私を庇おうとする心優しい婚約者に、義母と私が同時にため息をついた理由
「えっ……私が、侯爵家へ嫁ぐのですか!?」
没落寸前の我が男爵家の執務室。
お父様の口から出た信じられない言葉に、私は目を丸くして素っ頓狂な声を上げてしまった。
「ああ、すまないアイラ!本当に、不甲斐ない父を許しておくれ……っ!」
お父様はボロボロと大粒の涙を流しながら、私の手を取って何度も頭を下げた。
「我が領地に群生している『特効ハーブ』に目をつけた侯爵家から、莫大な資金援助の申し出があったのだ。だが、他国にも狙われているハーブの独占契約を確実なものにするため……新当主となるリアトル様の妻として、お前を差し出すことが条件だと言われてしまって……っ」
なるほど、そういうことか。
実家の領地で採れる特効ハーブは、騎士団の生存率を飛躍的に上げる回復薬の必須素材であり、今や国家レベルの重要資源だ。うちにはそれを薬に加工する技術も資金もなく、宝の持ち腐れで借金ばかりが膨らんでいたけれど、侯爵家が目をつけたことで状況が一変した…と。
他の悪徳貴族や他国に領地ごと強奪されないよう、侯爵家は私を正妻として迎え入れることで、「男爵家に手を出せば侯爵家を敵に回すぞ」という強力な防波堤になってくれるのだろう。
それに侯爵家――特に女手一つで家を守ってきたマスカレード様からすれば、力のある大貴族から嫁をもらって実権を乗っ取られるより、実家に力も後ろ盾もない没落令嬢を据える方がよほど安全なはずだ。
要するに、私は契約を裏切らないための『人質』でありつつ、侯爵家の内部権力を脅かさない『無害で扱いやすい駒』というわけだ。
「お父様、頭を上げてくださいませ。借金で首が回らないこの家と領民が救われるのなら、私は喜んで嫁ぎますわ!」
「おお、アイラ……!だが、お前の嫁ぎ先には、あの『鉄の淑女』と呼ばれるマスカレード様がいらっしゃるのだぞ!?」
お父様の顔が、恐怖で青ざめている。
マスカレード様。前当主が若くして亡くなった後、女手一つで親戚の横槍を跳ね除け、侯爵家を守り抜いてきたという女当主だ。
社交界では「氷の魔女」とも囁かれており、作法や規律に少しでも反する者には容赦がないと言われている。
「ハーブ契約の『おまけ』として嫁ぐお前が、あのマスカレード様にどんな厳しいしごきを受けるか……っ!耐えられなくなったら、いつでも逃げて帰ってくるんだぞ!」
おいおいと泣き崩れるお父様の背中を優しく撫でながら、私は「厳しいお義母様か……」と心の中で小さく身構えた。
実は、私には誰にも言っていない秘密がある。
それは、『前世の記憶』を持っているということだ。
前世の私は、日本という国で「OL(事務職)」として働く、ごく普通の人間だった。
毎日深夜まで残業をし、機嫌の悪い上司に理不尽に怒鳴られ、胃薬を飲みながらパソコンの画面と睨み合う日々だった。
(あの過酷な日々に比べたら、厳しいお作法指導くらい、きっとなんとかなるわよね……!)
少なくとも、物理的な暴力と徹夜のサービス残業がないだけマシだろう。
前世のタフな記憶を思い出し、私は両頬をパンッと叩いて気合いを入れると、侯爵家へと嫁ぐ覚悟を決めたのだった。
―・―・―
「アイラ様。本日のドレスはこちらです。コルセットを締めますので、息を吐いてくださいませ」
「あ、ありがとう。……ふぅっ、少し苦しいわね」
「侯爵夫人となる方は、この細さが基準でございます。少しの間、我慢してください」
侯爵家に到着してすぐ。
私の私室には数人のメイドたちが集まり、手際よく私の身支度を整えていた。
彼女たちの言葉遣いや動きは完璧だ。
ただ、その瞳には感情がないように見え、ひどく事務的で冷ややかだった。
(『ハーブの契約についてきた田舎娘のお世話なんて』って思われてるのよね。うぅ、アウェー感がすごいわ……)
政略結婚の駒である私に、彼女たちが冷たいのも無理はない。
普通ならこの空気に泣き出してしまうところだが、前世の記憶を持つ私にとっては、変に気を遣われないこの「ビジネスライクな距離感」の方が少しだけ楽だった。
「アイラ。準備はできたかい?」
そこへ、コンコンと控えめなノックと共に、柔らかな声が響いた。
私の夫となる、侯爵家の若き当主、リアトル様だ。
「リアトル様。おはようございます」
「おはよう。今日もすごく綺麗だよ。……メイドたちに、何か嫌な思いをさせられていないかい?」
リアトル様は私の手を優しく取り、心配そうに顔を覗き込んでくる。
人質同然で嫁いできた私を、彼は事前に見た肖像画で一目惚れしたと言って、初対面の時から信じられないほど優しく愛してくれているのだ。
「嫌な思いだなんて、とんでもない。皆様、不束な私にとてもきっちりと対応してくださっていますわ」
「そう?ならいいんだけれど……。もし何かあれば、すぐに僕に言うんだよ。さあ、母上に挨拶に行こう」
周囲から下に見られがちな私を、いつも気遣ってくれる心優しい夫。
彼のエスコートを受けながら、私たちは応接室へと向かった。
重厚な扉が開かれる。
そこには、一人の女性が背筋を伸ばして腰掛けていた。
一糸乱れぬプラチナブロンドの髪に、鋭いアイスブルーの瞳。
噂に違わぬ威厳と冷気を纏った「鉄の淑女」――義母となるマスカレード様だった。
「お初にお目にかかります。アイラと申します」
私が緊張しながら深くカーテシーをすると、マスカレード様は氷のような視線で私を上から下までじっくりと値踏みした。
「……歩き方も、ドレスの着こなしも全くなっていないわね。男爵家の領地では、それが普通なのかしら」
冷ややかな声が、応接室に響く。
すかさず、リアトル様が私を庇うように前に出た。
「母上!アイラに向かってなんてことを!」
「事実でしょう。侯爵家を背負う当主の妻として、その貧相な立ち振る舞いは致命的です。社交界で我が家の恥となります」
「アイラは恥などではありません!僕はありのままの彼女を愛しているんです!」
「当主の個人的な感情など、家を守るためには何の役にも立ちません。……アイラ」
マスカレード様の鋭い視線が、リアトル様越しに私を射抜く。
「今夜から毎晩、私の部屋に来なさい。侯爵夫人としての作法を、私が一から徹底的に叩き直してあげます」
ピシャリと言い放つその言葉に、メイドたちがビクッと肩を揺らした。
リアトル様は「アイラを苛めるのはやめてください!」と必死に抗議している。
(ひっ、すごい威圧感……!怒った時の前世の部長より怖いかも……っ)
心臓がバクバクと嫌な音を立てる。
言い方は厳しいが、お義母様が仰っていることはぐうの音も出ないほどの正論だ。当主の妻としての責任を重く見ているからこそ、今の私のままではダメなのだ。
私はギュッと両手を握りしめ、小さく深呼吸をして姿勢を正した。
「はい、お義母様。不束者ですが、一生懸命学ばせていただきます!」
緊張を振り払うように、ハッキリと大きな声で返事をした私に、マスカレード様は微かに目を丸くした。
泣き出したり、怯えたりすると思っていたのだろう。
「アイラ!?無理をしなくていいんだよ!」
「無理などしておりませんわ。侯爵夫人となるために、必要なことですもの!」
私がリアトル様に向けて力強く微笑むと、マスカレード様は「……その心意気だけは、認めてあげましょう」と小さく呟いた。
その時だった。
マスカレード様が扇を閉じようとした瞬間、ほんの一瞬だけ、彼女の眉間がピクリと動き、無意識に首の後ろを庇うように手を持っていったのだ。
(……あれ?今の動き……)
前世のOL時代、連日の激務で限界を迎えていた先輩社員が、よくあんな風に辛そうに首を押さえていた気がする。
それに、よく見ると完璧なお化粧の下に、うっすらと黒いクマが透けているような……。
「では、夜の十時に私の部屋へ。遅れたら承知しませんよ」
マスカレード様はそれだけ言うと、優雅な足取りで応接室を後にした。
私は遠ざかる彼女の背中を見つめながら、心の中で小さく首を傾げていたのだった。
その日の夜、十時。
私は指定された通り、マスカレード様の私室の前に立っていた。
「アイラ様……あの、もしお辛くなったら、すぐにお呼びくださいね」
案内してくれたメイドが、少しだけ同情するような声で囁く。
昼間はあんなに事務的だったのに、私が過酷な指導へ向かう姿を見て、少しだけ毒気が抜けたらしい。
「ありがとう。でも大丈夫よ、行ってきますね」
私は小さく微笑んで、分厚いオーク材の扉をノックした。
中から「入りなさい」と、氷のように冷たい声が響く。
重い扉を開けると、マスカレード様は長机に山積みになった分厚い書類の束と睨み合っていた。
「来たわね、アイラ。侯爵夫人たるもの、領地の経営状況を把握するのも仕事のうちよ。まずはこの帳簿の束から……っ」
立ち上がろうとした瞬間。
マスカレード様はグラリとよろけ、咄嗟に机の角に手をついた。
「お義母様!?」
「……近寄らないで。なんでもないわ。少し、目眩がしただけ……」
私が駆け寄ろうとするのを、彼女は片手で制止する。
だが、その顔色は青白く、呼吸も浅い。
(やっぱり……!昼間見た時からおかしいと思ってたけど、どう見ても疲労の限界を超えているわ!)
前世のOL時代、繁忙期に倒れる寸前だった先輩社員と全く同じ顔色だ。
いくら「鉄の淑女」と呼ばれていても、人間の体には限界がある。
私はマスカレード様の制止を振り切り、実家から持参した鞄を開けた。
「な、何を……ちょっと、貴女!」
「失礼いたします。少しだけ、私のワガママに付き合ってくださいませ」
私は鞄から実家の『特効ハーブ』を取り出し、部屋に備え付けられていたティーポットの熱湯に浸した。そして、持参した清潔なタオルを固く絞り、熱々の『ハーブ蒸しタオル』を完成させる。
「お義母様、これを首の後ろと目元に」
「ひゃっ!?あ、熱っ……な、なんて無作法なことを!」
「すぐに適温になります。いいから、長椅子に横になってください!」
私は半ば強引に、マスカレード様を長椅子に座らせた。
そして、彼女の背後に回り、そのバッキバキに凝り固まった肩に、両手の親指をグッと沈み込ませた。
「っっっ!!?い、痛……っ、いや……え?」
「うわぁ……すごいですね。指が跳ね返されそうです。かなり張ってますよ」
「ああっ……そこ!な、何よこれ、た、たまらないわ……っ」
前世のOL時代、マッサージ店に通うお金もなく、同僚たちと互いの肩を揉み合い、涙ぐましい努力の末に磨き上げた本気の手技。
それが今、異世界の侯爵夫人の肩に炸裂していた。
「強さはどうですか?もう少し強くてもいけますか?」
「ええ……っ、もっとよ……もっと深く押してちょうだい……」
鉄の淑女の威厳はどこへやら、彼女はとろけたような声で長椅子に突っ伏した。
(お義母様、一人で侯爵家を守るために、ずっと気を張っていらしたのね……)
私は心の中でそっと寄り添いながら、丁寧に彼女の凝りをほぐしていった。
三十分後。
マッサージを終え、私が淹れた特製の『安眠ハーブティー』を一口飲んだマスカレード様は、憑き物が落ちたようなスッキリとした顔をしていた。
「……信じられないわ。鉛のように重かった肩が、羽のように軽いの」
「実家のハーブは、血流を良くする効果が高いんです。それにお義母様、ずっと眠れていなかったのではないですか?」
私が優しく尋ねると、マスカレード様は少しだけ目を伏せた。
「……リアトルが当主として一人前になるまで、誰にも弱みを見せられなかったのよ…。親戚も、使用人たちも、私が少しでも隙を見せれば、すぐにこの家を乗っ取ろうとするから」
「そうだったのですね。本当にお疲れ様でございました」
私が温かいお茶を差し出すと、彼女は両手でカップを包み込み、ふっと、初めて私に柔らかい笑みを向けてくれた。
「……貴女、ハーブ契約のための人質として嫁いできた、ただの世間知らずな田舎娘だと思っていたけれど。なかなかどうして、見どころがあるわね」
「ふふっ。お義母様のお疲れを取るくらい、お安い御用ですわ。もちろん、お作法の勉強も、きちんとしてみせます」
私の言葉に、マスカレード様は満足げに頷いた。
「ええ。貴女のその『人の痛みに寄り添う心』があれば、立派な侯爵夫人になれるわ。……今夜はもう休みなさい。明日から、本格的に当主の妻としての教育を始めますよ」
「はい、お義母様!」
こうして、嫁いできた初日の夜。
私は厳格な義母の素顔に触れただけでなく、ささやかな『秘密の共有者』になったのだった。
―・―・―
それから数週間後。
侯爵家での私の生活は、少しずつ変わり始めていた。
「アイラ!そのお辞儀の角度はなんだと聞いているの!今夜も私の部屋でやり直しよ!」
「も、申し訳ございません、お義母様……!」
昼間の応接室で、マスカレード様が厳しく指導し、私が神妙に頭を下げる。
だが、これは周囲の目を誤魔化すための『演技』だ。
マスカレード様曰く、「使用人たちに貴女の真価をゆっくり気づかせるため」であり、同時に「リアトルに当主としての自覚を持たせるため」らしい。
だから、私たちは昼間はあえて『厳しすぎる姑と、耐える嫁』を演じているのだ。でも正直、私が侯爵家として相応しい振る舞いができてないから厳しくされてるのもあると思うけれど。
しかし、周囲のメイドたちの反応は、初日とは明らかに違っていた。
「……奥様、毎日あんなに怒られているのに、弱音ひとつ吐かないわね」
「ええ。それにこの前、私が風邪気味だった時、奥様がこっそり特効ハーブのお茶を淹れてくださったのよ」
「実は、大奥様のお顔色が最近とても良いのも、奥様が毎晩ケアをなさっているからじゃないかって噂よ……」
私が前世のOLスキルで培った『周囲への気配り(という名のお茶汲み)』や、腐らずに前向きに学ぶ姿勢を見て、使用人たちは少しずつ私を認め、温かい目を向けてくれるようになっていた。
順調に侯爵家に馴染みつつある私。
しかし、ただ一人、何も知らないリアトル様だけは違った。
「母上!アイラは毎日あんなに努力しているじゃないですか!これ以上、彼女を追い詰めるのはやめてください!」
マスカレード様の厳しい声を聞きつけ、リアトル様が血相を変えて応接室に飛び込んできた。
「リアトル様。私は平気ですわ。お義母様は私のためを思って……」
「君は優しすぎる!母上、いくらなんでもやりすぎです!僕は絶対に、アイラを守り抜きますからね!」
リアトル様は私を強く抱きしめ、本気で涙ぐんでいる。
彼の純粋な優しさはとても嬉しいのだけれど……さすがに少し、過保護すぎる気がする。
(お義母様が言っていた『当主としての自覚』っていうのは、この視野の狭さを直すためなのね……)
私はリアトル様の背中をトントンと撫でながら、マスカレード様とこっそり視線を交わし合った。
そして、夜。
私は今日も、マスカレード様の私室で『秘密のリラクゼーションタイム』を提供していた。
「そこよ、アイラ!今日は腰から背中にかけて、もっと強くお願い!」
「お義母様、これ以上圧をかけたら、悲鳴が上がってしまいますよ!」
「構わないわ!徹底的にやってちょうだい!」
「もう、仕方ないですねぇ。それっ!」
「あぁ〜っ!!痛い!痛いわ!でも最高よ……っ!!」
部屋の中に、マスカレード様の怪しげな声が響き渡る。
――まさか、その声が分厚い扉を抜け。
廊下で心配のあまり聞き耳を立てていた過保護な夫を、絶望のどん底に叩き落としているとは、私たちは夢にも思っていなかったのだ。
―・―・―
分厚いオーク材の扉の向こうから、恐ろしい声が漏れ聞こえてくる。
「もっとよ、アイラ!もっと強く絞り上げなさい!」
「お義母様、これ以上力を入れたら、本当に壊れてしまいますわ!」
「構わないわ!徹底的に潰すのよ!」
その悲痛なやり取りに、廊下で聞き耳を立てていた僕――リアトルは、サァッと血の気を引かせて震えていた。
(母上……ついに、アイラへの指導がエスカレートして、拷問まがいの真似を……っ!)
これ以上、愛する妻を傷つけさせるわけにはいかない。
僕はギュッと拳を握りしめ、覚悟を決めて扉のノブに手をかけた。
「母上!そこまでです!!」
バンッ!と大きな音を立てて、僕は勢いよく部屋に飛び込んだ。
「僕が愛するアイラを、これ以上虐げることは許しません!僕が彼女の盾となります!」
悲壮な覚悟で叫び、愛する妻を庇うように両手を広げる。しかし、僕がそこで見たのは、血の匂いが漂う恐ろしい拷問部屋などではなかった。
ほのかに甘いハーブの香りが漂う、薄暗く落ち着いた照明。
いつも一糸乱れぬドレス姿の母上が、ゆったりとした部屋着姿で温かい足湯の桶に足を浸している。
そしてその後ろで、アイラが母上の肩甲骨の間の『一番いいツボ』らしき場所を、全力の親指でゴリゴリと揉みほぐしている最中だった。
「アイラ、そこよ……って、ちょっとリアトル。ノックもなしに何事ですか」
「えっ……?あれ……?アイラが、母上の肩を……?」
勇ましく飛び込んだ僕は、想定外すぎる光景に完全に気が抜けた顔でポカンとしてしまった。
一番気持ちのいいツボに入っていたところを邪魔された母上と、渾身の力を込めていた指を止める羽目になったアイラ。
二人はやれやれという顔を見合わせ――。
「「……はぁ」」
特大のため息が、ハーブの香りが漂う部屋に見事にシンクロして響き渡った。
「えっ……!?な、なんでため息!?拷問されていたんじゃ……」
「全く、呆れた息子ですね。一番気持ちのいいところだったのに、ムードが台無しよ」
僕に向かって呆れ果てたように言ったのは、他でもない母上だった。
パニックになる僕の背後から、クスクスと笑いながらメイド長が入ってくる。
彼女の手には、湯気を立てるホットミルクのお盆が乗っていた。
「拷問だなんてとんでもない。アイラ様は毎晩、大奥様からみっちりと侯爵夫人としての教育をお受けになった後、こうして大奥様のお疲れを癒やしていらっしゃるのですよ」
「えっ、でも、メイドたちの間ではまだ『アイラが怒られている』って噂に……」
「ふふっ。他のメイドたちには内緒です。実は大奥様から私にだけ、『毎晩の極秘の足湯とハーブティーの準備を頼む。アイラは作法の覚えも早く優秀だから、ご褒美であるこのマッサージの時間は絶対に邪魔をさせないように』と命じられておりましたから」
メイド長がウインクをすると、母上は気まずそうにコホンと咳払いをした。
「……リアトルに当主としての自覚を持たせるため、もう少し悪役を演じるつもりだったのだけれどね」
「僕に、当主としての自覚を……?」
「ええ。ただ優しいだけのお人好しでは、腹黒い貴族たちからこの家を守り抜くことはできないわ。私という壁に自らの意志で立ち向かい、表面的な噂に流されず真実を見極める力をつけさせたかったの。……まあ、結局は状況も確認せずに、感情のまま扉を蹴破って突撃してきたわけだけれど」
「母上……僕のために、そこまで考えて……」
「私の息子よ、当たり前だわ。それに、アイラは本当に努力家よ。厳しいお作法の課題も、弱音一つ吐かずに完璧にこなしているわ。だからこそ、その後のこの時間は私にとっても特別な癒やしなの」
母上はツンとそっぽを向いたが、その顔はどう見てもすっかりほぐれきっている。
メイド長はアイラにホットミルクを差し出しながら、僕に微笑みかけた。
「リアトル様。アイラ様は本当に素晴らしい奥様です。大奥様のお疲れを癒やし、私たち使用人の体調までいつも気遣ってくださる。今ではお屋敷の誰もが、アイラ様の努力と優しさを認め、心からお慕いしておりますよ」
「えっ……みんなが、アイラを?」
「ええ。厳しいお作法の特訓に耐えているのも、侯爵夫人としてリアトル様をしっかりお支えになりたいからですわ」
―・―・―
メイド長の言葉に、リアトル様は驚いたように私を見た。
私は少し照れくさくなって、頬を掻きながら笑った。
「あの……そういうことです、リアトル様。お義母様は、私をいじめていたわけではありませんの。毎日しっかりとお作法を教えてくださる、最高のお義母様ですわ。だから、そんなに泣きそうな顔をしないでくださいな」
「アイラ……」
リアトル様は、自分が一人で勘違いをして空回っていたことに気づき、ボンッと音が鳴りそうなほど顔を真っ赤にした。
そして、その場にへたり込むと、両手で顔を覆ってしまった。
「ああっ……恥ずかしい……!僕は何て早とちりを……」
「ふふっ。でも、私を守ろうとして飛び込んできたリアトル様、とってもかっこよかったですよ」
私がしゃがみ込んでその頭を優しく撫でると、マスカレード様が呆れたように息を吐いた。
「全く、世話の焼ける当主ね。……二人でいちゃつくなら、自分たちの部屋に戻ってやりなさい。私はもう少し足湯を楽しみたいのだから」
「あ、ありがとうございます、母上……。行くよ、アイラ」
リアトル様は真っ赤な顔のまま私の手を取り、逃げるように私室を後にした。
背後から、マスカレード様とメイド長のクスクスという優しい笑い声が聞こえてきた。
自分たちの寝室に戻ると、リアトル様は私をギュッと強く、けれど壊れ物を扱うように優しく抱きしめた。
「ごめんね、アイラ。僕だけが何も見えていなくて、空回りして……」
「ふふ、謝らないでください。リアトル様が私のために怒ってくれたこと、本当に嬉しかったですから」
私が彼の広い背中に腕を回すと、リアトル様は私の肩口に顔を埋めた。
「母上があんなに穏やかな顔をするなんて、父上が亡くなってから初めて見たよ。……使用人たちも、君の努力と優しさに救われている。君は本当にすごい人だ。僕の、自慢の妻だよ」
耳元で囁かれる甘く熱い声に、私の胸の奥がキュンと跳ねる。
前世のブラック企業では、どれだけ頑張ってもこんな風に認めてもらえたり、甘やかされたりすることなんてなかった。
だからこそ、彼のまっすぐな愛情が、不器用なほどに嬉しかった。
「あの、リアトル様。領地の経営、お疲れではありませんか?もしよろしければ、リアトル様の肩も揉ませていただきますけど……」
私が照れ隠しにそう言うと、リアトル様は体を離し、少しだけ悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「マッサージも嬉しいけれど……僕の疲れは、別の方法で癒やしてもらえないかな?」
「えっ……別の、方法……?」
問い返す間もなく、リアトル様の大きくて温かい手が私の頬を包み込む。
そして、彼の大切に扱うような優しいキスが、私の唇を塞いだ。
「んっ……」
「……愛しているよ、アイラ。僕の元へ来てくれて、本当にありがとう」
甘い吐息と共に囁かれた言葉に、私は顔を真っ赤にしながらも、幸せを噛み締めて目を閉じた。
ハーブの契約のおまけで、人質同然で嫁いできた政略結婚。
けれど今、私の周りには、少し不器用だけれど愛に溢れた義母と、私を心から愛してくれる心優しい夫がいる。
前世でボロボロになるまで働いたあの過酷な記憶は、決して無駄ではなかったらしい。
誰かの隠した『疲れ』に気づき、そっと寄り添う。そんな過去のささやかな経験が、この異世界で私に、かけがえのない温かい家族をもたらしてくれたのだから。
ここまでお読みいただきありがとうございました!
以前も一度書いたのですが、義母をテーマに物語を書いてみました!
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