イクシマ
エステルが大きく美しいその碧の瞳を閉じて静かに時を待っていると、突然カラカランッと乾いた音を立てて神殿の壁から小さな石がいくつか転げ落ちてきた。
一瞬目眩かと思ったが、目を開けてみるとユサユサと太い幹を持つ木々の上部が風も無いのに大きく揺れていた。
柔らかい物が崩れ落ちるような音を聞いて振り向いてみれば、高く積み上げられていた供物がひび割れた石畳の祭壇に崩れ落ちて、周囲に散乱していた。
地震なんて、生まれてから今までで一度も経験をしたことが無かったので、薬の鎮静効果で落ち着いているはずのエステルも、流石に何が起きたのかと動揺は隠せなかった。
「何?、何が起きたの?」
ふと、これが贄である自分を迎えに何者かが訪れる前触れでは無いかと思い直し、エステルは再び目を閉じて少し薄く小さな唇をギュッと強く閉じた。
しかし、しばらく待っていても何も起こらなかった。
「ちとやり過ぎじゃ、お主は肝心の制御を忘れとるぞ」
とっさに空中高く上昇し、超弩級広範囲魔法を複数同時展開で放った和也の隣に静止している幼女形態のバルが、半ば呆れたようにそう言った。
「あれだけの巨大な隕石召喚魔法を同時に5つも展開するとは、わしも呆れる他ないのぉ」
イオナも呆れ顔になり、自分の顎を右手で何度も擦るように揉み下げながら、そう言うしか無い。。
エステルが地震を感じる少し前の事である
かつて駿河海溝と呼ばれていた場所は巨大な渓谷となり、突然その谷底の地中から飛び出してきた、黄土色の硬い鱗と巨大な爪を持つ地竜に和也は突然襲われて、反射的に反撃をしていたのだった。
イオナがやり過ぎと指摘したのも、無理は無いのである。
和也によって多重展開されたメテオストームによって召喚された巨大隕石の直撃を何十発も喰らって、突然地の底から和也たちに向かって飛び出してきた竜種はぐったりと地に伏したままで、まだ辛うじて生きてはいるようだがピクリとも動かない。
隕石が谷底に潜む地竜に激突する広範囲な衝撃波と膨大な熱量は、かつてフィリピン海プレートと呼ばれた旧地殻を僅かに震わせて、谷底へと連なる急峻な斜面に所々崩落が見える程の衝撃を与えていた。
「いや、いきなりだったからビックリして、つい…… 」
和也は空中に浮かんだ姿勢のまま、失敗を咎められた子供のように頭を掻いている
「まったく己の桁外れな力を少しは認識せい、見た所まだ年若い竜種とは言え相手は腐っても竜族じゃぞ、とばっちりで仲間がブレスを喰らったらどうするつもりじゃ! まったくレイナ達とは別行動にしておいて良かったわい」
同じく空中に浮いた姿勢からイオナが言う通り、この谷底には他人に見られない場所での魔法練習の為に来たのであって、決して希少種の竜退治をしにきた訳では無い。
VRMMORPGのゲーム世界に、とある教団の陰謀で閉じ込められ、結果として得た魔力は、和也を取り巻く世界を大きく変化させた。
和也を孤独にさせて教団に引き入れるために、妹と父親は事故に見せかけて殺された。
最愛の彼女とは哀しい形で引き離されることになり、他の国家的な諜報組織にも追われて、逃げるようにこの世界にやってきたのだ。
和也の仲間は、異世界への転移に同行を申し出てきたロシアの遺伝子改造獣人であるヴォルコフとティグレノフ、そして金髪美少女のアーニャと異世界人であるメル、そして異世界人であるイオナとレイナ、最後にバルを含めて7名になる。
イオナとバルを除いた彼らの仲間は、異世界モンスター相手の実戦形式の戦闘訓練を兼ねて、イオナの妻である剣士レイナ指導の下で、旧南アルプス山嶺の山岳地帯へと1週間程泊まり込みで出かけているのだった。
勿論、この場所が旧日本の静岡県中央部に存在した駿河海溝と呼ばれていた海の底であった事は、まだ和也達は知らない。
レイナたち5名と別行動となる幼女形態のバルを含めた3名は、当然のように和也の魔法指導を兼ねてイオナと人里離れた場所まで飛んで来たのだった。
そして、ここはエステルが贄として捧げられた神殿から70km程南西の方角になるのだが、当然のように彼らがそれを知る事は無い。
期せずして和也の引き起こした天災にも似た地殻への衝撃は、遠くエステルが己の死を待つだけの場所をも大きく揺らしたのだった。
「まあ、やってしもうた事は今更仕方がないじゃろな」
イオナはそう言うと、詠唱と共に巨大な雷の槍を空中に造り出し、それを地に伏して動かない地竜の頭へと深々と突き刺して見せた。
「じいさまは、何を張り合っておるのじゃ」
バルはそう言ってイオナを茶化すと、大きく両手を広げて空中に鋭い穂先を持つ巨大な氷の槍を五つ造り出し、恐らくはもう死んでいると思われる地竜に対して駄目押しのように、連続する地響きと共に地竜の心臓と両手両足を地面に縫い付けて見せた。
「二人とも大人なんだからさぁ…… 」
二人の子供っぽい反応に、すこしばかり呆れ顔の和也が諫めるように言った。
「ほいじゃぁ、お宝をゲットに行くかいのぉ」
「ほぉ、それは面白い」
イオナの言葉に、バルは無邪気な子供のようにパッと顔を輝かせて笑うと、降下していくイオナの後を追った。
「ちょ、ちょっと待ってよ!」
その後を少し遅れて降下してゆく和也。
普段は、特に積極的に何かをする訳でもなく、特別な危機的状況でも無ければ傍観者の立場に徹しているのがバルという幼女である
そんな彼女がこんなに生き生きとした子供っぽい反応を見せるのは、異世界であるこの地に下りたってから久しぶりのような気がして、和也もなんだか心が浮き浮きとしてくるのだった。
女は幾つになっても宝石が大好きという訳でもないのだろうが、バルが妙に生き生きとしているように見える。
竜族が宝石や金などのキラキラとした宝物を収拾する習性があることを知っているのは、この時代に生きてきたイオナだけであるだけに、こんな状況でも抜け目が無いという処だろうか。
「さすがに目立ちすぎる竜退治の証拠を持って帰る訳にもいかぬが、お宝くらいは旅費の足しにいくら有っても無駄にはなるまいて」
イオナが後方の二人を振り返って、ニヤリと笑った。
和也の引き起こした地殻の振動が、偶然にも永い眠りについていた幾嶋と言う男の目覚めをも誘発していた事を、バルは未だ知らなかった。
突然後ろから聞こえてきた、ポーン!という軽い電子音。
足を痛めて立ち上がる事の出来ないエステルが、体ごと振り返って見ると、神殿の瓦礫の奥に見える開かずの扉が突然開き、一人の男が扉の奥になる狭い箱の中から現れた処だった。
「この方が、私を父さんと母さんの処へ連れて行ってくださる神様なの? まるで鎧を着た騎士のようだわ… 」
エステルは目を閉じて両手を胸の前で組み、祈るような姿勢で最後の時を待った。
「お父さん、お母さん、これからエステルもそちらへ行きます、早く二人に逢いたい… 」
エステルの脳裏には辛かった今までの生活と、とても幸せだった両親が生きていた楽しい日々の出来事が駆け巡る……
覚悟を決めて待っていると言うのに、中々訪れないその時に焦れてエステルが薄目を開けて外の様子を伺おうとしたその時、ポンと軽く彼女の右の肩に触れられる感触があった。
ビクッと反応してから、目を開けてそちらを見る。
そこには燻し銀のような色をした鈍い光を放つ、少し曲げられた鎧の足が見えた。
少し屈んでいるような足の姿勢に慌てて上を見上げてみれば、そこには黒い髪をした大人の若い男の人が、とても優しそうな笑顔でエステルを見ていた。
「可愛い女の子が独りでこんな場所に居るなんて、いったいどうしたのかな?」
その男、幾嶋 譲は、更に腰を低くするとエステルと同じくらいの目線になって、彼女の頭に右手を当てて尋ねてきた。
贄として今すぐ命を絶たれるのだと覚悟していただけに、思いがけない幾嶋の優しい言葉と態度は、エステルの今まで抑えていた気持ちを崩壊させてしまったのか、ただ涙が溢れて出して止まらない。
「わたしはエステル、わたしは贄で… 今日は神様に食べられる日なの…… だから、覚悟してますから、あんまり痛くしないで下さい… 」
「え? 俺が? ちょっと待ってよ、俺が君を食べるってどういう事なの?」
エステルが泣き止むまで静かに彼女の頭を撫でていた幾嶋は、それを聞いて軽く吹き出してしまった。
途切れ途切れに、嗚咽しながらも懸命に今までの経緯を伝えようとするエステルの話を聞いていた幾嶋は、次第に眉間に深い皺を寄せて、先程迄と違って酷く怒ったような顔をしていた。
「それで足は痛くないの?」
彼女の軽く曲がった足を見て、そう尋ねる幾嶋。
「うん、お薬が効いてる間は痛くないの、でもすごく眠くなっちゃう」
そう言ってエステルは涙を左手で拭うと、恥ずかしそうに幾嶋に向かって笑って見せた。
「それじゃ、行こうか」
そう言って、幾嶋はエステルの痩せた体を慎重に抱きかかえると、黙って神殿の外へと歩き始めた。
「お父さんとお母さんの処へ連れて行ってくれるの?」
そう尋ねるエステルの言葉を、幾嶋は優しく微笑みかけて否定した。
「僕は、そんな悪い神様なんかじゃないよ、これから君の足を治してくれそうな処へ行ってみようよ」
「神様は、わたしを食べないの?」
「僕は神様じゃ無いし、それにエステルは美味しくなさそうだもん」
幾嶋を下から見上げるように、恐る恐る尋ねるエステルの質問に、ちょっと場違いな冗談で返す幾嶋だったが、それを素直に信じたのか幾嶋の腕の中で安心したのか、エステルは楽しそうに笑った。
「ひど~い、どうせ痩せっぽちで食べる処なんて何処にも無いですよ~だ」
神様じゃないと聞いて安心したのか、両手でペチペチと軽く幾嶋の顔を叩くエステルに、先程迄の悲壮な覚悟の色は無い。
「そうだねぇ、エステルはご飯をもっと沢山食べて、お肉も少し付けないとね」
そう言って笑いながら、幾嶋は両手で抱えていたエステルを左手だけにひょいと持ち替えると、腰の荷電粒子銃を右手で抜き取り、背後も見ずに発射して見せた。
一条の光束が貫いたのは、背後に迫る一匹の巨大な蜘蛛の頭部だった。
焼け焦げた頭部から地面に崩れ落ちる黒い大蜘蛛、それを合図にしたかのようにゾロゾロと森の中から数十匹にもなる大蜘蛛の群れが湧き出してきた。
「ちょっとだけで良いから、僕が合図をするまで目を閉じて耳をしっかりと塞いでいてくれるかな?」
幾嶋の優しい口調でのお願いに、理由も解らずエステルは頷いてギュッと目を固く閉じて両手で耳を塞いでいる。
幾嶋の脳内イメージに、次々と後方の敵をロックオンしたアイコンが緑色に変わってゆく様子が認識される。
小さく連続した発射音と共に、幾嶋の肩に吊り下げられている縦に二分割された羽のような大きい盾の上部突起から、何かが白く細い煙の尾を引きながら上方へと多数発射された。
それは一旦上方に飛び出すと、それぞれが軌道を変えて後方に蠢く大蜘蛛の群れに次々と突き刺さって行く。
炸裂する激しい複数の爆発音の後、幾嶋の背後には無数の大蜘蛛の体がバラバラに散乱しているだけだった。
そんな幾嶋の周囲を取り囲むように神殿(魔総研跡)を包囲しているモンスターの群れがあった。
手に剣や鈍器などを持ったコボルトとオークの群れが二人を取り囲んでいたのだ。
本来、彼らは神殿の主役であるワイバーンが贄を掠って行った後に残る供物のおこぼれを頂戴しにやってきたのだが、一向に現れないワイバーンを待ちくたびれて目の前の美味しそうな餌に群がってきたのだった。
そのワイバーンはと言えば、自分のテリトリーに点在する村々の近郊に設けられた供物台に置き去りにされた贄の子を捕食する為に、今日はエステルの居る供物台がある神殿へと舌なめずりをしながら向かっていた。
しかし、途中で大気をも激しく震わせる駿河海溝跡地での激しい振動と爆発を目撃してしまい、途中で様子を伺いに進路を変更した事で魔総研跡地への到着が遅れていたのだった。
蹴り飛ばされて吹き飛ぶオークの体が激突し、半ば崩落寸前となっていた魔総研跡地の壁は、ついに力尽き崩落してエレベータの出入り口を塞いでしまう。
幾嶋はそれにも構わず、エステルを片手に抱いたまま大剣を右手だけで自在に振り回して全てのモンスターを僅かな時間で片付け終えた。
幾嶋が去った魔総研跡地に残るのは、辺り一面に散乱した原型を留めていないモンスターの死骸が有るのみである




