あの子は、空を飛んだ
からり、と軽い音がした。
続けてどさり、重い音がした。
その日はひどく頭が痛くて、騒がしいあの子が鬱陶しかった。
お姉ちゃんでしょ、何度も言われるその言葉がこんなに頭の中をぐちゃぐちゃにするなんて。まだあの子がお母さんのお腹にいた頃に抱いていた、暖かい感情はどこにいってしまったんだろう。
「お姉ちゃん、遊ぼう」
こんな普通の言葉にも嫌気がさす。
あっちいって。顔も見ずにそう突き放したこともある。
そしてあの子が泣くから。
結局わたしが怒られるんだ。
お姉ちゃんだからって何で全部我慢しなきゃいけないんだろう。
あの子みたいにお母さんにべったりしたいわけじゃないけど、それでも少しは近くにいたいのに。
テレビから明るい曲が流れて、あの子の興味が薄れたのを見計らい、わたしは途中だった漫画を読み始めた。
お気楽な音楽が流れるそのアニメは、魔法使いのキャラクターが出ていて、なんだか子供っぽい。
ほうきで空を飛ぶだなんて、ありえないし。
なんて思っていた。
「起きなさい」
肩を強く揺さぶられ、跳ねるように目を開けた。
息が苦しい。背中にはじっとりと汗が張りついている。
「…大丈夫?」
返事をする余裕はなく、ただ呼吸を整え、膝を抱えるしかなかった。
よく焼けたトーストに赤いウィンナー、ケチャップが掛かったスクランブルエッグ。そしてトマト。ヨーグルトには苺ジャム。
つるりとしたダイニングチェアは冷たいままで、ランチョンマットは赤いチェック柄。
全てあの子の好きなもの。
手付かずの朝食は今日も同じだった。
わたしはそれを見ないようにして、置いてある弁当箱を取る。
行ってきます。小さく呟いた。
初夏の爽やかな風が頬を撫でてゆく。
通勤途中のサラリーマンもどこか足取りが軽く見えるし、街路樹は青々としている。
小学生が横を通り過ぎていく。
きゃらきゃらと笑い、ランドセルを揺らしながら。
1人、遅れた子が泣きそうな顔で「待ってよぉ」と叫ぶとみんなが顔を見合わせ、笑いながら足を止める。
嬉しそうに通り過ぎてゆくランドセルがやけに目に留まった。
校庭での授業は嫌いだ。
騒がしい会話も、ホイッスルの音も。
ボールが飛び交い、ぶつかった子が残念そうに枠から外れてゆく。
ふと遠くから子供の声が聞こえた。
車の通りが多い道だ。前後に立つ先生が一本のながいロープを持ち、園児がそれを掴んで歩く。横断歩道で止まり、先生は園児の人数を数えていく。その間も園児たちは何が面白いのか笑い合っている。ひとり、先生の視界から外れた子と目が合った気がした。まさか。学校を囲むフェンスと道路を挟んだ向こう側だ。気のせいだろうと、次の試合へ目線を向けた瞬間。
ブレーキの短い音が鳴り、続いて園児の泣き声が響いた。
校庭がざわついた。園児は先生に抱きしめられて、もう1人の先生は他の子を守るように抱き寄せている。あの日と同じだった。だけどあの子は泣かなかった。帰ってこなかった。そっと目線を上げる。空が青い。初夏の風が柔らかく額を撫でた。
あの日、あの時、あの子は空を飛んだ。
魔法使いみたいに。
「じゃあ飛んでみたらいいじゃん」
どうせ出来なくて泣くんでしょ。私はマンガから目を離さず口だけ動かした。
ほんとうだもん。不貞腐れた口調で呟くあの子を鼻で笑い、ページを捲る。
静かだった部屋にからり、と軽い音がした。続けてどさり、重い音がした。
初夏のあたたかい風が強く吹き、青臭くて、少し甘い匂いが鼻につく。
一瞬の出来事だった。何が起きたのか分からなかった。ただ、閉めていた窓が開いていて、カーテンが揺れている。やけに心臓の音が響いてマンガが手から滑り落ちる。
誰かの叫び声が聞こえる。
ゆっくりとした視界の先に、太陽に照らされたあの子のお気に入りのステッキがきらきら光っていた。
そこからはよく思い出せない。
お父さんがお母さんを責める声だけが、耳の奥に残っている。
わたしはただ、初夏の風に揺れるカーテンを見ていた。
よく焼けたトーストに赤いウインナー。ケチャップの掛かったスクランブルエッグ。そしてトマト。ヨーグルトには苺ジャム。
つるりとしたダイニングチェアは冷たいままで、ランチョンマットは赤いチェック柄。
私は立ったまま、トーストに手を伸ばしひとくち齧った。
香ばしく焼けた匂いに鼻の奥がツンとして、齧ったまま震える息を吐き出した。
赤いウインナーは柔らかくてあんまり好きじゃない。スクランブルエッグは塩コショウだけで十分。トマトはミニトマトが好き。ヨーグルトは四個入りの方が好き。
初めて口にした私の好みに、前に座っていた母親はきょとんとして、それからゆっくり笑った。




