旅立ちのエステル
「色々と、お世話になりました」
「おばちゃん、ありがとう」
「わるく思わないでおくれ、あの子も悪気は無いんだから…… 」
ニーリーは、そう言って2人に詫びる。
まだ朝早い事もあって、ルーベルは部屋で寝ている時間だ。
日が昇り、空が明るくなり始めた時に、幾嶋とエステルはニーリーの家を後にした。
ルーベルが起きてから2人が出て行く姿を見せるのは、当てつけがましいのではないかと危惧したのだ。
知らぬ間に出て行った、それで良いと幾嶋は思う。
ラミレスの事や冒険者ギルドの絡みがあって、思いのほか長居をしてしまっただけである。
どちらにせよ、自分が目覚めたこの世界を見て回る事は、幾嶋の中で決定事項になっていた。
ここ数日迷っていたのは、エステルを同行させるのかどうかと言う事でしかない。
しかし今回の誘拐騒ぎが、連れて行く決心への後押しとなった。
それだけの事で、ニーリーやルーベルに対する他意は無い。
「ルーベルの事は関係ありませんよ。 元々長居をするつもりも無かったんです」
そう言って、ニーリーに頭を下げる。
それを真似して、エステルもペコリと頭を下げた。
「まだ朝早いからさ、これを持って行きなよ」
ニーリーが手渡してくれたのは、売り物の蒸しパンだった。
寒くなってきた時期だけに、彼女の露店では売れ筋の商品である。
まだ温かいそれを手に、2人は早朝で人出の少ない町を歩く。
まだ商店なども開いてはいない。
中央十字路の、噴水の前にやってきた。
その縁に腰掛けて、まだ温かい蒸しパンを頬張る。
中に詰められていた、ゴロリとした肉の塊が口の中でホロリと解けた。
塩茹でした素朴な肉の味と、ニーリー独自の味付けが口いっぱいに広がる。
「あったかいね」
エステルが、そう言って笑いかけてきた。
そうして、急に下を向いて黙る。
「どうしたの?」
幾嶋が訊ねる声に、エステルはポツリと呟いた。
その声は、どこか元気が無い。
「置いて行かれるのかなって、思ってたの…… 」
「えっ!?」
まさか、エステルに気付かれていたとは……
幾嶋は、その勘の鋭さに驚いた。
「正直言うとね、その方がエステルが幸せになれるんじゃないかって思ったのは本当だよ」
「やっぱり、そうなんだ…… わたしはまだ背も小さいし、痩せっぽちの役に立たない子供だから、ジョーにとって足手まといなのかなって思ってた」
そう言って、幾嶋を見るエステルの瞳には、涙が溢れそうになっていた。
その顔には、そうじゃないと否定して欲しい、そんな想いが込められているのが解る。
「それじゃあ、役に立つ相棒になってもらうしか無いかな」
そう言って、ポンとエステルの頭に手の平を乗せる。
驚いたように目を開き、エステルは蒸しパンを持っていない左手で涙を拭った。
「うん、頑張る」
先ほどの涙はどこへやら、もう満面の笑顔になっている。
そして、流した涙を誤魔化すかのように、食べかけの蒸しパンに齧りついた。
「じゃあさ、エステルも冒険者になっちゃおうか?」
それが幾嶋の出した結論だった。
年齢的な問題がない事は、昨日ジーナから聞いている。
後は、歳の割に小柄な体をどう判断されるかだけが、事実上の問題だろう。
蒸しパンを食べ終わった2人は水筒の水を飲み終えると、冒険者ギルドへと向かった。
実はエステルに冒険者登録をさせようと考えたのには、もう一つ理由がある。
それは、ルーベルがエステルを避けるようになった理由として挙げられていた、『発火現象』について確認をしておきたいと思ったのだ。
旅をする事に対する冒険者登録証のメリットだけでなく、登録の際に行われる魔力測定の結果を知っておきたかったのである。
この町の冒険者ギルドは、城壁の門が開く早朝から営業を開始し、門が閉じてからは夜9時頃まで営業をしていた。
もっとも、これは町や村によって異なり、首都などの大きな都市部では24時間営業を行っている場合もある。
日が出てから距離を稼ぎたい旅人や行商人などの為に、町の門は日が開けると共に開かれていた。
冒険者ギルドも、この時間は訪れる者が少ない。
早朝に訪れる者の多くは、門が閉まってから町に到着してしまい、門の外での野宿を余儀なくされたクエスト帰りの冒険者が主体となる。
幾嶋とエステルがギルドの扉をくぐった時は、門が開いてから1時間程過ぎていたため、そんな早朝の混雑も終わっていた。
中に入って右側にある飲食用のテーブルには、討伐や採集の精算を終えて寛いでいる冒険者たちや、早めの朝食を食べている冒険者が数名いるだけで、人影は昼間に比べると大幅に少ない。
受付カウンターも昼間はジーナを含めて3名が働いていたが、今は1名しか居なかった。
その1名が、なんとジーナだった。
前夜、門の外で野宿をした冒険者たちによる、朝一番の精算ラッシュを処理した後らしく、いささかご機嫌斜めに見受けられる。
幾嶋は、面倒なことにならなければ良いなと思いながら、カウンターに近付く。
「おはようジーナ、この子を冒険者登録したいんだけど、面倒見てくれるかな?」
「あらあら、小さな女の子を連れているから、迷子の保護でもしたんなら管轄違いだって追い返そうと思ったんだけど、あなた子持ちだったの?」
訝しげな目を向け、その視線を幾嶋からエステルへと動かすジーナ。
真面目そうな幾嶋を弄るネタが出来て、喜んでいるようにも見える。
「子持ちか…… この子は俺の相棒だよ」
そう言って、エステルの頭に手を乗せる。
相棒と言う幾嶋の言葉に、嬉しそうな顔を隠しきれないエステルだった。
「ずいぶんと可愛いらしい相棒だこと。 大方、通行証代わりに冒険者登録でもするんだろうけど、年齢は大丈夫なのかしら?」
「一応、12歳だから問題は無いはずだよ。 体がまだ小さいのは、今までの栄養状態が悪かったからなんだ」
「ふーん、なんだか訳ありのようね。 まあ自称12歳でも10歳でも良いわ、どうせ自己責任なんだし、年齢確認なんて形式だけなんだから。 こっちにいらっしゃい」
しかしエステルの身長では、高さが130cm程あるカウンターに頭が隠れてしまい、ジーナからは見えない。
「なにボサッと突っ立ってるのよ! 保護者なら、あっちから椅子を持って来なさい」
幾嶋はジーナに指示をされて、慌てて飲食エリアから椅子を1つ持って来る。
寛いでいた冒険者たちは、興味深そうに幾嶋たちを見ていた。
椅子の上に乗って、ようやくエステルはカウンターの上に上半身が出る。
それを確認して、ジーナは満足そうに頷いた。
「字は書けるの? 書けなければこっちで書いてあげるわよ」
なんだかんだ言いながらも、ジーナはエステルに気を遣っているようにも見える。
そこから先は、幾嶋が経験した通りに進み、魔力検査の順番が来た。
「じゃあ、ここに手を当ててね」
ジーナが取りだした魔力調査球に、エステルが両手を当てる。
果たして、どんな結果が出るのだろうか?
「あら…… この子、才能があるわよ」
ジーナが放った『才能がある』という言葉を聞いて、嬉しそうに幾嶋を見るエステル。
才能が何を意味するのかは、まだ恐らく判ってはいないだろう。
ただ幾嶋のお荷物ではなく、『相棒』として自分が何かの役に立てるかも知れないという意味合いで、彼女は喜んだのだ。
「わたしは、何が出来るの?」
エステルはジーナに、そう訊ねた。
しかし、ジーナは言いにくそうに口を開く。
「あのね、魔力は誰にでも大なり小なり有る物なの。 あなたの場合は人より大きい力があるけれど、それを外に向かって使えるかどうかってのは、また別なのよ。 そういう意味では、何も魔力が無いのと同じなの」
それはまるで、母親が娘に向かって諭すような話し方だった。
自分が他人より優れているという認識は、時として人を傲慢にしてしまうから、そうなっては駄目よと自分の子供に言い聞かせているかのようだった。
「ほぉ…… 」
そんなジーナの姿が意外で、思わず幾嶋の口から声が漏れてしまった。
「ちょっと、その『ほぉ…… 』は何よ! あたしを馬鹿にしてるの?」
キッと幾嶋の方を向いて睨みつけてくるジーナだが、その頬は少し赤味を帯びている。
「いや、それで肝心の属性は何だろう。 やはり火なのかな?」
一番聞きたかった事を訊ねてみる。
ジーナは自分が脱線していた事に気付き、職務を遂行する厳しい顔に戻った。
「まあ良いわ大目に見てあげるけど、次は無いわよ。 この子の潜在的属性親和性は火の上位である炎ね。 そして凄い事にもう1つ風も持っているの、そういう意味で才能があるって言ったのよ。 普通は人が扱える属性って1つが多いから」
「でも、外に向けて使えなければ意味が無い…… って事か」
「そう、だから職業は『無職』にしておくわね。 どうみても剣の達人って訳でもなさそうだし、当分は仕事をするって言っても採集専門でしょ」
「しかし、無職ってのは……」
「あら、あなたの中で無職ってのは、何か特別な意味でもあるのかしら? 特定の職業に就く前だから現状は無職ってだけよ。 他の意味は無いし、何を専門にやるか決まったら、その時に登録すれば良いだけの話だわ」
なるほど、幾嶋の考える無職のイメージと、この世界で冒険者ギルドが使う無職の意味合いというのは、まったく別の物のようだ。
「じゃあ、カードを作っておくからイクシマも一緒に講習を受けてきなさい。 あなた、この間ちゃんと最後まで受けてないでしょ。 知ってるのよ!」
「はいはい…… 」
「はい!は一回で良いの!」
面倒になって適当に答え、ジーナに叱責された幾嶋は、彼女に見えない位置で、ペロリと舌を出した。
「怖いおねーちゃんだね」
中庭へと通じる廊下へ出たところで、エステルがポツリと呟いた。
エステルの指定クエストは、幾嶋の時と違って簡易なものだった。
それは、町の近くに生えているシクロと呼ばれている薬草を、5株取ってこいというものだ。
もしかすると、子供用の指定クエストがあるのかもしれない。
資料室のお姉さんから西門の近くの川辺にあると聞いて、無事収穫完了。
護衛で着いていった幾嶋は、特に何もする事が無かった。
「はい、これがあなたの冒険者カードよ」
ジーナが、エステルにC1ランクの冒険者カードを手渡す。
それを無邪気に喜ぶエステルは、嬉しそうにカードを幾嶋に見せた。
ジーナはそれを微笑ましそうに見た後、すぐにいつもの顔に戻して言った。
「イクシマ、この子を大事に育てたいなら、無茶なパワーレベリングは止めておくことね」
「パワーレベリングって、それも古代語?」
「そうよ! 強い人間と組んで、弱い人間を短期間でレベルアップさせる事を冒険者ギルドでは『パワーレベリング』って言うの。 大人でも無理をすると悪い意味で人の枠を超えてしまうから、前後2レベル以上の差があるパーティは禁止してるのよ」
「悪い意味でって、具体的には?」
「そうね、軽い症状では皮膚に鱗が生えたり、色が変わったりするらしいわ。 でも最悪な場合は、人が魔獣になってしまうの。 それを魔獣や魔族と区別するために魔人って呼ぶのよ」
「変わるのは見かけだけ?」
「能力も魔族並みになるようだけど、やたら攻撃的になる上に頭も悪くなるみたいね。 それに力が安定するまでは動きが鈍くなるから、たいていはその段階で仲間に処分されるの。 言っておくけど、魔人は問答無用で討伐対象よ」
「ああ、配慮するよ」
「普通は、あなた程の冒険者がC1ランクなんて有り得ないんだけど、この子とパーティを組めてしまう以上、有り得ない話じゃないから忠告しておくわ。 成長期の子供に、無理なパワーレベリングをさせては駄目よ」
「ああ、ご忠告に感謝するよ。 エステルに鱗が生えるなんて想像したくないからな」
「鱗で済めば良いんだけど。 ファルマの話を聞く限り、あなたには楽勝な敵でも、この子にとっては死活問題になりかねないわよ」
「判った、ありがとう。 今日のうちに町を出るけど、手続きはどうしたら?」
「二人とも、カードを貸しなさい。 次の町なり村に着いたら、3日以内に冒険者ギルドへ届け出るのよ。 それから、余所の国に行く場合は通貨が異なる場合があるから、一旦お金をギルド硬貨に換えておくことを勧めるわ」
「なんだい、それは?」
「ギルド硬貨は世界共通だから、何処の国へ行っても、行った先の国で使えるお金と交換が出来るの。 高額貨幣もあるから、大金を持ち歩く場合は量も減るし、良いことばかりよ」
「なるほど、ギルドに逆らうと一文無しになるって仕掛けでもあるよね、きっと」
「鋭いわね。 冒険者カードと組み合わせないと換金出来ないから、そういう側面も無いとは言わないわ」
ジーナは幾嶋の指摘を受けて、ニヤリと笑った。
「オーケー! お願いするよ。 もっとも、これから食料やらエステルの武器なんかも買わなければならないから、それほど残っていないかもしれないけど、町を出るときに寄らせてもらうよ」
「そうそう、忘れてたわ。 ファルマから、人喰いの賞金首一人分をイクシマに渡すように言われていたの」
ガシャリと重そうな音を立てて、ジーナがカウンターの上に取り出したのは、幾嶋がオーガ討伐で手に入れた分け前を遙かに超える、相当量の金貨が入った革袋だった。
その音を聞いて、ギルド内にいた冒険者たちの注目が集まる。
結局、受け取る受け取らないの問答があった後で、強制的にそれはギルド硬貨に換金されることになった。
考え方を変えてみれば、これで残りのお金を気にせずに旅の支度ができるという事になる。
幾嶋は、まず最初にカズーイの店に向かった。
理由は冒険者ギルドから近いというだけの事だったが、町を出るという挨拶も兼ねていた。
「おう、お嬢ちゃんには、このナイフが良いだろうさ」
カズーイに相談して選んで貰ったのは、エステルが持てば小剣程にも見える細い両刃のナイフと、薄いがその分軽い金属素材で出来た胸当てと手甲に脛当てだ。
幾嶋は、使い勝手の良かった投げナイフを余分に仕入れた。
そしてカズーイに別れを告げ、別の店へと行く。
エステルがスカートの下に履く、小さなズボンとブーツも買った。
大量の荷物を入れる幾嶋用の鞄とエステル用に小型の鞄も買って、食料の買い出しに移る。
干し肉と乾燥野菜を仕入れ、岩塩や味噌に似た調味料も手に入れた。
乾燥させた黒パンも購入し、調理用の鍋やコッヘルに似た金属製の器なども入手して、旅の準備は整った。
歩きながら使う水は専用の革袋に入れて腰に吊り下げるが、予備の分は幾嶋が水属性の魔素を練り込めば、大剣からでも手の平からでも得られる事が判っているので、買わない事にした。
ラミレスの家に行き、ラミレスやサージェたちにも別れを告げる。
全員が名残惜しそうに、家の前で見送ってくれた。
「じゃあ、ラミレスを頼んだよ」
「ああ、俺たちに任せとけ! 鉄壁のゴンゾが戻ったからな、俺たちだってパーティ単位じゃAランクにだって負けないさ」
「ほんとうに、みなさんが居てくれて心強いですよ」
「じゃあねイクシマ、エステルを大事にするんだよ」
「色々あったけど、また何処かで会ったら臨時パーティを組もうぜ」
「今度は俺も、イクシマと一緒に行った討伐の話題で盛り上がりたいからよ、頼むぜ」
口々に、別れの挨拶を投げかけるサージェたちとも別れ、二人は最後に中央十字路のニーリーの処へ向かう。
早朝から動いているので、先ほど午前9時を知らせる鐘が鳴ったばかりだった。
ニーリーからは、また商売物の蒸しパンを押しつけられ、道中の昼飯とする事にした。
最後の最後に冒険者ギルドへ寄って、町を出る申請のついでに、次に向かう先の情報を資料閲覧室で仕入れる。
「ファルマがいれば、挨拶だけでもしたいんだが」
「彼はまだ依頼された仕事があるそうで、明日まで戻らないそうよ。 言づてがあるなら聞いておくわよ」
「そうだな…… 『配慮に感謝する、また会おう』、とでも伝えてくれ」
そう言って、幾嶋は冒険者ギルドを後にした。
冒険者ギルドから東門までは、すこし距離がある。
中央十字路で、懸命に働いているニーリーに、少し離れた場所から視線を送る。
先ほど別れの挨拶をしたばかりなので、声は掛けない。
ニーリーが、二人に気づき手を振った。
幾嶋とエステルも手を振り返す。
やがてニーリーは接客に戻り、二人を振り返りもしない。
それがニーリー流の、後を引かない別れの流儀なのだろう。
二人は、大通りを歩き東門を目指す。
僅か1週間前には足を壊されたエステルを抱えて、この通りを神殿に向かって必死で駆けた事を思い出す。
門を出て、冒険者ギルドで確認した地図を思い出した。
簡易すぎて、幾嶋から見れば地図とは呼べない代物だが、それなりの位置関係だけは、目安となり得る。
正確な位置は、衛星からの画像でなんとでもなるだろう。
監視衛星は、まだ町の上空にある。
道が明確に判る程度の高ズーム倍率を維持したまま、衛星を移動させれば詳細な地図は不要だろう。
東に向かう街道を前にして、そんな事を考えていると、後ろから声を掛けられた。
「あの、もし東へ向かうのでしたら、ご一緒させてもらえませんか?」
幾嶋が声のした方へと振り向き、エステルも振り返る。
そこには、山羊とも牛ともつかない黒毛の獣に荷車を引かせた、一人の男が立っていた。
「朝から旅に出る冒険者さんが居たらご一緒させてもらおうと、ここで待っていたんです。 ですが今日に限って一人も居なくて、気が付いたらこんな時間になっていました。 少ないですがお礼もお支払いします」
そう言って頭を下げる男は、おそらく行商人なのだろう。
荷車には、山盛りの荷物が縛り付けられていた。
男は、まだ馬車に乗り商隊を組んで、護衛の冒険者を多数雇う程には成功していない、商人としては比較的若い30代くらいの男だった。
数日前にこの町へ到着して農産物や織物を仕入れ、次の村や町で売りさばく事で粗利を稼ぐのだ。
護衛の冒険者を専任で雇う事も可能だが、そんな事をしていればせっかくの稼ぎが減ってしまう。
少しでもお金を節約して、もっと大きな商いをするのが男の目標だった。
子供の頃から、自分が担げるだけの荷物で行商を始め、ようやく荷車に乗せるほどの商いを出来るようになったのだ。
なんとしても馬車を買って何処かの町に店を構えるまでは、贅沢はおろか無駄遣いは極力避ける事が一番の近道なのだ。
時間的に考えると、ここで幾嶋に断られたらまた町で一拍する必要が出てくる。
売上金額では無く、得られる利益でその宿泊費用を稼ぐ苦労を考えたら、連れの子供はなんとも微妙だったが、ここは強そうな冒険者に見える幾嶋に同行をお願いするしか無かった。
本音を言えば、護衛代わりの冒険者を二人以上は欲しかった。
しかし次の村までの道中を考えれば、比較的広い道と拓けた土地が続いているだけに、冒険者一人でも危険度は少ないだろうと思える。
次の村までくらいなら、子連れの冒険者だけでも何とかなるだろうと、その男は計算をしたのだった。
「小さなお子さんは、この荷台に乗せれば、暗くなる迄には次の村に着けるでしょう。 如何でしょう、同行をお願い出来ないでしょうか?」
その提案は、幾嶋にとっても魅力的だった。
目的地へ行くだけなら、空を飛べば良いだけである。
しかし、今後の事を考えるとエステルと共に旅に慣れておく必要もあると考えて、徒歩の旅にしたのだった。
もちろん幾嶋にとって、本来旅のリスクである盗賊や亜人との遭遇、そして魔獣などに途中で襲われる事は、考慮すべき問題ですらない。
そんな幾嶋にとって、足が遅く体力も無いであろうエステルを荷台に乗せてくれるなら、旅の初日という事を考えると感謝すべき提案だったのだ。
「俺たちも、旅は初めてなんだ。 旅慣れた人が同行してくれると助かるよ」
「え!? 初めてなんですか?」
幾嶋がそう答えると、エステルも頷いた。
しかし、商人の男は逆に不安が胸にわき起こる。
(これは、人選に失敗したのではないだろうか?)
商人の男の不安を余所に、幾嶋はエステルを荷台に座らせていた。
自分からお願いしておいて、今更断ることも出来ない状況に男は陥っていた。
男が利害に聡い我利我利の商人であったなら、ここは角が立っても断るべきである。
しかし、そうしなかった事が男にとって何よりも、自分の身と荷物の安全図る上で幸運だったと言う事を知るものは居ない。
「私の名はロクハラと申します、よろしくお願いいたします」
男が諦めて幾嶋たちとの同行を決めた事で、幾嶋とエステルは旅慣れた同行者を得た。
3人と1頭は、東に向かう異世界の街道を旧世界の東京方面へ向けて、やがて静かに歩き出した。




