕の異能は覚醒した。
*
それから先の記憶は曖昧で、気が付けば病院のベッドの上だった。
僕が目を覚ますと、直ぐに母さんが抱きついてきた。「良かった、生きていてくれて本当に良かった……」って、何度も言われて。
母さんの話によると、母さんたちGotHの部隊が到着した時点で、獅子は焼死体となって発見されたらしい。そして僕はシアを抱きしめながら気絶していたそうだ。
シアは助からなかった。けれど僕はこうして生き延びた。
もしも逆だったら。
そう考えたことは一度だけではない。僕が死んで彼女が生き返るなら、その方が良いんじゃないかってそう考えた。
けれど、そんな考えは直ぐに捨て去るべきだと気が付いた。
きっとシアはそんなことを望まない。
シアが同じ立場だったらきっと迷ったりしない。
だから僕も――必死に生きよう。
彼女が叶えられなかった夢を、僕一人でも実現してみせる。
「都市に迫る数多の脅威から、か弱き人々を守り抜く」。
物語のヒーロー憧れていた、彼女らしい大それた夢。
いつか僕にもその時が来たら、この一生を誇ることが出来る様に。
僕が愛した、彼女のために。