その9
「まずいことになったな…。途中をピックアップされて、社長夫人を怒らせたら、まずいよ、まずい。とりあえず社長に電話だ。説明しておかないと…」
慌てて久我社長に電話をかける日下部。
「つながらない…」
「そんなにまずいのか、社長夫人て」
「周子さんに交渉する前に、主要メンバーは先に紹介と説明をしておくべきだったな。社長夫人は筆頭株主だし、さっきのお嬢さんの持ち株と併せたら、役員人事は意のままなんだよ。それでなくても常務派の俺は、最近の社長と常務の対立で立場が危なくなりつつあるんだ」
「やばいな、それ。悪かったよ。ちょっとテンション上がってて、つい場所をわきまえずさ…」
森本が右手を顔の正面に持ってきて、謝罪のポーズをする。
「社長夫人は西園寺大臣の後援会副会長だ。熱烈なシンパだからな。おまけにだ…」
「まだあるのか?」
「さっき社長に電話してた孫娘、真里菜ちゃんと言うんだが、社長はベタ可愛がりなんだ。うちの社は、将来彼女に継がせると公言してる」
「継がせるって、まだ幼稚園だろ、あの子」
「彼女の意見を取り入れた子供雑誌が、雑誌自体も通販部門の洋服も売り上げがかなり上がってきてるんだよ。高校生になったら持ち株与えて顧問にするんだとさ」日下部は暗い顔になった。「まだ入社して1年だっていうのに…」
「…シャレになんないな」
暗い顔の二人に女性が声を掛けてきた。
「どうなさったの、日下部さん。ご気分でもお悪いの?」
「花津先生!」
「さっきお嬢ちゃんたちと、何か揉めてらしたようですけど…」心配そうに日下部を覗き込むマダム花津。
「い、いやあ…お恥ずかしいところを見られてしまいました。ちょっと軽口を叩いていたら、話が大きくなってしまって…」日下部が溜め息をつく。
「あの、差し出がましいかもしれませんけど、私に任せていただけないかしら?」
「先生に…ですか? そ、それは有難いお申し出ですが…先生は西園寺家の方と親しいんですか?」
「いえ、そういうわけではないんですけど…近々、西園寺家の方々とはお仕事をご一緒するかもしれないものですから。それに、真里菜ちゃんとは大の仲良しですのよ」微笑むマダム花津。
「じゃあ、ぜひ、その…口利きと言いますか、お願いいたします!」
急いで胸ポケットから名刺を出した森本が、横から話に割って入る。
「ええ、わかりました。…これからは、お気をつけくださいね」
マダム花津は森本の名刺を一瞥してバッグにしまうと、くるりと踵を返して、その場を立ち去った。
* * *
「さゆちゃん、ごめんね。ほんとうに、ごめんね。うちのしゃいんが、おばかさんだから…」真里菜が申し訳なさそうに紗由に頭を下げた。
「…まりりんは、わるくないよ」
紗由が真里菜に向かってこくんと頷くと、横にいた奏子が言った。
「かなこがへんしんして、キックすればよかった」
穏やかな奏子にしては、珍しくご立腹の様子で、ぎゅっと拳を握ったままだ。
「さっきの一言はキック以上よ、奏子ちゃん」夕紀菜が言う。「あんな言葉、よく知ってたわね。びっくりしちゃったわ。…それにしても、本当に申し訳なかったわね、紗由ちゃん、玲香さん。あの人たちに関しては、ちゃんとしますから」
夕紀菜が頭を下げた。
「ほなら、まりりんちゃんのママはんにお任せして、真ん中の可愛いお花見に行こ」
翔太が紗由を覗き込むと、紗由は翔太の手を握って、中庭の中央に歩き出した。
“紗由ちゃん、普段は、こないなことで泣いたりせえへんのになあ…”
一連の流れを少しいぶかしがりながら歩く翔太の後を、真里菜と奏子、お目付け役の響子が続く。
「でも、夕紀菜さん…お母様のお耳に入ったら、事が大きくなってしまうのでは?」玲香が恐る恐る尋ねた。
「…あんまり大きい声じゃ言えないんだけどね、父の陣営には好都合なの」夕紀菜が玲香の耳元で囁く。「日下部さんは、父と対立する常務が引っ張ってきたんだけど、外部から情報を拾ってくるのに、ちょっと胡散臭い人間を使っているって噂だったの。一緒だった彼、そんな感じよね。
さっき名前が出ていた著者の先生は、まあ以前からいろんな話を聞くし、続きがあったと思うんだけど、途中で紗由ちゃんに怒られちゃったから、そこまで行き着かなかったのね、きっと。“そんなつもりじゃなかった”の真意は、話の結論が保先生の悪口じゃないってことなんだと思うわ」
「そうなんですか…」
「でも、ゴシップ誌上がりの…こういう言い方も失礼かもしれないけど、その種の畑にいた人たちの話の特徴っていうのかしら。おまけの部分もスキャンダラスに盛り上げないと気がすまないみたいなところがあるみたいだわ」
「なるほど…」
玲香は頷きながら、賢児が瑞樹から聞いたという話を思い出していた。桐生女史に関する件は後援会内でも、当時かなり話題になっていた。
久我夫人も当然ながらご立腹だったし、自分の会社の社員が噂を広めるようなことがあれば、ただでは済ませまいと玲香は思った。彼女は世話焼きで、場合によっては手が掛かるのも事実だが、こと保の事に関しては、勤勉に地味に真面目に、後援会副会長としての責務をこなしていた。保が信頼を置いている重鎮の一人だ。
「軽率なのは事実だから、母の怒りを買っても自己責任ね」
「そうですね…」
普段、しっかり者の真里菜とは正反対に、少々抜けているところがあるようなタイプの夕紀菜が、毅然とした物言いで二人に対したことや、かなり冷静に状況を分析していることに、玲香は少々驚きもしていた。
「それにね、保先生は私の初恋の人でもあるの。女をたぶらかしたなんていう言い方、個人的にも許しがたいわ」
ぷーっと口を膨らませる夕紀菜を見ながら、玲香は思った。
“やっぱり似てるわ。久我夫人、夕紀菜さん、真里菜ちゃんの親子3代”
「あ…今のは秘密よ。…特に真里菜には、ね…」
「はい。わかりました」
玲香は微笑むと言った。
「じゃあ、真里菜ちゃんたちとお花を見ましょうか。“保先生”ほどの見目麗しい花はないかもしれませんけど」
* * *
紗由たちが出た会場内のドアからではなく、館内通路のドアから、マダム花津が中庭へと出てきた。だが、すぐに紗由たちに近づくでもなく、ゆったりと歩きながら花を観賞している。
その姿を見つけた真里菜が、手を振りながら小走りに近づく。
「せんせー!」
その時、初めて真里菜に気づいたかのように、声の方向を振り向く花津。
「あら、まりりん!」花津も早足で真里菜のところへ向かう。
「せんせい、きょうもすてきなドレスですね! さっきね、ごあいさつしたかったんだけど、せんせいはいそがしいから、じゃましちゃだめだっていわれたの」
「こちらこそ、ちょっとバタバタしていて、ご挨拶できずにごめんなさいね。でも、まりりんの姿はちゃーんと見てたわよ…今日はリボンがポイントね。レースとシルクを重ね付けしてるのが、すごくフェミニンでステキだわ」
花津は一瞬で真里菜を上から下まで眺め回すと、そう言った。
「ありがとうございます」
にこにこ顔の真里菜のところへ紗由たちがやってきたので、真里菜は紗由と奏子を花津に紹介した。
「はなつせんせいはね、まりりんの、おしゃれのせんせいなの」
真里菜がキリッとした口調で言うと、花津は小さく首をかしげた。
「あら、先生だなんて。まりりんと私は“お友達”でしょう?」
「先生ったら、真里菜が調子に乗りますわ。うちの雑誌でご貢献いただいている上に、真里菜の友達扱いだなんて、恐れ多いこと…」真里菜の後ろにいた夕紀菜が手を横に振る。
「いやだわ、夕紀菜さん。そんな大げさな」花津が笑い出す。
「それにしても、お友達の二人も可愛いのねえ。そうそう、奏子ちゃんにはね、赤ちゃんの頃、会ったことがあるのよ。ねえ、響子さん?」
「ええ。父の生前は、いろいろとお世話になりまして…。また、お立ち寄りください」
響子が緊張気味に頭を下げると、当の奏子は、どこか納得が行かないふうに首をかしげた。
「それに紗由ちゃんのことは、静岡でお見かけしたことがあるわ。ご一家皆さんでお出かけだったようだけど」
「しずおか…」
“静岡”という単語に反応した紗由が翔太を見ると、真里菜が翔太を呼び、説明した。
「かれは、さゆちゃんのフィアンセのしょうたくんです。おうちがしずおかです。きっと、しょうたくんちにいったときです」
「こんにちは!…まりりんちゃんのおしゃれの先生いうだけあって、お顔も服も、おきれいな方やなあ」
翔太がそそくさと名刺を出して花津に渡すと、花津は心なしか緊張した顔でその名刺を見つめた。
「まあ、清流旅館の七代目なのね。…あそこは、とってもいいお宿よね。翔太くんが生まれる、ずっとずっと前にうかがったことがあるわ」花津はそう言うと、しゃがみこんで翔太の頭を撫でた。
「お客はんでしたか! おおきに。また、おいでください!…あ、これ、お近づきのしるしです」
翔太は手持ちの紙バッグに残っていた最後の一つの生花コサージュを、花津に渡した。
「翔太くんが、自分のお庭で作った花なのよねえ」
夕紀菜が言うと、花津はうれしそうに微笑んだ。
「ありがとう、翔太くん。大事にするわね。…でも、よかったのかしら。どなたかに差し上げる物なのではなくて?」
「大丈夫です。玲ちゃんには、またあげますさかい。…あ、玲ちゃんいうのは、僕の叔母です」
「外務大臣の西園寺先生のご次男と最近ご結婚された方です」
夕紀菜が補足すると、紗由が元気に叫んだ。
「けんちゃんの、およめしゃんです!」
「まあ、そうなの。いいわねえ、お嫁さん」紗由を眺めながら微笑む花津。
「えーと、玲ちゃんは…」
きょろきょろと玲香を探す翔太の元に、少し離れた場所で同業者に挨拶をしていた玲香がやってきた。
「れいかちゃん! まりりんの、おしゃれのせんせいだよ!」
口を開こうとした翔太に先んじて紗由が言うと、その唐突さに少し驚きながらも、玲香が名刺を出して花津に挨拶をする。
「サイオン・イマジカの西園寺玲香と申します。先生のご高名はうかがっております」
玲香は、視界が明るくなるのを感じ、ふと空を見上げた。
“雲が切れたのかしら…?”
「どうかなさいまして?」
「い、いえ…失礼しました」玲香が頭を下げる。
「最近ご結婚されたんですよね。いかがですか、新婚生活は」
「あ…はい。慣れないことも多いですが、周囲がよくしてくれますので」微笑む玲香。
「ご主人…先ほどご一緒だった、背の高い方でしょう。ステキなご主人ですわね」
「ありがとうございます」
玲香が子供のように顔をくしゃくしゃにして笑うと、花津はしみじみと言った。
「羨ましいわ。大切になさってね。…どうか、いつまでもお幸せに」
花津は、頭を下げる玲香に微笑むと、夕紀菜に声を掛け、少し離れた場所に連れて行き、日下部たちの依頼の件について話を始めた。
* * *
「なんや、玲ちゃん。むつかしい顔して」
「うーん…マダム花津って、どこかで会った様な気がするんだけど…」
「ああ、それか。うちのお客らしいで。俺が生まれるずーっと前、言うとったけど」
「そう…」
翔太に言われるまでもなく、仕事や宿など、可能性をいろいろ考えてはいたのだが、少なくとも、宿の客として会ったのなら、それなりに接触する可能性が高い。でも、あんなに印象的な女性を忘れることなどないだろうと、玲香はぼんやりと思った。
“髪をアップにしているせいかしら。斜め後ろから見ると、鈴ちゃんに似てる…”
「ちいとばかし、おかんに似とるな。色のついたサングラスだから、細かい表情まではようわからんし、まあ、おかんのほうが、ちいとばかし、べっぴんやろけどな…と言うとかんと叱られるか」
「あ。やっぱり、そう思った? タイプは違うのに、何か鈴ちゃんに似てるのよね…」
「うなじが似とるわ。きっと着物着たら、よう似合うで」
「そうね…」
「それに、ここだけの話やけどな、あのマダム、俺に気があるで」
「はいはい」にやりと笑う翔太の言葉を、半ば聞き流す玲香。
「ほんまやで。俺のことだけ、ええこええこ、してくれたもん」
翔太が頬をぷーっと膨らませながら、自分の頭を両手で抱えるようにして、玲香を見上げる。
「あらあら。マダムキラーね。保先生目指して頑張りなさい」翔太の鼻の頭をちょこんとつつく玲香。
「まかしとき!…あ、そうや。龍…くんとこ行ってくるわ。紗由ちゃんこと、よろしゅうな! もう、大丈夫やと思うけど、何だか今日はナーバスちうやつや」
翔太は早足で会場につながるドアへ向かった。
“あのマダム、ずっと賢ちゃんと玲ちゃんのほうを気にしちょった…。さっきかて、紗由ちゃんがおじさんたちに文句言うたから、ちょっとした騒ぎになって、みんなそっちを見とったのに、マダムの胸からびよーん伸びてたんは、ずっと二人のほうへ行っとったままやった”
紗由のことは心配ではあったが、彼女たちが大騒ぎをしたおかげで、賢児たちに注意を向けている人間が、よりはっきりしてきた形になった。
保の噂話をしていた日下部の部下もそうだった。だが、仕事上の計算から来る興味なのか、賢児たち以外のあらゆる人間にも、そういった興味を示しているように見えたので、マダム花津とはちょっとタイプが違う。
そして、紗由の変化も気になる。
翔太は、そこら辺を龍にも確認してみたほうがいいかと思い、周子の傍にいる龍の元へ歩いて行った。
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