露店商のニーリー
「お帰りなさい、エステルちゃんもお帰り… って、この人は誰?」
「こんばんは、初めまして幾嶋と言います」
「エステルちゃんの保護者さんだよ。 しばらくうちで面倒を見るから、宜しく頼むよ」
道すがら教えてくれた、露店商の女性の名はニーリーだった。
彼女の家で幾嶋たちを迎えてくれた彼女の娘は、年の頃で言うなら18歳ほどの綺麗な少女だった。
「あたしの娘でルーベルって言うのさ、この人はイクシマって剣士さんだよ」
「イクシマ ユズルです、ジョーと呼んで下さい」
「それじゃあ、この人がエステルちゃんの…… 」
どうやら幾嶋の事は、エステルがお世話になった昨夜、それなりに話題になったらしい。
「話には聞いていたけど、黒髪で黒目だなんて、この辺りじゃあまり見かけないよね」
ルーベルが、珍しそうに幾嶋を見ていた。
確かに、街で出会う人たちはみな、髪の毛が何らかの色を帯びていた。
ニーリーは薄い紫色、ルーベルは淡いオレンジ色の髪の毛をしている。
思い返してみれば、ジョリーたち三人組もそれぞれ個性的な髪の色をしていた。
そういう目で見れば、エステルの赤みがかったブラウンの髪の毛も染めたとは思えない個性的な色だ。
かつての世界では、黒色以外の髪色は例外なく染めていると思って間違い無かったはずだった。
しかし、この世界では黒が逆に珍しいらしい事に、改めて幾嶋は驚かされる。
そして、黒い瞳もまた珍しいと言う、この世界。
幾嶋の知るかつての人間達と、いま目の前に居る人間達は何処かが根本的に違うのだろうか?
町中ですれ違った獣人とでも呼ぶべき人達や、リザードマンとでも呼ぶような、亜人とでも分類したくなる生き物が普通に人間と暮らしている社会も、幾嶋の記憶に有る人間世界とは違い過ぎていた。
それはまるで、幾嶋が子供の頃に夢中になっていたファンタジーを題材としたゲームの世界の住人のようだった。
まだ、この世界について何も情報が集まっていない現時点では、そんな疑問も湧いてくる。
極端な考えをしてみれば、幾嶋はまだ目覚めていないのでは無いだろうかという気もしてくる程に、この世界は幾嶋の知っている世界とは根本的に異なっていたのだ。
かつて商売をやっていたというニーリーの家は、木造で造りは古いながらも狭くは無かった。
幾嶋とエステルには、エステルがどうしても幾嶋と一緒が良いと言い張って、空いている2階隅の1室があてがわれた。
エステルは独りになる事を極端に恐れていたが、それも無理は無いだろうと幾嶋は考える。
天涯孤独な身の上という境遇と、妙な縁ではあったが、今は頼る者が幾嶋しか居ないのだろう。
ニーリーの亡くなったという夫が居た頃は、商売も上手くいっていたようで、それなりに当時は羽振りも良かったのだろう。
客間として使われてたと思われるその部屋には、埃を被った広めのベッドが2つ並んでいた。
「悪いけど、掃除は自分たちでやっておくれ!」
そう言われて渡された掃除用具は、シンプルに干し草の茎を束ねたホウキとボロ布の端切れを継ぎ合わせて作られたハタキ、そして木製のチリトリだった。
四角い部屋を丸く掃くしか出来ないでいる幾嶋を尻目に、エステルがテキパキと良く働いて、部屋の掃除は瞬く間に終わってしまう。
当然だが、掃除に関する特殊能力までは、魔総研のドラゴンスレイヤー開発チームも必要になるとは想定をしていなかったようだ。
掃除が終わって一休みしている処に、ドアの外から声を掛けられた。
「お風呂の用意をするから、手伝っておくれ」
「はーい!」
ベッドに腰掛けていたエステルが、すぐさま応えて立ち上がる。
「えっ、お風呂があるんですか?」
幾嶋が、やや戸惑いながら返事をした。
この世界の事は、まだ解らない事だらけだけれど、村の生活レベルや街並みを見ていても、風呂という物があるようには思えなかったのだ。
風呂というものは、大量のお湯を得るためと維持するために、意外とコストが掛かるものなのだ。
この文化レベルの街に、果たして上水道などというものがあるのだろうか?
そして、それがあったとしても、この家庭にまで引かれているのだろうか?
そして、湯を沸かす熱量はどうやって得るのだろう……
そんな疑問が、幾嶋にはあったのだ。
薪に火をつけて熱量を得るのは、昔の日本でもやっていた事だが、実に効率が悪い。
山や森が近くにある農家であれば別だが、毎日の燃料として薪を得るのは、街住まいともなれば楽ではないはずだった。
「死んだ亭主の拘りでね、贅沢だけど内風呂があるんだよ。 それに羽振りが良いときに買った火晶石もね」
ドアを開けて廊下に出た幾嶋に、ニーリーが自慢そうに言った。
「火晶石…… ですか?」
幾嶋には、火晶石という物が何なのか、想像が付かなかった。
「後で見せてあげるから、まずは井戸から水を汲むのを手伝っておくれよ」
ニーリーは、そう言って幾嶋に水桶を二つ差し出した。
「エステルちゃんは、ルーベルと一緒に夕ご飯の支度を手伝ってもらうよ」
「はーい」
エステルは、先に一晩お世話になっているだけあって、台所がどこにあるのか既に知っているらしく、トコトコと小走りで1階の奥へと駆けていった。
ニーリー家の井戸は、母屋に隣接した小屋の中にあった。
小屋とは言っても、井戸の中に動物やゴミや枯れ葉などが入らないように、簡易な囲いと屋根を取り付けただけの質素な物だ。
井戸の縁を見ても、水を汲み出すがポンプがある訳では無い。
井戸の中にゴミが入るのを防ぐ覆いの上には、ロープの付いた汲み桶が置かれている。
井戸の屋根に取り付けられた滑車に通された、そのロープに汲み桶が結びつけられている。
それを井戸の中に投げ入れ、引き上げるだけの単純な仕掛けだ。
子供の頃に歴史の教科書で、そんな井戸のイラストを見たような気がして、不思議と懐かしい感じがする。
女子供には重労働であるはずの水汲みも、幾嶋の竜殺しのパワーをもってすれば容易いものだ。
ニーリーに指定された浴槽に、幾嶋のくみ上げた水が満たされるまでには、それ程の時間を要しなかった。
浴槽は木製で、恐らく水が漏れないように継ぎ目を植物の樹脂などで埋めているのだろう。
どうやってお湯を沸かすのだろうと思って周囲を探してみたが、どこを見ても、風呂釜やカマドの火入れ口らしきものは見当たらなかった。
室内を見回しても、何故か紐のついた鳥かごのような物が一つあるだけ
で、あとは使用目的の判る小さな桶くらいしか無かった。
井戸の文明レベルから考えると、風呂は薪を焚いて湯を沸かす五右衛門風呂タイプが相応しいのだ。
「流石に男手があると早いね。 ところで、いったい何を探しているんだい」
そう言って、ニーリーが後ろから話しかけてきた。
その手には石で出来た皿のような物と、ゴルフボールくらいの大きさの、赤い水晶のような物を持っている。
「どうやってお湯を沸かすのかなと思って、見ていたんですよ」
幾嶋が正直に答えると、ニーリーは嬉しそうに笑った。
「ほれ、こうするのさ」
ニーリーは鳥かごの中に石の皿を入れると、その皿の中央部に作られた窪みに赤い水晶を静かに置いた。
すると、たちまち石の皿に描かれた魔法陣が白く光りだし、赤い水晶は赤々と輝きだした。
それを見てる幾嶋の顔にも、火晶石が放つ熱気が伝わってくる。
ニーリーが自分の右手を伸ばし、自分の顔から火晶石の入った鳥かごを遠ざけるようにして、それを浴槽に沈めた。
ジュッ!と言う濁った音と共に、たちまち火晶石の周囲からゴボゴボと大きな気泡が立ち始める。
ニーリーが、どや顔で幾嶋に顔を向けた。
「なるほど、こんな便利なものがあるんですね」
この世界の文明レベルは低そうだと思っていたが、便利なアイテムは有るのだなと、文明レベルのアンバランスさに多少引っかかりながらも、評価を上方修正した幾嶋であった。
ところが……
「あれまぁ、いやだよ。 こんな時に魔力切れかい」
ニーリーの発する落胆の声に、浴槽の中を再び覗き込んでみれば、火晶石と呼ばれていたものは光を失って赤黒くなっていて、その周囲を包んでいた気泡もすべて消えていた。
「魔力切れって事は補充が必要なんですか、このアイテムは?」
「買ったお店に預けて魔力の補充を頼まなくちゃならないから、今日のお風呂はダメだねぇ」
幾嶋の問いかけを肯定しつつ、風呂がダメだったことを告げるニーリーは、とても残念そうな顔をしていた。
恐らく預けるという表現を使ったという事は、直ぐには戻って来ないという事なのだろう。
そして残念そうな顔からは、ニーリー自身も風呂を楽しみにしていた事が判る。
「あんたのお陰で借金も返せる目処が付いたし、補充くらいはたいした料金じゃないんだけど、こいつは預けてから帰ってくるまでに時間が掛かるんだよ…… 」
ニーリーの話を聞いてみると、火晶石自体はそれなりに高価な物だが、魔力の補充自体は日常生活に使える程度には安いらしい。
ただ、お店に預けて補充をしてもらう必要があるので、どうしても順番待ちになってしまうそうだ。
余裕の有る家ならば、複数個の火晶石を使い回すのだろうが、夫を亡くして商売もダメになったニーリー家では、予備の火晶石を借金返済の為に売ってしまったという話だった。
「じゃあ、僕がなんとかしましょう」
幾嶋は自室に戻ると、外してあったバックパックから大剣を外して風呂場に戻ってきた。
「ちょっと、どうすんだい?! そんな物騒な物を持ってきて…… 」
幾嶋は悪戯っぽく笑うと大剣をヒートモードに切り替えて、水蒸気爆発を起こさないように発熱量を調整して最低値にまで落とした。
それを無造作に風呂の水に突っ込むと、激しい音と共に風呂場が大量の水蒸気で一杯になる。
「ちょっと、あんた!」
「ちょっと熱過ぎたみたいなんで、水を汲んできます」
幾嶋が逃げるように出て行った後で、風呂の湯加減を確かめるために恐る恐る手をお湯に突っ込んだニーリーが、慌てて手を引っ込めた。
「ちょいと! これじゃ熱すぎて煮えちまうよー!」
幾嶋は、その後また井戸から水を運ぶ羽目になったが、たいした労力では無い。
それどころかニーリーからは、お風呂の温度が下がった時の継ぎ足し用にと、汲み桶に入れた水を熱々のお湯にするように要求されたのだった。




