Hope.
ゴムの削れる音やにおいとともに、四角い枠の内を駆けまわっているとき、悩みも不安も寂しさも忘れられるということに気づいた。無心になれる時間は長くないけど、部活動中のほんの一瞬が、今の私の居場所なのかもしれない。
制服に着替えて帰る準備をしながら、会話にいつもの笑顔を浮かべていると、カバンに弁当箱が見つからない。たぶん机の横にかけたままだ。
忘れ物とってくるねと言い残し、教室へと走った。
閉じた扉から明かりがもれていた。朝のことを思い出して、まさかとは思うものの、それを否定する。最後に出た人が消し忘れたんだ。そうに違いない。
嫌な予感を振り払うように 勢いよく戸を開けた。
「何でいるの」
不快感をあらわにした声が、独りでに口からこぼれる。
彼がいた。私が来ると思っていなかったのか、少し驚いた様子でこちらを向いた。
「放課後補習。荷物を教室に置いてただけ」
彼は素っ気なく答えるとカバンを肩にかけ、近づいてくる。とっさに身構える私に対して彼は言った。
「心配しなくても、清水さんに興味ないから。帰りたいからどいてくれる?」
嘘を言ってる顔じゃない。本音なんだろう。今の彼にとって私はどうでもいい、扉の前に立っているただ邪魔なだけの障害物だ。
じゃあ、どうして?
私はその場を動かない。彼がイライラし始めたのがわかる。
「一つだけ教えて。私に興味がないんだったら、朝に話しかけてきたのは何?」
あの時は構って欲しいのだと適当に決めつけた。違うだろうなとは薄々感じていたけど、それ以外に納得のいく答えが見つからないので考えないようにした。
本当の理由は彼が知ってる。彼と会うたびに気分を害されるよりは、無害なクラスメートとして扱う方が私の負担にならなくて済む。そして『総学』が桃と勉強できる落ち着く居場所に変わるため、一石二鳥だ。それには、彼の真意を知らないといけない。
彼と友達になる気はないから、笑顔を作る必要はない。少し強めの口調で尋ね、彼の答えを待つ。
彼は私の目を見つめていた。逸らしたら負けだと、私も見つめ返す。意味のないにらめっこは三十秒ほど続き、先に彼が折れた。
「寂しそうだったから」
「はあ!? 意味わかんない。私が心の中で何を思ってるかなんて、誰にもわかるわけないでしょ」
「わかるよ、それくらい」
彼はわざとらしいため息を一つついて荷物を降ろした。ちゃんと答えてくれるらしい。黙って続きを促す。
「清水さんの友達が気づいているのかは知らないけど、女子と話しているときの清水さんはとても寂しそうだよね。男子とはちょっと距離があるけど、普通に話せているのにね。ああ、でも、間雲さんとはそうでもなさそうだった。楽しそうとまではいかないけど、安心できるほどには付き合いが長いんだろうな。」
「気持ち悪いっ! 何でそんなことまでわかるの。ストーカーでもしたんでしょ。最っ低!」
「だから、それくらいのこと、ちょっと見れば誰にでも気づけるって。話の途中でも友達の顔をチラチラ見たり、バイバイって言った後もしばらくその場に残ったり。笑顔なのに、全く楽しそうじゃないんだよ」
二の句が継げない。確かに、思い当たるふしはある。
この話題がつまんないって思われていないだろうかと、みんなの顔色をうかがう。もしかしたら誰かが何かを言い忘れていることがあって、また戻ってくるかもしれないと待ってみる。よくよく考えれば、かなり異常な行動をしている。
「でも、仮に私が寂しかっていてもさ、そのことと横山くんに何の関係があるの? 放っておけばいいじゃん」
「関係ならあるよ」
寂しがる私を気にかけて、彼にどんなメリットがあるのだろう。友達でもなく、今年初めて同じクラスになっただけ。その程度のつながりの他人を心配する利点なんて、せいぜい好感度目的か、根っからの世話焼きくらいだと思う。
好かれようとするにしてはあまりに明け透けな方法だけど、それにしては彼の態度が雑だし、私への興味が本当に薄いような気がする。世話焼きな性格にも見えない。どっちかというと、何かあっても独りだけで生きていきそうな感じ。
メリットどころか私との関係性すら一つもないのに、どうして構ってくるの?
ところが、彼の答えは私とは全く関係のないものだった。
「清水さんは馬鹿にしてたっぽいけど、家庭科が好きなのは事実で、僕にとって学校にある数少ないオアシスの一つなんだ。大切な居場所だからこそ侵されたくはないし、暗い人がその空間にいたら邪魔でしかない。 つまり、清水さんが授業中まで寂しさを引きずっているせいで、雰囲気が壊されて迷惑ってこと」
清水さんならわかるでしょ。彼の目がそう言っているような気がした。
居場所、か。それならわかる……たぶん。もしもバスケができなくなったら、そう考えただけで不安が止まらない。そういうことなんだろうな。
似てる。彼と私は似てる。どこが、とは言い切れないけど、何故かそんな感じがした。落ち着ける居場所を探して、手に入れた居場所を絶対に失わないよう守る。居場所はそこにただあるだけで安心できる。その分、失ってしまった時の心への代償は大きいのだろう。哀しさ、寂しさ、空しさ、言葉にするのは簡単でも、 実際に失ってしまえば私だったら立ち直れない。それほどまでに恐ろしいことなのだ。おそらく、彼にとっては。私にとっても。
何を考えているのか理解できなかった彼に、ふと親近感を覚えた。そして、一つのアイデアが浮かぶ。
不思議と、その言葉はあっさり声に出せた。
「友達になろうよ」
「えっ、なんで!?」
突然の提案に彼は戸惑っているようだった。それもそうだ。逆の立場なら私だって困るし、間髪入れずに断る事は必至。同性ならまだしも、初対面と大差ない異性に友達になろうと言われて、はいそうですかと首を縦には振れない。私だったら、何かたくらんでいるんじゃないかと疑うところから始める。
あながち友達が少なそうという想像も間違ってないのかもしれない。こういう状況に慣れていないようで、驚きの声を発した後は黙ったままで、うつむいて固まっている。心なしか顔が赤い――。
冗談じゃないっ!
「勘違いしないで! 好きとかそういうんじゃなくて、居場所をつくるためだから……」
焦って否定したら意識しているふうに取られるかもしれない。冷静に、落ち着いて、私の考えを伝える。
「横山くんは、私が暗いせいで授業の雰囲気を壊されるのが嫌。私は、寂しさを感じない場所を探してる。じゃあさ、『総学』を新しい居場所にすればいいと思う。桃――間雲さんのことね、は私の性格だってよく知ってるから、横山くんとも仲良くなれれば少しは落ち着ける居場所になるかもしれないの」
彼はしばらく思案顔になり、口を開いた。
「それじゃあ根本的な解決にはならないよね。居場所が増えたところで、他の場所で寂しくなっていたら意味がないでしょ」
その意見は確かに正しい。落ち着ける居場所が増えたって、それは一時しのぎの避難所でしかなく、抜け出してしまえば寂しさも戻ってくる。
このままじゃダメだってことは、私が一番理解しているんだ。
「私、決めたの。桃をこれ以上心配させたくないし、私だって変わりたい。変わらなきゃダメだと思うから。もう、寂しさからは逃げない。寂しがりな性格をすぐには変えられないけど、変えられなくても、寂しい気持ちを受け止めて、楽しい気持ちもちゃんと感じられるようになりたい」
馬鹿な女子だと思われてもいい。今すぐここから逃げ出して、自分の部屋で布団をかぶって隠れたいくらい恥ずかしい。それでも、変わりたい気持ちに嘘はない。
「ダメ、かな?」
「……今まで逃げてきたものと向き合うんだから、相当つらいと思うよ。それでも、変わりたいの?」
「覚悟はしてる。してます。だから、私のわがままに付き合ってください。友達になって、力を貸してください」
最後の方はほとんど鼻声だった。断られたら、拒まれたら、なんて弱気な気持ちを、せりあがってくる涙と一緒に飲み込む。眼鏡の奥の彼の瞳をじっと見つめる。
何分経ったのか、数秒だったのかはわからない。
視線を逸らして彼は言った。
「家庭科好きが増えるのは嬉しいし、僕も去年、間雲さんには救われたから。……いいよ」
「ほんと?」
「ただし、間雲さんか僕の前では薄っぺらい笑顔は禁止。もしそんなこと一回でもしたら絶交。二度と協力はしない。それが条件」
「ありがとう。本当に、ありがとう」
自然と笑顔がこぼれた。一瞬だけど、二人の『私』が消えたような気がした。
「やればできるじゃん。顔、ぐしゃぐしゃだけどね」
「うるさいっ!」
垂れてしまった涙を拭う。
顔を上げると、彼も笑顔だった。
「送るよ。遅くなったの、僕のせいだし」
時刻は七時を過ぎていた。いつもなら家に着いている頃だ。
「そんなことないよ。引き止めたのは私だから」
そういえば佐江たちのことを忘れていた。スマホをつけると未読のメッセージが大量にきていた。最近の数件を開いていくと、私の帰りが遅いから荷物の存在を忘れて先に帰ってしまったのだろうと思って、佐江たちは帰ってしまったらしい。荷物はとりあえず女子更衣室のロッカーの中に入れてある、そうだ。
何も伝えずに長い時間待たせた私が一番悪い。それは当然として、どうして様子を見にこなかったんだろう。私だったら心配して、絶対探しに行くのに。
「逆によかったと思うよ。待ってた友達が帰ったんでしょ?」
「……何で?」
「何でわかったのかなら、スマホを開いたとたんに哀しそうな顔になったから。何でよかったのかは鏡を見たらすぐわかるよ。顔、洗ってきたら?」
彼の言う通りだった。トイレの鏡に映った私は、目元が腫れて鼻を赤くした、さっきまで泣いてたのが丸わかりの顔をしていた。
水道水で顔を冷やすと目立たない程度にまで腫れは引いた。そろそろ帰らなければとトイレを出ると、横山くんはまだ残っていた。
「そもそも忘れ物を取りにきてたのに、それさえ忘れるなんて元も子もないでしょ」
「しょうがないじゃん。それどころじゃなかったんだから」
弁当箱を受け取りながら愚痴をこぼす。忘れ物をしたと言った覚えはないけど、彼のことだから私が教室にきた時点で気づいてたんだろう。知らなかったら怖くても、知ってる今は怖くない。変わった人だと思う。横山くんみたいな人にこそ、自己中とか変人って言葉が似合う気がする。
「それって褒めてるの?」
「……勝手に人の心読まないでよ。変人」
「それは絶対悪口だよね」
訂正。やっぱり怖いものは怖い。
「とにかく、清水さんの荷物も回収して、さっさと帰ろう」
「ねえ、ほんとに付いてくるの? 春奈、電車通学だよ?」
「友達と一緒に帰るのって、そんなに遠慮することなのかな」
「でも、時間も遅いし、お金もかかるし――」
私の言葉を遮るように、横山くんは盛大なため息をついた。
「じゃあ聞くよ。バスケ部の友達に置いていかれたことを思い出して夜道を一人で帰るか、友達になったばかりの男子と一緒に帰るか、どっちがいい?」
そんな質問、ずるい。私がどっちを選ぶのかわかった上で尋ねてる。答えを初めから決められているのと同じじゃない。
それに、と横山くんが続ける。
「僕は家庭科が好きだけど一応男子で、家の門限も厳しくない。お金だって、通学圏内を一往復できるくらいは余裕で持ち合わせているから、清水さんが気にすることは何もない。最初から一人で帰らせる気もないし。だから、送る。約束もしちゃったしさ」
「約束?」
「清水さんのわがままに付き合うってこと。一人だと寂しいでしょ」
「うるさいっ!」
結局、横山くんは家まで付いてきた(送ってくれた)。趣味とか学校でのこととか、どうでもいい話をしているうちに、家に着いていた。不思議と、哀しさも寂しさも後悔も感じなかった。楽しい気分のまま家まで帰れたのは、一体いつぶりだろうか。
彼がまた明日と言うだけで、明日が待ち遠しくなる。
寂しくないのは今日だけなのかもしれない。明日になれば『私』は笑い、『私』がそれを眺める生活に戻ってしまうのかもしれない。
でも、今日は楽しかった。その事実が、私は変われるのだと背中を押してくれる。
明日は『総学』がないけど、部活はある。学校には桃がいて、教室には横山くんもいる。会おうと思えばいつでも会える。
私にも居場所がちゃんとあるんだ。
私は一人じゃない。
寂しさを受け止められるようになるまで、どれだけの時間がかかるのかはわからない。それでも、きっといつかは変われるはず。
駅に向かって歩きだそうとする彼に、じゃあねと大きく手を振った。
心からの笑顔と一緒に。
こんにちは、白木 一です。
「Helene's Solitude.」の後編、「Hope.」です。
上旬に投稿するつもりが、下旬の更には月末……。
いつもいつも、遅くてすみません。
とりあえず、このお話は完結です。
が、もしも気が向けば、間雲さんや横山くん視点の話も書いてみたいなと思っていますので、いえ、書きたいので、気長にお待ちください。
お読みになった読者様、大変ありがとうございます。これからもよろしくお願いいたしします。