異世界ワープ
「どこだ……ここは」
空瑠は呆然と立ち尽くした。
目の前に広がるのは、深い緑の木々。振り返れば、樹齢は一体何年だと首を捻りたくなるほどの大樹。幹を一周するだけでも、歩いて数分はかかるだろう。
「……でけぇ」
何の気もなしに大樹を見上げていた空瑠は、首の痛みで我に返った。
「……おれ、何してたんだっけ」
空瑠はぼんやりと記憶を辿る。
ーー確か、近所の自然公園に来て、人気の無い場所を歩いていたら、忘れ去られたような朽ちかけた鳥居と祠を見つけて……
「……どこだここ」
最初の疑問に戻る。
確かにあの公園は、自然公園だけあって近年では珍しい広い雑木林が残る大きな公園だったが、こんなに深い森ではない。
「……つーか、これもう樹海のレベルだろ」
辺りをざっと見渡しても、僅かな木漏れ日が射し込むだけで、薄暗い視界には木、木、木。
今いる場所は、大樹のおかげか辛うじてスペースがあるが、目の前に広がる森林改め樹海は、踏み込んだら最期のような不気味な雰囲気を醸し出している。
「うーん……立ち入り禁止区域にでも入っちゃったのか?」
そんな結論付けをした空瑠は、
ーーとなると、怒られる前に出ないとだよな。
やや小走りで獣道、に見える地面へと歩を進めた。
その一瞬後に、ジャリ、という土と砂利を踏みしめる音を聞いた。
ーーやべっ、バレたか?
そのまま逃走も考えた空瑠だったが、これ以上迷うのは勘弁とぎこちない苦笑いで振り返った。
そして怪訝な顔に変わる。
空瑠の視界に現れたのは、どう見ても少女だったからだ。空瑠と同じくらいか、少し上程度の。
ーーいくら何でも、これで管理人はないよな……。
さらに、ヒラヒラのロングスカートという服装に、また同じく驚いた表情という点も、空瑠の疑問を深める。
ーー外人……? 染めているようには見えないし……。
謎の少女の髪色は、真っ白。を通り越して、雪原のような純白だった。白銀、という言い方が適切かもしれない。
ぱっと見悲しい膨らみの胸元には、深い蒼色を湛えた小さな宝玉のペンダント。
と、空瑠がある程度の観察を終えた頃、少女が恐る恐る口を開いた。それは、空瑠の混乱をさらに加速させるものだった。
「ーーダカデノツ……?」
「……はい?」
聞き取れなかった。
日本語では、間違いなくない。英語だとも思えない。
ーーフランス語とか、イタリア語とかか? 参ったな……。
「ドソネハ、チチメレヒガ……」
「えっと……」
「チチリトコメル、クミエヘヲチシコネツセメ……」
どうやら違うらしい。まったく聞き覚えが無い。
「えっと……、ここは、どこですか」
空瑠は身振りを加えて質問するが、
「チヒバガホソジムセ……。ドソノカバ……」
やはり通じず、少女の側も、コミュニケーションが取れない事にもどかしさを覚えている様子で困り顔である。
「ーーニソダ! ストロニンムク!」
「な、何だ?」
急に笑顔で顔を輝かせた少女は、小さく手招き。すぐに踵を返すと、数歩歩いてこちらを振り返る。
「付いて来い、って事か……?」
当然、空瑠は躊躇する。相手がそう年の離れていないであろう少女だとしても、素性が分からない以上警戒して損は無い。
ーーうーん……。
逃げるかどうか、本気で検討した空瑠だったが、
「…………」
少女の目が、すがるようにこちらを見ている事に気付き、
ーーもし怒られるなり、最悪お縄だとしても、それもそれでいい。
やや自暴自棄ではあったが、少女へと足を踏み出した。
少女と空瑠は、森の中を歩いていた。言葉が通じないせいか、もう少女が話し掛けてくる事は無い。そのせいで、
ーー気まずい……。
そもそも、女子とは距離を取り、取られがちの空瑠にとって、初対面の異性に話し掛けて事などできない。
道とも言えぬ道を進みながら、空瑠は煩悶する。
ーー景色でも眺めて……。
周りには木しか無い。
ーー大人しく我慢しろって事か……。
少女に気付かれぬようため息をついた空瑠は、その後十数分間をほぼ無心で過ごした。
「ーーホテウネフヤ」
「…………え?」
唐突に話し掛けられ、反応が遅れた空瑠は、
「ーーうわっ……」
目の前の風景に驚きの声を上げた。
足元は、雑草だらけの土から手入れのされた芝生に。周囲は、鬱蒼とした森から開けた原っぱに。そして正面には、漫画やアニメから飛び出してきたような、
「お屋敷だ……」
立派な洋館がそびえていた。
「チヘクメドソゾ」
少女は正面の扉を開けると、振り返ってこちらを見る。
「はいはい行きます」
すでに感覚が麻痺し始めている空瑠は、こんなお屋敷あったかなー、という程度の感想しか抱けないまま、洋館の中へと足を踏み入れた。
「チヘクデノ」
少女に案内されるまま、玄関ホール奥の大きな階段を上がる。
ーー土足でいいのかこれ……。
混乱を極める空瑠の頭だったが、事態は流れるように進む。
一つのドアの前に立った少女は、ノックして開ける。
「シユ? シツサケ、ミリ。二ヘクウルシテユヌンツム?」
そこには、二十代前半とおぼしき青年が立っていた。よく言えば温和そうな、悪く言えば線の細そうな印象を空瑠は受けた。
「ルセ。……フダ、スミイケミムツメセフミデ、ムメツヅヤソガスコミツイネカウナン」
「スミイケメ? ムコリド……ワツッフ」
「…………」
異国語で話され、完全に置いてけぼりを食った空瑠。外国での会話って、こんな感じなのかなーといった事をぼんやりと考える。
「スス、ノクムセマ」
思い出したように、青年が人当たりのいい笑顔を向けてきた。
「ーーワード・セケヨージャン」
青年がくるりと指を振ると、
「これで伝わるかな?」
「っ……!?」
空瑠は今度こそ、本気で驚き目を見開いた。
青年の口から飛び出した言葉は、今までの異国語ではなく、空瑠が聴き馴染んだ日本語だったからだ。正確には、言葉は変わらず異国語だが、それを日本語として理解ができるのだ。
「ワード・イリュージョン。本当に使う機会が来るとは思わなかったよ」
「何の話……」
「色々事情があるんだろうけど、まずは自己紹介だ。僕はストロ・トリリオン。こっちは使用人の、」
「ミリ・リーベンデルです」
ミリと名乗った少女は、ペコリと頭を下げた。
「ど、ども……」
釣られて頭を下げた空瑠に、
「君の名前は?」
ストロから問い。
「あ、宿木空瑠ですけど……」
「ヤドリギクルル? 聞き慣れない名前だね」
ーーそりゃ、日本人限定だしなぁ……。
「名前が後ろなんだね? じゃあクルル君でいいかい?」
「あ、はい。それでどうぞ……」
ずっと流されっぱなしだった空瑠は、思い切って聞いてみる事にした。
「……あの、」
「何だい?」
「……ここは、一体どこなんですか?」
「別荘だよ」
くらいまでなら許容できた空瑠だったが、実際の返答は遥かにぶっ飛んだものだった。
「ノグリスワールド・チリス区郊外、トリリオン家の屋敷だよ」
「…………は?」
数秒ほど思考が停止した空瑠は、
「……すいません。もう一回お願いします」
「ノグリスワールド・チリス区郊外、トリリオン家の屋敷だよ」
聞き間違いではないようだ。
ーーそっち系の人なのか……?
だが隣のミリを見ても、特に反応は無い。
「……ここって、日本ですよね?」
空瑠にしてみれば、一応訊いてみた、程度にすぎないのだったが、
「ニホン……? 何だい、それは」
ストロは本気で首を傾げた。
「えっと……」
ここまで来ると、空瑠も困惑してくる。このストロとミリは、完全に自分の世界を構築してしまっているのか。ーーあるいは、全て真実なのか。
「まあ、立ち話もなんだし、場所を変えようか」
ふとストロが言い、
「スライド」
と呟く。
すると、目の前で信じられない事が起こった。
閉まっていたドアが、ひとりでに開いたのだ。
「んなっ……」
空いた口が塞がらない空瑠に、ストロは怪訝な顔を向ける。
「……もしかして、魔法を初めて見るのかい?」
「もしかしなくて初めてですよ! 魔法? 何ですか魔法って!」
空瑠の頭、ここに混乱極まれり。
「ちょっと、落ち着こうか。クルル君」
なだめるように、ストロは両手をかざす。
「魔法なんて、使えて当たり前じゃないか」
「私も、そうだと思います」
ミリも当然のように頷く。
「…………」
ーーおれ、本当に異世界に来ちゃったのか……?
空瑠は初めて、現実から逃避したくなった。