東歓楽街のマーテル
イクシマがニーリーの家を飛び去る少し前に、時間は遡る。
東歓楽街と呼ばれる、夜でも賑やかで煌びやかな、そして退廃的な街の一角に、その屋敷はあった。
町一番の金貸しであり、遊郭や賭博場だけでなく、この別宅なども含め、大小合わせて10数件もの不動産を所有しているのは、ルシアがマーテルと呼んでいた男である。
でっぷりと太った体、趣味の悪い金ピカのアクセサリー類、そして肉の中に埋もれているような醜悪な顔。
そんな男が、エステルとルーベルの前に傲然と立っていた。
そして、その手下と思われる二人の男と、上級冒険者風の高価そうな防具を身に着けた3人組の男達が後ろに控えている。
しかし、何処を見ても冒険者の身分を示すプレートは見えなかった。
エステルとルーベルの二人とも、薄汚い布で猿ぐつわをされた上に、手足を縄で縛られ床に転がされている。
二人とも床に直接横たえられたまま、マーテルに対して厳しい視線を向けていた。
「ライアン! この痩せた子供は何だ? 俺が連れて来いと言ったのは娘のルーベルだけだぞ」
マーテルに呼ばれた、若草色の髪の毛をした部下の名前は、ライアンというらしい。
もう一人の部下の名前はまだ判らないが、熱心な視線をエステルに向けているのが不気味だ。
「マーテル様それが、ちょうど娘を掠うところを、家の中でこの子供に目撃されたらしく、騒がれるのを避けるために一緒に掠ってきたそうです」
「まあ良かろう、一人だろうが二人だろうが、すぐに買い手も見つかるだろうさ。 それで誰にも見られなかっただろうな?」
「へい、それがちょっと不味い事になってまして」
マーテルに問い返されて、必死で説明をするライアン。
ニーリーの様子を監視するために、近所に残してきた別の部下が先ほど慌てて戻ってきたらしい。
「ルシアが? なんだってニーリーが警護隊なんかに…… 手はず通り誰にも言わずに金を持ってくるよう、ちゃんと伝言はしたんだろうな?」
「それがニーリーの奴、血相を変えて飛び出して行っちまって、伝言は伝わらずじまいだったそうです」
「ならば、いつまでも此処に置いておくのは不味いな。 運び出す手配をしろ! そして、俺の店に兵士共が入れないように、手下を集めろ!」
「すぐに町の外へ運び出す手はずは、既に進めてます」
「そうだな、どこに娘達が居るのかを誤魔化すために、手下を別の店に散らせて判りやすく入り口を固めておけ。 ここは手練れだけを残しておけ」
「へい、そう言われると思いまして、雑魚な手下はみんな余所の店に行かせて、兵士を中に入れないように門を見張れと言ってあります」
「さすがだなライアン! それで良い。 どうせどこに掠った娘が居るかなんて、判りはしないのだからな」
「しかし年頃の娘はともかく、こんなに痩せたチビ助なんて、一応女とは言っても買い手なんかあるんですかねぇ?」
ライアンが、不思議そうに訊ねた。
「お前はそういう趣味が無いから判らぬのだろうが、世の中には普通の相手では満足できない高貴なお方が沢山いらっしゃるのだ。 それに、この子供、痩せて貧相に見えるが顔の造りは悪くない。 あと数年すればお前など相手にもしてくれないような、良い女になると思うぞ」
そう言ってマーテルがいやらしそうに笑い、それを聞いたエステルが猿ぐつわのまま、声にもならない声を漏らした。
それを見て、ライアンともう一人の部下が楽しそうに笑いを漏らす。
「なるほど金持ちには、時間を掛けて自分好みに育てるって手もあるのか。 俺っちには縁のない話だ」
「ふはは、せっかく綺麗に咲かせた花を、自ら踏みにじって汚すというのも、そうしたお方には好みのようでな、素材が良ければ高く売れるのさ」
「金持ちにはヘンタイが多いんですな」
「ヘンタイに金持ちも貧乏もあるものか、お前の隣にいるアグラも、ヘンタイの子供趣味ではないか」
二人の視線が、アグラと呼ばれた男に向かった。
その男、やや狼狽えて言い訳をする。
「親方、おいらはちょっと大人の女の図々しさが苦手なだけで、ヘンタイと言われるのは心外ですぜ」
「それをヘンタイと言うのだ!」
「違いない」
マーテルとライアンの掛け合いに、後ろで控えている三人組が、クククと笑いを漏らした。
「まあ、金になりさえすれば、個人の趣味など好きにすれば良いだけの事さ」
マーテルは、そんな事など金儲けと比べればどうでも良いとばかりに、そう言い放つ。
「親方、こ、こいつ髪の毛は長くて女みたいな顔もしてるけど、貧相な体で本当に女なんですかね」
アグラと呼ばれた男は、突然しゃがみこんでエステルの顔に掛かっていた髪の毛を左手でそっと耳の後ろへと動かす。
当然のようにエステルは拒否反応を示して暴れようとするが、縛られたままでは何も出来ない。
「おいおいアグラよ、年頃の娘はガン無視か? 普通は出るところの出たルーベルの方だろうよ」
ライアンがマーテルと一緒になってアグラを嗤う。
それを聞いたルーベルの目が険しくなった。
「むぐうぅぅんんう」
エステルが身を捩って抗議の態度を示したが、アグラはエステルに触れるのを止める気配も無い。
「アグラ、ほどほどにしとけよ」
マーテルとライアンが部屋から出て行こうとアグラに背を向けたとき、ボン!と何かが弾けるような音がして、後ろから突然熱気が伝わった。
見れば、薄暗かった部屋の壁が明るくオレンジ色に照らされているではないか。
「うぎゃああぁぁぁ…… !!」
大きな濁声の悲鳴が聞こえ、最後の方はモゴモゴとくぐもった音になる。
叫び声に驚いてマーテルたちが振り返ると、アグラが深紅の炎に包まれて倒れたまま、あちこちに跳ね回っていた。
喉を炎に焼かれたのか、もう声は聞こえてこない。
やがてピクリとも動かなくなり、焦げ臭い匂いが部屋の中に立ちこめた
「アグラよ…… なんて事だ」
ライアンが、その惨状を見て呟く。
マーテルは何が起きたのか状況を理解出来ず、声も出せないようだった。
後ろに控えていた三人組が、地下室の中を警戒して見回す。
当然、誰もいる訳が無かった。
エステルはと見れば、失神しているようだった。
床に倒れたまま、ぐったりとしていて動かない。
その反面、ルーベルは恐怖に駆られてその場から逃れようとしているようにも見える。
彼女は必死で縛られた脚を何度も動かして、後ずさりをしようとしていた。
「お前! 一体何をやらかした?」
ライアンが胸元から大きなナイフを抜き出してマーテルの前に一歩出ると、ルーベルに向かって突きつける。
気絶しているエステルと意識のあるルーベルを見比べれば、、誰だってルーベルが何かをやったと考えても無理は無かった。
涙目になり、必死で何度も首を振って否定するルーベルだが、それは疑心暗鬼に駆られたライアンとマーテルには通じなかった。
その時何の前触れも無く、館を大きく揺るがす大きな振動と耳を劈く轟音が伝わって来た。
地下室の天井が軋み、パラパラと埃が落ちる。
マーテルとライアン、そして三人組はルーベルから視線を外し、いったい何が起きたのかと反射的に地下室の天井を見上げた。
再び、時は僅かに巻き戻る。
エステルとルーベルに危機が迫っていることを知った幾嶋は、ニーリーの家を飛び出して直ぐに、二人が捕らわれている屋敷の上空に到達していた。
まさに、ルーベルにライアンのナイフが迫る直前、幾嶋は飛行速度を維持したままで、右拳を握り締めて腕を後方に振り上げた。
マーテルの屋敷の手前で高速旋回して、上空から進路を下方向へと急激にねじ曲げる。
その振り上げた右腕に展開されているのは、かつてバレリーたちを救うために赤竜を殴り倒した、超加重フィールドである。
僅かな重量しか無いはずの幾嶋の右拳が、隕石のごとき破壊力を持ったまま、屋敷の屋根を直撃した。
振り抜いた右拳は爆発にも似た破壊力で、大きな屋敷の大半を叩き潰して半壊させる。
中にエステルやマーテルの手下たちが居たら無事では済まないだろう。
マーテルが警護隊の進入を阻止するために、手練れの手下を館の入り口付近に集結させていた事が幸いしたのか、幾嶋の怒りに巻き込まれた者は居なかった。
幾嶋は得られた計測値から、エステルの居る座標を把握している。
だからこそ、屋敷は上半分の崩壊だけで済んでいるのだ。
幾嶋は壊れた屋敷の半壊している床に降りたって、今度は右足に超加重フィールドを発生させて床を踏み抜いた。
ドン!と言う重い破裂音と共に大きく床が抜け落ちる。
床を構成していた部材が、階下に向かって勢いよく飛び散っていった。
階下から見ている者が居れば、突然天井が下に向かって爆発したのかと思っても不思議では無い、それ程の強烈な打突だったと言えるだろう。
スーッと、幾嶋が天井に空いた大穴からゆっくりと降下してくる。
1階の床に降りたって、ゆっくりと辺りを見回した。
その唇は真一文字に結ばれて、幾嶋は無言だった。
階下のフロアにも、人の気配は無い。
この下にある地下室らしき空間に、エステルの反応がある事は判っている。
ルーベルが一緒なのも、漏れ聞こえてくる会話から判っていた。
一刻も早くエステルを窮地から救わねばと思って、強行突破をして来たのだ。
しかし、ここ1階でも同じ事をしてしまえば、床が崩れて地下に居ると思われるエステルとルーベルにも被害が及びかねない。
そして、幾嶋は前方に壊れかけた1枚のドアを見つけた。
階上へ向かうドアなのか階下へ向かうドアなのか、それとも両方へと繋がっているのかは判らない。
幾嶋は迷う時間も惜しいと考えて、そのドアへと向かった。
同じ頃、屋敷の入り口である大きな門の付近でも別の騒ぎが起きていた。
吹き飛んだ屋敷の破片が入り口付近に降り注ぎ、集まって門を守っていたマーテルの手下たちは一斉に頭を抱えて、身を屈めている。
その場の全員が、吹き飛んで来る屋敷の破片から身を守ることに必死だったから、門に近付く者が居ることに気付かなくても無理はないだろう。
門に一番近い位置にいたマーテルの手下が一人、頭を抱えた低い姿勢のままで門の外を見る。
門の外側に立つ人影の脚が視界に入った。
男の目からは、立っている人物が身に付けている黒っぽい脛当てから下しか見えていない。
その男は屈んだまま、急いで上を見上げて叫ぶ。
「て、てめーは何者だ! ここに何の用だってんだ!」
大声で誰何の声を上げたのは、仲間に知らせる為でもある。
一斉に仲間たちが、声のした門の方を見た。
「お前たちに用は無い、余計な詮索をするな。 大人しく、ここを開けてもらえぬか?」
門の前に佇んでいた男は、静かに、しかし半ば強引とも言える要求を伝える。
その男は、左腰に太刀を下げていた。
左手の親指が上、人差し指が下である。
その節くれ立った親指と人差し指の二本で、黒塗りの鞘の根元、つまり鍔元を軽く摘まんで、鞘をやや下向きに押さえている。
「ふ、ふざけるな! 誰であっても今日はここから一歩も入れるなって命令なんだ。 死にたくなかったら帰れ!帰れ! 帰りやがれ!」
威勢良く言い放ったマーテルの手下は、後ろに居る仲間たちの人数を思い出したのか、ずいぶんと強気だ。
「ならば、押し通る!」
ニヤリと笑って言うが速いか、いつ抜いたのかも判らぬ早業で、男の太刀が逆袈裟に一閃する。
鉄の門を薙いだのは風なのかと思う程に、抵抗もなく男の太刀は門を擦り抜けて、太刀は宙へと抜けた。
そして頂点でツバメ返しの如くに切り返して、太刀は袈裟切りに切り下ろされる。
切り返しの際に、バン!と切っ先が僅かに音速を超えたような衝撃音が鳴り響いて、頑丈なはずの鉄の門は、まるでバターの如くに容易く断ち切られた。
ガランガラン!と重い鉄の部材が地面に落ちて跳ねる。
門の前で叫んでいた男の体が、太刀の切っ先も触れていないのに、左の肩から右の脇にかけて袈裟切りに断ち切られた。
僅かな間を置いて、ドサリ!と地面に上半身がズリ落ちる。
ビチャリと血だまりに左脚のブーツを踏み入れて、グリグリと地面に足裏をねじ込む太刀の男。
足裏が、血糊で滑らぬようにしているのだろう。
その無言の圧力に、マーテルに手練れと呼ばれた手下達が気圧されて後ずさる。
言葉少なに、太刀の男が言い放った。
「邪魔をすれば、切る!」
屋敷の地下室で、まだ何が起きたのか判っていないマーテルは、部下のライアンに命令を下していた。
状況が判るまでは、壁に囲まれた地下室の方が安全だろうと考えたのだった。
「何があったのか、上に行って様子を見て報告しろ!」
へい!と返事をしてライアンが地下室から出て行く。
立て付けの悪い木製の厚いドアが、バタンと音を立てて閉まった。
それを見送って、マーテルが三人組の方を向き、声を掛ける。
「頼みますよ、高い金を払っているんだから、元A2ランクの実力を期待していますよ」
男達は、マーテルに元と言われる通り、元冒険者たちである。
Aランクともなれば、人の枠を超えた強さを持たなければ得られないランクである。
普通にランクに見合ったクエストをしていれば、金に苦労をする事は無い。
しかし、彼らは酒と女と博打に溺れ、安全でより多くの金を求めた。
彼らは実入りも多いが危険の多い冒険者を辞めて、マーテルの用心棒になっていた者たちだった。
「俺たちが居るんだから、心配なんかする必要は無いんだけどな」
「ああ、俺たちを雇って良かったって、これから思わせてやるぜ」
「まったくだ。 Aランクが3人居ると知れば、誰が来ても小便を漏らして逃げていくに決まってるさ」
元A2ランク冒険者の男達は、そう言って余裕の笑いを見せた。
 




