散々いじめた挙句、私を解雇したご主人様。あなたが自分の力だと勘違いしていた聖女の力、あれ本当は私がやってたんですよ?
まだ空が白み始める前の、朝四時。
グランツェル伯爵邸の使用人棟で、クロエは今日も誰よりも早く目を覚ます。冷たい水で顔を洗い、くたびれたエプロンを結び、モップとバケツを手に取る。もう五年も続けている、体に染みついた日課だった。
廊下に出ると、夜の間にまた黒いシミが浮いていた。窓枠の隅、壁と床の境目、柱の根元——まるで屋敷の隙間から染み出してくるように、ぬるりとした黒い汚れが広がっている。
「はあ。ほんとよく出るなあ、このカビ」
バケツの水にモップを浸し、ぎゅっと絞って床に当てた。「汚れよ落ちろ」と心の中で念じながら、ゆっくりと拭いていく。
モップが黒いシミの上を通過した瞬間、淡い白光がさっと走り、汚れは跡形もなく消えた。
おばあちゃん直伝の、頑固な汚れの落とし方。田舎ではみんなやっていたことだ——と、クロエは思い込んでいる。
実際には、それは国に五人といない聖女級の浄化魔法だった。クロエが「カビ」と呼んでいる黒い汚れの正体は、この土地に溜まり続ける危険な瘴気。放置すれば魔物を呼び寄せ、人を蝕む猛毒。それを五年間、毎朝の掃除のついでに完璧に浄化し続けていたのだった。
クロエ本人にそんな自覚はない。「よし、ピカピカ」と満足げに頷いて、次の部屋へ移る。
二時間かけて屋敷中を掃除し終える頃には、朝日が窓から差し込み、屋敷全体が聖域のように清浄な空気に満ちていた。
そこへ、サロンの扉が開いた。
「ああ、今日も私の聖なるオーラで屋敷が輝いているわ!」
伯爵令嬢エノーレア・フォン・グランツェル。金色の巻き髪を揺らし、絹のガウン姿で現れ、窓辺に立ってうっとりとため息をつく。
「選ばれし者の力って偉大よね。私がこの屋敷にいるだけで、空気まで澄み渡るんだもの!」
「さすがでございます、お嬢様」
侍女頭のマチルダが即座に追従し、他の使用人たちも「素晴らしゅうございます」と声を揃えた。
クロエはその光景を横目に見ながら、黙ってモップを片付けようとした。
「——ちょっと、クロエ」
エノーレアの声が、クロエだけを名指しする。
「何その格好。汗臭いエプロンでサロンの前をうろうろしないでくれる? 私の聖域が穢れるわ」
「申し訳ございません。すぐに下がります」
クロエが一礼して去ろうとすると、その背中にエノーレアが投げつけるように言った。
「それと、昨日の夕食の皿を割ったのはあなたでしょう。給金から銀貨五枚引いておくわ」
昨日皿を割ったのは別の侍女だ。だが反論しても無駄なことは、五年間で骨身に染みている。エノーレアは「クロエがやった」と言えばそれが真実になる屋敷に住んでいるのだ。
「……承知いたしました」
頭を下げた。銀貨五枚。クロエは内心で深いため息をこぼした。
§
クロエがこの屋敷で働いているのは、借金返済のためだった。
七年前、まだ十の頃。たった一人の家族だった祖母が重い風土病に倒れた。
辺境の村には満足な薬もなく、王都の医師を呼ぶには途方もない金がかかる。途方に暮れていたクロエに手を差し伸べたのが、グランツェル伯爵家だった。
「治療費はうちが出してやる。その代わり、侍女として完済まで奉公しろ」
当時の伯爵——エノーレアの父親——が提示した条件。治療費は金貨百枚。月給から毎月少しずつ返済し、完済すれば自由の身になれる。当時のクロエに断る選択肢はなかった。
祖母は一命を取り留めた。だが翌年、静かに息を引き取った。借金だけが残った。
それから七年。真面目に働けば、本来ならもう半分以上は返し終えているはずだった。だが現実には、返済額はほとんど減っていない。
理由は単純だ。エノーレアの「天引き」である。
皿を割った——銀貨五枚。卵の焼き加減が気に入らない——銀貨二枚。エノーレアの靴にホコリがついていた——銀貨三枚。廊下ですれ違うときに顔が暗かった——銀貨一枚。
毎月、あらゆる名目で給金の大半を削り取られ、返済に回せる金はほとんど残らなかった。
逃げ出せばいいと思うだろうか。
だがそれは賢い判断とは言えない。奉公契約を破棄すれば、残りの借金が一括請求される。伯爵家の力で追手がかかり、どこへ逃げても捕まる。平民が貴族に逆らえばどうなるか、この国では子供でも知っていることだった。
だからクロエは耐えるしかなかった。
歯を食いしばって、モップを握って、毎朝四時に起きて——借金がなくなるその日まで耐えるしか。
♦︎
エノーレアがクロエを標的にして執拗に嫌がらせをするようになったのには、きっかけがある。
三年前のことだ。
エノーレアが密かに想いを寄せていた青年貴族がいた。隣領のワイルヅ子爵家の嫡男、アルベルト。端正な顔立ちと穏やかな物腰で社交界でも評判の好青年で、エノーレアは彼が伯爵邸を訪れるたびに最上の茶菓子を用意し、「聖女の力」を披露して気を引こうとしていた。
その日もアルベルトが来訪し、エノーレアは張り切って応接間に案内した。
ところが——廊下を通りかかったとき、アルベルトの足がぴたりと止まった。
窓辺で窓を磨いていたクロエに、目を奪われたのだ。
飾り気のないエプロン姿。化粧っ気もない。だが陽光の中で一心に窓を磨くクロエの横顔は、澄んだ空気を纏って不思議と目を引いた。何より、クロエが拭いた窓は異様なほど透き通り、まるで窓ガラスそのものが消えたかのように光を通している。
「——あの娘は?」
アルベルトが足を止めて訊いた。エノーレアではなく、クロエを見て。
「え? ああ、ただの侍女よ。気にしないで、アルベルト様。さあ、応接間でお茶を——」
「少し待ってくれ。……すごいな。あの窓、まるで何も嵌まっていないみたいだ。一体どうやって磨いているんだろう」
アルベルトはクロエに歩み寄り、声をかけた。
「すまない、見事な仕事だね。名前を聞いてもいいかな」
クロエは驚いて振り返った。「あ、クロエと申します。ただのお掃除です」と答えるクロエに、アルベルトは柔らかく笑った。その笑顔を、エノーレアは見た。
自分に向けたことのない笑顔だった。
アルベルトはその後も何度か伯爵邸を訪れたが、エノーレアの「聖女の力」の話にはいつも生返事で、むしろ廊下や庭ですれ違うクロエに親しげに声をかけた。「今日も屋敷が綺麗だね」「体に気をつけて」。それだけの、何でもない挨拶。だがエノーレアには耐えられなかった。
結局、アルベルトはエノーレアに興味を持たないまま、別の令嬢と婚約した。クロエと何かあったわけではない。だがエノーレアの中では、原因はクロエだった。
私の屋敷で。私が想いを寄せた人の前で。たかが平民の侍女が、私から男の視線を奪った。
その日の夜、エノーレアはクロエを自室に呼びつけた。
「あなた、アルベルト様にずいぶん色目を使ってたわね」
「え? 私は何も——」
「しらばっくれないで。平民の分際で貴族の殿方に取り入ろうなんて、浅ましいにもほどがあるわ。身の程を弁えなさい」
それ以来、エノーレアのクロエに対する態度は明確に変わった。
他の使用人には見せない、特別な悪意。クロエだけを標的にした、執拗な嫌がらせが始まったのだ。自分が手に入れられなかったものを、平民の侍女が——意図せずとはいえ——手にしかけた。その事実が、エノーレアの中で消えない棘になっていた。
♦︎
三時間かけて磨き上げた大広間の床に、エノーレアは紅茶をわざとこぼしてきた。琥珀色の液体が白い大理石の上に広がっていく。
「あら、手が滑ったわ。クロエ、拭きなさい」
「はい、ただいま」
膝をついて拭き始めたクロエの横で、エノーレアは二杯目の紅茶をゆっくり傾けた。拭いたばかりの場所に、茶色い染みが広がる。
「あらあら、また滑っちゃった」
三杯目。四杯目。拭いては汚され、拭いては汚される。
五杯目をこぼしたとき、エノーレアは膝をついたクロエの顔を覗き込んで言った。
「ねえクロエ。あなた、侍女の分際で嫌そうな顔してるわね。嫌ならこの仕事辞めてもいいのよ? ——もちろん借金は全額返してもらうけれどね」
エノーレアがにっこりと笑った。
侍女頭のマチルダが目を逸らした。他の使用人たちは壁際で身を縮めている。誰も助けない。誰も何も言わない。エノーレアに逆らえば、次は自分が標的になるからだ。
「……紅茶をお淹れ直しいたしますか、お嬢様」
クロエは床を拭く手を止めずに言った。
怒りを見せれば、エノーレアはもっと喜ぶ。それだけは分かっていた。
§
ある昼下がり。社交界の集まりから上機嫌で帰ってきたエノーレアが、唐突にクロエを呼びつけた。
「来月、うちでお茶会を開くわ。庭の花壇の配置が気に入らないの。全部植え替えて」
「全部でございますか。二週間でそれは——」
「やれって言っているの。昼間は普段の仕事があるんだから、夜中にやっとくこと。いいわね?」
クロエの一日は朝四時から深夜零時まで。睡眠は四時間弱。それをさらに削れと言う。
それから二週間、クロエはほとんど眠らなかった。月明かりの下、凍える手で土を掘り、苗を植え替え、水を撒いた。意識が朦朧とする中、何度も転んで膝を擦りむいた。
茶会の当日。美しく生まれ変わった庭園を前に、エノーレアは招待客たちに向かって胸を張った。
「ほら見て。この庭、私の聖なる力で花々がこんなに美しく咲いているのよ」
招待客が感嘆の声を上げる横で、クロエは壁際に立って給仕をしていた。目の下に深い隈を作り、包帯を巻いた手でティーポットを持ちながら。
エノーレアがこちらをちらりと見て、小さく口の端を上げた。
クロエは彼女に気づかれないように、拳を握るので精一杯だった。
♦︎
エノーレアの企画した茶会には、柔和な笑みと落ち着いた物腰の青年が招待されていた。
名前はクラウディス・イグニストア。エノーレアの婚約者だった。
「ようこそいらっしゃいませ、クラウディス様。今日は私の聖なる力で屋敷を特別に清めてお待ちしておりましたの」
「ありがとう、エノーレア。素晴らしい屋敷だね。実に清潔で——」
と、クラウディスの言葉が途切れた。
視線が、エノーレアの向こう側に流れる。
午後の陽光が斜めに差し込む廊下で、クロエが拭いた窓だけが異様に透き通っている。ガラスが消えたかのように、外の庭園の緑がくっきりと見えた。
「——あの窓は、何か特別な加工を? まるでガラスがないみたいだ。すごいな」
クラウディスの目がクロエに向いた瞬間、エノーレアの背筋に冷たいものが走った。
三年前と、同じだ。
アルベルトが足を止め、クロエを見て、笑いかけた——あの日と。
「さ、クラウディス様、応接間へ——」
「少し待ってくれ。——すまない、この窓、どうやって磨いているんだい? 技術に興味があってね」
クラウディスはクロエに歩み寄った。アルベルトと同じ、柔らかい笑顔をクロエに向けている。
エノーレアの頭の中で、何かが弾けた。
また。また、またこの女だ。私の大事な場面で、私が狙った男の目を奪う。アルベルトの時と同じことが、今度はクラウディスの前で起きようとしている。
「──クロエ」
エノーレアの声が、廊下に低く響いた。招待客の何人かが足を止めた。
「あなた、また男の気を引こうとしたわね。アルベルト様の時と同じ。懲りないのね、この泥棒猫ッ」
「え? お嬢様、私は何も——」
「黙りなさい!」
エノーレアの声が裏返った。もう理性は残っていなかった。あるのはただ一つ、この女を今すぐ目の前から消したいという衝動だけだった。
「たかが平民の侍女風情が! 身の程を弁えなさい。今すぐ荷物をまとめて出て行きなさい!」
招待客たちの前での絶叫。クラウディスが眉をひそめた。だがエノーレアの目にはもう何も映っていない。
「——お嬢様、奉公契約が、まだ」
「契約? ああ、あの借金ね」
エノーレアは鼻で笑った。
「いいわよ、帳消しにしてあげる。金なんかどうでもいいの。とにかくあなたの顔を二度と見たくない! 今すぐ消えなさい! 一秒でも早く!」
エノーレアは気づいていなかった。自分がどれほど愚かな選択をしたかを。嫉妬に目が眩んで、自分の屋敷を——自分の生活を——守っていた唯一の存在を、自ら追い出したことに。
クロエは五秒ほど沈黙したあとで、深々と頭を下げた。
「……承知いたしました。七年間、お世話になりました」
エノーレアは何一つ間違っていないと信じていた。むしろ、あの泥棒猫を早く追い出さなかった自分を悔いていたくらいだ。
これでもう、誰も私の邪魔をしない。この屋敷は私の聖なる力で守られている。クロエなんかいなくても、何も変わらない。
——何も、変わらないはずだった。
♦︎
王都に着いたのは翌日の昼過ぎだった。
グランツェル伯爵邸を追い出され、借金がなくなった身軽さは格別だったが、代わりに今度は仕事がない。手持ちの金で食いつなげるのは数日がいいところ。
職探しがてら中央広場を横切ろうとしたクロエは、ふと足を止めた。広場の大噴水——王家の紋章が刻まれた由緒ある代物——の水が、茶色く濁っている。
「立派な噴水なのに、お手入れされてないのかな。もったいないな」
クロエは昔から汚れを見ると放っておけない。
ポケットからおばあちゃんの形見の布巾を取り出し、噴水の縁を拭いた。
瞬間、噴水全体が白い閃光に包まれた。
光は水柱に沿って天を衝くように立ち昇り、濁りが嘘のように消え、透き通った水が七色の虹を作った。彫刻に刻まれた古代文字が淡く輝き、本来の魔力を取り戻したかのように水が力強く噴き上がる。
広場にどよめきが広がった。
「——今、何をした」
背後から低い声がかかった。漆黒のローブを纏った長身の男が、信じられないものを見る目でクロエを凝視している。胸元に、王家直属の魔導師にだけ許される白金の紋章。
「すみません、汚れてたので、つい」
「この噴水は『星辰の泉』。建国期の国宝級浄化魔道具だぞ。百年分の瘴気が蓄積し、一級魔導師十人がかりで三日かけても浄化できなかった。それを布巾ひと拭きで祓ったのか?」
「え、えーっと祖母に教わったやり方で拭くと汚れが落ちるんです……。私、なにかまずいことを……?」
クロエは額にだくだくと汗を蓄えながら言う。
「君、仕事は何をしている」
「昨日クビになったばかりで今は何も……」
「そうか、ならちょうどいい。今から王宮に来てくれ」
「え、ええ? いやでも私、これから職を探さないといけなくて」
「君にはぜひ王宮で働いてもらいたい。報酬は——」
彼が告げた月給は、伯爵邸での年収を遥かに上回る額だった。
「え、そんなに……。でも私、ただの平民で、お掃除くらいしか……」
「君は自分の力をわかっていないようだな。行きしな説明しよう」
「は、はい」
「自己紹介がまだだったな。私はルーカス・ヴァイスベルク。王宮で魔導師をしているものだ」
「く、クロエ。クロエ・ミュランデルです」
王宮までの馬車の中で、ルーカスは淡々と説明した。
「まず聞くが、君の祖母はどういう人物だった」
「田舎の村のおばあちゃんです。薬草を摘んだり、家の掃除をしたり……あ、でも村の人が体調を崩すといつも呼ばれてました。おばあちゃんが手を当てると、大体の病気は治っちゃうんです」
「……それは恐らく浄化魔法による治癒だ。しかも口伝で孫に伝授できるほどの使い手か」
ルーカスは軽くこめかみを押さえた。こんな逸材が辺境の村に埋もれていたことへの、魔法行政の責任者としての頭痛だろう。
「単刀直入に言う。君は聖女だ」
「は?」
「聖女といっても、浄化魔法の使い手自体は珍しくない。貴族の家系に多いし、『我が家には聖なる力がある』と自慢する者は掃いて捨てるほどいる。だがそのほとんどは、せいぜい水の濁りを取る程度の力だ。——先ほど噴水で君がやったことは、その延長線上にはない。本来なら国家事業として魔導師団が行う作業を、一人で、しかも片手間でやってのけている」
「いやいやいやいや。私なんてそんな……」
「自覚がないとは罪なことだな……」
ルーカスは馬車の窓の外を見た。
聖女だと言われても、クロエには実感が一ミリも湧かない。ただ、この人が嘘を言うようには見えなかった。
「あの……それで、王宮では何をすれば」
「浄化だ」
「……浄化」
「君がやってきた掃除と同じだ。さっきも言ったが相応の対価を払う。国宝級の仕事には国宝級の報酬が当然だろう」
王宮に着いたクロエは、用意された部屋を見て固まった。
ふかふかのベッド。窓からは庭園が見える。テーブルの上に温かい食事が並んでいる。
「あの、これ全部私の……?」
「ああ、不満があれば言ってくれ」
「不満なんてあるわけないです! ベッドがふかふかで……こんなの初めてで……!」
叩かれない。怒鳴られない。紅茶をわざとこぼされない。洗濯を四度やり直させられない。皿についた自分の血を理由に金を取られない。
その夜、柔らかい布団の中でクロエは少しだけ泣いた。七年間の日々を思うと、少しだけ辛かったのだ。
翌朝から、ルーカスの指導が始まった。
「昨日説明した通り、君には人にはない力を持っている。だがその力の使い方がまるでなっていない」
「は、はあ……」
「今の君は、言ってしまえば大砲で釘を打っているようなもの。威力こそ出ているが、力のほとんどが拡散して無駄になっている」
クロエが「おばあちゃんの知恵」としてやっていた浄化魔法は、完全な我流の力任せだった。莫大な魔力を持つクロエだからこそ結果は出ていたが、効率で言えば一割以下。
伯爵邸で毎朝二時間かけていた掃除は、正しい運用を覚えれば数秒で終わる仕事だったのだ。
「意識の向け方を変えるだけでいい。汚れを一つ一つ『落とす』のではなく、空間全体を『清める』と念じろ」
「や、やってみます」
クロエが教わった通りにモップを一振りすると——廊下全体が白い光に包まれた。石畳だけでなく壁も天井も窓も、触れてすらいない場所まで一瞬で清浄になる。
「……なにこれ」
「一度言われただけでできるとはな。これが君の本来の力だ。この力を見抜けなかった君の雇い主はとんだ愚か者だな」
ルーカスは淡々と言った。
二週間の訓練で、クロエの浄化魔法は文字通り別次元に到達した。かつて二時間かけていた仕事が、今ではモップ一振りで済む。だがクロエの感覚は変わらない。「お掃除がすっごく楽になった」。ただそれだけ。
♦︎
同じ頃——クロエを追い出した伯爵邸では、崩壊が始まっていた。
最初の異変は翌朝。銀の食器が一晩で真っ黒に変色した。
「何よこれ! ちゃんと洗っておきなさいよ!」
三日目、庭の薔薇が黒く縮んで枯れた。クロエが眠らずに植え替えた、あの花壇だ。
「せっかくの薔薇が……庭師をクビにしなさい!」
一週間後、屋敷の壁に黒い染みが広がり、拭いても消えなくなった。夜になると屋敷の周囲を黒い影がうろつく。使用人たちが恐怖で次々と辞めていく。
すべてはクロエが毎日抑え込んでいた瘴気の仕業だった。伯爵領は元来瘴気が濃く、放置すれば魔物を呼ぶ危険な土地。それをクロエが七年間「お掃除」で完璧に浄化していたのである。
「もしかして、私の聖なる力が弱まってる? ありえないわ。あの平民が長年うろうろしていた穢れが出てきてるのね。クロエのやつ、居なくなっても迷惑かけるんだからっ」
エノーレアは現実から目を背け続けた。
クロエが去って二週間。伯爵邸は見る影もなく荒廃していた。
壁は黒い染みに覆われ、天井の隅に瘴気の筋が走り、庭は枯れ木と黒い泥の荒野と化している。使用人は半分以上が逃げ出した。
だがエノーレアは婚約披露パーティーを強行した。大量の香水で腐臭を誤魔化し、婚約者のクラウディス・フォン・エルデンシュタイン子爵を迎え入れる。
シャンデリアの下、乾杯のグラスが掲げられた——その瞬間、地の底から地鳴りが響いた。
壁の黒い染みが一斉に脈動し、膨れ上がる。天井から黒い霧が滝のように流れ落ち、窓ガラスが内側から次々と弾け飛ぶ。割れた窓から、瘴気に引き寄せられた魔物の群れがなだれ込んできた。
悲鳴。パニック。正面扉は黒い霧に覆われて開かない。
「エノーレア! 君は聖女だろう! その力で魔物を祓ってくれ!」
クラウディスに掴みかかられ、エノーレアは震える手を掲げた。
何も起きない。光も出ない。当然だ。最初から何の力もないのだから。
「おかしい……どうして上手くいかないのよ——」
黒い霧がゲストを取り囲み、逃げ場を潰していく。誰もが死を覚悟したとき——正面扉が蹴り開けられた。
「瘴気の異常集積。やはりここか」
ルーカスが足を踏み入れる。その隣に、純白のメイド服——王宮の聖女祭服をメイド服に仕立て直した特注品——を着た女性が、肩にモップを担いで立っていた。
「クロエ……!?」
いつも陰気な顔をしていたクロエが、背筋を伸ばし、隈のない顔で、堂々と立っている。たった二週間で、こんなにも人は変わるのか。
クロエはホールを見回し、ため息をついた。
「うわあ。二週間お掃除サボるとこうなっちゃうんですね」
モップを下ろし、両手で柄を握った。目を閉じる。
モップの先端を——とん、と床に突いた。
それだけだった。
石畳に触れた瞬間、クロエを中心に真白い光が爆発した。光は同心円状に広がり、黒い霧を焼き消し、魔物を塵に還し、壁の染みを剥がし、割れた窓すら元に戻す。ホール全体が、床も壁も天井も、触れてすらいない場所まで——一瞬で、清浄に塗り替えられた。
淡い光の粒子がクロエの周りに舞う中、ゲストたちが一人、また一人と跪いていく。
エノーレアを除いた、全員が。
§
ホールの中央で、エノーレアだけが立ち尽くしていた。
全員の視線が——畏敬も、称賛も、感謝も——クロエに向けられている。あの紅茶をわざとこぼした侍女に。あの洗濯を四度やり直させた侍女に。あの頬を叩いた侍女に。
ようやくエノーレアは理解した。
己に聖女の力はなく、クロエによってこの伯爵邸が守られていたことを。
この女を取り戻すしかない。もう一度こき使って、それで、聖女の力を取り戻す……!
「クロエ! ちょうどいいところに来たわね。今すぐ私の侍女に戻りなさい! よくよく考えてみたら借金帳消しなんておかしいもの。お給料を倍にしてあげるから、早くうちのメイド服に着替えてきなさい」
高圧的に言いながらクロエへと手を伸ばす。が、その手はクロエには触れられなかった。
「触らないでいただこう」
ルーカスがエノーレアの手を払い、クロエの前に立った。纏う魔力の圧がエノーレアにのしかかる。
「彼女は我が国の至宝であり、王宮が正式に迎えた専属聖女だ。そして——私の大切な婚約者でもある」
「婚約者……ですって……?」
「あ、そうなんです」
クロエが照れくさそうに頭を掻いた。
「なんか、気に入ってもらえたみたいで」
ルーカスは一切の感情を消した目でエノーレアを見下ろした。
「エノーレア・フォン・グランツェル。貴女は『聖女』を僭称し、王家への年次報告書に『聖女の力により領地は安全に管理されている』と虚偽の記載を行っていた。危険指定されるべきこの土地への王宮の調査を七年間妨害した上、瘴気を放置し、本日の招待客を含む多数の貴族の命を危険に晒した。国家詐称罪、および領主安全管理義務違反。王宮から正式に調査団が派遣される」
「わ、私は悪くないわ! 全部クロエが勝手に——」
「知らなかったのに自分の力だと主張していたのか。知っていたなら詐称、知らなかったなら虚偽報告。どちらにせよ罪は免れない」
あれだけ巧みに他人のせいにしてきたエノーレアが、初めて言い返す言葉を失った。
沈黙の中、クラウディスが一歩後ずさった。
「エノーレア……君には聖女の力がなかったのか。婚約の条件だった『聖女の血統』も全部嘘だったのか」
「違うの! 私には——」
「もういい。婚約は白紙だ」
クラウディスは背を向け、一度も振り返らずにホールを去った。
エノーレアの膝が崩れ、冷たい石畳に手をついた。
その目の前に、すっとかがんだクロエが、一枚の羊皮紙を差し出した。
「エノーレアお嬢様。最後に一つだけ」
「……何よ」
「これ、過去五年分の請求書です。瘴気が出始めたのはちょうど五年前からなので」
羊皮紙には几帳面な文字で項目が並んでいた。
『危険瘴気区域における日次浄化業務、過去五年分。および魔物抑制の危険手当……』
よくわからない字面が大量に明記されている。エノーレアが眉を寄せると、クロエが続けた。
「これまでずっと、ただの侍女のお給料しかいただいてなかったんです。しかもそこから皿の弁償だのドレスの代金だの色々と引かれまして、手元にはほとんど残りませんでした。でも実際にやっていたのは聖女の浄化業務だったそうで——ルーカス様に相場を教えていただきました」
クロエはトンと指先で、羊皮紙の下部を示した。
「合計で金貨一万枚お支払いください」
「金貨一万!? そ、そんな額……払えるわけがないでしょう!」
「でもお仕事はきちんといたしましたよ。一日もお休みせずに」
クロエの声は穏やかだった。怒りもない。恨みもない。ただ事実を述べているだけ。
「お嬢様に頬を叩かれた日も。紅茶をこぼされた日も。眠らずに花壇を植え替えた夜も。血が出るまで皿を洗った冬の日も。——一日も欠かさず、朝四時に起きてこの屋敷をお掃除しました」
一つ一つ、淡々と数え上げられる言葉が、エノーレアの顔から最後の血の気を奪っていく。
ホールに残ったゲストたちが息を呑んだ。七年間の仕打ちが、たった数行の言葉で白日の下に晒された。
「お屋敷と領地の評価額も調べていただきました。全部売却すれば、ちょうど足りるそうです」
クロエはにっこりと笑った。侍女の仕事で培った、完璧な営業スマイルだった。
「——きっちり、お支払いくださいね」
その後の顛末は、王都の社交界であっという間に広まった。
グランツェル伯爵家は賠償金を払いきれず、領地と屋敷を王家に没収。当主は謹慎処分。エノーレアは聖女僭称の罪で爵位を剥奪され、北方辺境の修道院へ送られた。
修道院での暮らしは質素を極めた。毎朝五時起床。祈りの後は一日中、礼拝堂の床の雑巾がけ、厨房の皿洗い、庭の草むしり。かつてクロエに押し付けていた仕事のすべてを、自分の手でやらなければならない毎日。
しかも、どれだけ擦っても床は綺麗にならない。光も走らないし、黒い染みは消えない。修道院長に「もっと丁寧に」と叱られるたびに、クロエの姿がちらつく。
あの侍女が当たり前のようにやっていたことが、こんなにも大変で、こんなにも自分にはできないのだと——。
皮肉にも、それはエノーレアが人生で初めて、他人の仕事の価値を知る瞬間だった。
だがそれを知ったところで、失ったものは何一つ戻らない。
♦︎
王宮の長い廊下を、朝日が照らしている。
クロエは今日もモップを手に、石畳を丁寧に磨いていた。鼻歌交じりにモップを動かす。
「クロエ、休憩にしないか。茶を用意させた」
ルーカスが執務室から顔を出した。
「もうちょっとだけ。この角の拭き残しが気になって」
「……君は国家最高位の聖女なんだが」
「でもお掃除が仕事ですから」
モップをひと振りすると、淡い光が廊下を走り、石畳が鏡のように輝いた。
「それに綺麗になると気持ちいいでしょう?」
もう、頬を叩かれることはない。紅茶をこぼされることもない。眠れない夜も、血が滲む手も、終わらない借金もない。
この国で最も高い給料をもらっている聖女は、今日もこの上なく幸せそうに床を拭いている。
それを見たルーカスが、誰にも見せたことのない穏やかな表情で——ほんの少しだけ、口元を緩めたのだった。




